プリウスとはぐれメタル

松本周

第1話

「目の前にあるものを、ただその通りに描けばいいだけなのに、何故それが難しい?」

 プリウスはそう呟いて、筆の汚れを落としてからバケツの水を足元に捨てた。水は土に染み込んで消えていき、歩くような速さの風が通り抜ける。

 絵の具と筆を箱にしまって片付けると、彼はイーゼルに立て掛けられた自分の絵と向かい合った。目の前に広がる雑木林を写し取った絵と、絵の背後に広がる現実の風景を見比べると、波のような深い緑のグラデーションの向こう側に、角度と色が異なる、同じような光が射している。光の向こうには別の世界、別の景色があるのだ、そう思ってプリウスは色を塗った。

 つい30分前までそれは、完璧に近い雑木林に見えた。画面の奥に射す光は、希望と不安をないまぜにした、昼でも夕方でもない完璧な光に見えた。

 しかし今は、ただ画面を斜めに横切っているだけの線にしか見えない。

 プリウスは林の奥に向かって指笛を吹いた。

 数秒後、背の高い草の向こうから、がさがさと騒がしい音を立てながら、小さな犬が体を上下に激しく跳ねさせて、プリウスの足元まで駆け寄ってきた。その犬の名はトニーと言った。プリウスはポケットから数十粒のドッグフードを取り出してトニーの鼻先に差し出した。トニーは最初の一舐めでそれを全て口に入れてしまった後、水彩絵の具で汚れたプリウスの手のひらをぺろぺろと舐め続けた。

 プリウスはトニーの頭をごしごしと撫で、キャンピングチェアから立ち上がり、大きく伸びをした。ひとしきり深呼吸すると、プリウスは崖の傍まで歩いて行き、草むらの上に寝転がった。トニーは彼の隣で体を丸めてうずくまった。

 頭の下に腕を敷き、少し顔を上げると、山の登山道から少し脇にそれたその場所からは、街と、港が見下ろせた。

 風が吹いている。半袖のシャツの中に、涼しくも熱くもない海風が入り込んでくる。その風は彼の全身を包み通り抜けていく。この風はもうそれほど長くは続かない、とプリウスは思った。間もなく雨の季節がやってきて、それがいつ終わったのかも分からないうちに夏がやってくる。

 よく晴れた、透明に近い色の空が街中を照らしていた。誰かが適当に引いた線のような細い道を、虫の行列のようになって車が走り、街の真ん中を流れるやたら水深の浅い川に、赤く錆びた橋が点々と架かっている。立ち並ぶ建物の屋根は、黒や灰や茶のつまらない色が目立つ。プリウスの視線は自然と、その向こうの砂浜と、船が停泊する港と、そして更に奥に広がる海に引きつけられて行った。小さな街、小さな港に比べ、海はとてつもなく大きく、彼の興味を呼んでやまないのだった。

 いつもそうだった。彼はほとんどの場合、動いているものや、輝いているものや、色鮮やかなものや、巨大なものに目を引きつけられた。海はその全てを併せ持っていたから、好んで何度もそれを絵に描いた。

 だが一度も、上手く描けたことはなかった。

 海は最も難しかった。大きすぎ、美しすぎ、そしてすぐに変化してしまい、時々完璧なイメージを一瞬捉えたと思っても、すぐに別の何かに塗り替えられてしまった。

 もっと美しい絵を描けるようになりたい、とプリウスは思った。もっと強い絵を描きたい。もっと優しい絵を描きたい。もっと大きな絵を描きたい。ちっとも上手くなくていいから、もっと完璧な絵を描きたい。

 プリウスはその方法を知らなかった。到達すべきイメージは、ビジョンは、既に自分の中にあるような気がした。しかしそれに到達するための方法が分からない。彼は自分の考えや感覚を言葉にするのが苦手だった。だから彼はただひたすら描き続けた。

 光り輝く海を見つめ続けていると、視界がぼやけてきて、彼は何度も瞬きをした。瞼の裏が緑色に染まり、色がばらばらになった。それでもプリウスはじっと水平線と空の境を見つめ続けていた。

 遥か向こう、太陽の光が海に打ち下ろされるそのちょうど真下に、空と海のほんの一滴分が欠けたような粒が見えるのに、彼は気が付いた。眩しい光の中で色と形はほとんど分からなかったが、それの正体を彼はすぐに察した。

 水平線の向こうから、船がやって来るのだった。

 良く見る光景だった。港に停泊する漁船や、離島に就航するフェリーが海の向こうから戻ってくる姿は彼の好きな題材のひとつで、何度も絵に描いてきたものだった。

 だからプリウスは、何故自分の腕に鳥肌が立っているのか分からなかった。

 プリウスは上半身を完全に起こして、船らしきその粒を見つめた。それはほんの少しずつ大きくなり、確実にこの港街に向かって来ていた。

 間違いなく船だ。しかしいつもと何かが違う。

 何が違うのか分からない。

 プリウスは傍らで丸まるトニーの頭を撫でた。トニーは頭を起こし、プリウスを見上げた。プリウスはトニーの方を見もせず、小さな顔を片手で掴んで、近づいてくるその粒の方に無理やり向けさせた。

 お前の方が目がいいのだから代わりに見てくれないか、そうプリウスは思った。

 だがトニーはプリウスの脇腹に鼻を押しつけるだけだった。

 プリウスはじっと目を凝らした。ゆっくり、動いているのが確認できないほど僅かに、少しずつ近づいてくる船の形を、見ると言うよりも、想像した。

 この街の船ではない。

 プリウスはそう思いながら、太陽の光も、風も、足元に広がる緑も、そして海の香りも、何も感じなくなって、ただその一点に意識を集中させた。何度も深呼吸をして、その船の形を辿った。

 そして気が付いた。何がいつもと違うのか。

 光と海と影のバランスが狂っている。いつもの粒はもっと小さく、そして現れてからはもっとすぐに全景が見渡せ、そして一気に近付いて来た。

 あの船は違う。あの船は大きすぎる。まだ全体が見えない。

 プリウスは息を飲んだ。

 船の形がはっきりした時、プリウスは立ち上がった。

 かき分けられる波の大きさも、押し寄せてくる質量も、これまで見慣れたものと、次元が違う。

 とてつもなく巨大な船がやってくる。こんなでかい船は見たことが無い。

 船の汽笛が鳴らされる。プリウスからは小さく遠すぎて見えないが、眼下の町中がざわめきだし、人々が港に向かって集まって行く。歓迎放水の準備が始まり、市長をはじめとした役人たちが慌てふためいて到着を待ち構える。

 プリウスは踵を返し、イーゼルに立て掛けられたままのスケッチブックを掴みとり、画材入れから鉛筆を取り出し、崖の上に戻ってきて胡坐をかいて構えた。

 プリウスは、初めて見るその船の名前を既に知っていた。海の旅に少しでも憧れたことがある者なら誰でも知っている。それが、世界最大の豪華客船だったからだ。

「ブライト・サイズ・オーシャン」、それがその船の名だった。

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