第23話

 目が覚めると、開けっ放しにしてあったカーテンから光が差し込み、プリウスの絵を照らしていた。

 ベッドの上で起き上がり、目をしばたたかせながら窓の外を見ると、世界全体が光と青に満ちていて、空気の一粒一粒に至るまで晴れていた。限りなく完璧な青空だった。

 プリウスはしばらく窓の外を眺めた後で、部屋の中に振りかえった。部屋の真ん中に置かれたブライト・サイズ・オーシャンの絵が輝いていた。プリウスはじっとその絵を見つめた。絵そのものに少しでも輝きがあるのか、単に辺りが輝いているのか、プリウスには見分けがつかなかった。プリウスは腕を組み、鼻で深く息を吐いた。今の自分の感覚は、数時間前に筆を置いた時の感覚よりも大きいのか小さいのか、この絵は筆を足す前よりもいい絵になったのかつまらない絵になったのか、分からなかった。プリウスに分かったのは、この絵が完成したということだけだった。

 立ち上がり部屋を出て、洗面所で顔を洗い、リビングに出ていくと、部屋の中はトーストとバターの香ばしい匂いに包まれていた。プリウスの母がサラダがいっぱいに入ったガラスのボウルをテーブルの上に運んでいるところだった。タイムはテーブルにランチョンマットを敷き、フォークとスプーンを人数分並べていた。プリウスの足に、トニーが舌を出して飛びついた。

「おはよう」とプリウスの母とタイムは同時に言った。

 プリウスは微笑んで頷いた。

 プリウスはリビングを見回した。父の姿が見えなかった。代わりに、ひまわり畑の前で笑う父の写真が、いつも通りテーブルの片隅に置かれていた。

「お父さんはまだ柱を直してる」とタイムが言った。

 プリウスは頷いて椅子に座り、トーストにバターを塗った。パンは完璧に焼き上がって黄金に輝き、カリカリとした表面のすぐ裏は熱くふわふわとして、齧ると小麦の香ばしさと甘みが口いっぱいに広がった。プリウスはあっという間に一枚食べてしまうと、ボウルからトングでサラダを山盛り皿に移し、ドレッシングを掛けてがつがつと食べた。母がプリウスの前に良く焼けたソーセージとベーコンとサニーサイドアップの目玉焼きが載った皿を差し出すと、プリウスはそれを次のトーストの上に載せて一気に食べた。

 プリウスは両手を目の前で合わせて皿を片付けると、バスルームに行ってシャワーを全身に浴びた。頭を洗い、体を洗い、顔を洗顔料で洗い、熱いお湯で全て流した。バスルームを出て、タオルで全身を拭き、部屋に戻って下着を穿いてブルーのボーダー柄のTシャツを着て窓の前に立つと、気が遠くなりそうなほど心地よい風が吹いた。

 ジーンズを穿いて一階に降りていくと、プリウスはトニーを見つけて抱きかかえ、玄関まで連れていった。いつも通りの朝の散歩に行くためだった。リードを首輪に引っ掛け、スニーカーを履いて外に出た。

 疲れきった顔で柱のペンキを塗っているプリウスの父が、おはよう、と言った。プリウスは頷き、トニーは、わん、と一声吠えた。ど派手な車の横を通り過ぎて、プリウスとトニーはいつもの散歩コースを歩いて行った。車が時々すぐ傍を走り抜け、郵便局員のバイクとすれ違った。風が柔らかく吹いていて、シャワーを浴びたプリウスの体の熱を冷ましていった。遠くから聞こえる波の音はごく静かで、ぼーっ、という汽笛の音が遠くで鳴り響いた。

 プリウスは途中で普段の散歩コースを離れ、港の近くまで歩いて行った。防波堤の上から港を眺めると、荷下ろしをする船や、その反対に出港間際のフェリーの姿があった。それらはこの港の風景にちょうど良い大きさで収まっていた。数日前までそれとほとんど同じ場所に三〇〇メートルを超える巨大旅客船が泊まっていたのが信じられなかった。

 プリウスはトニーとゆっくり街を歩いた。喫茶店の前を通り過ぎ、高校の近くの坂の麓を通り、工場の前を通り、朽ち果てたガソリンスタンドの前を通り、家の裏のブナの林を通り抜けて帰って来た。その間、プリウスはほとんど何も考えなかった。海から港に向かって吹く風と一体になったような感覚がした。

 プリウスはトニーと一時間以上散歩した。家に帰ってトニーの足を洗って家に上げると、リビングから微かにお茶の香りが漂ってきた。部屋の中に顔を出すと、帰って来たか、とプリウスの父が言った。

「パセリ座れ。祝・柱補修完了ティーパーティをしよう」

 テーブルの上に、「和菓子 咲耶」の和菓子がいっぱいに並べられていた。いちご大福をはじめ、団子や最中、カステラ、花をかたどったねりきりが皿に盛られ、テーブルを上品に色鮮やかに染めていた。

 プリウスは頷いて椅子に座った。タイムは既に団子をぱくぱく食べていた。プリウスの母がお茶を出して椅子に座ると、トニーが飛び上がってその膝の上に乗った。

 本人がいるにも関わらず、プリウスの父の写真がテーブルの上に出しっぱなしだった。

「よし」とプリウスの父は自分の写真立てを抱えて言った、「これで家族全員が揃ったな。一体何年ぶりだ?」

 プリウスの父はテーブルを見回した。

 しかし誰も答えなかった。全員が天井に向かって顔を上げ、無言だった。別に無視しているわけではなく、誰も正確に思い出せないのだった。

「お父さん一体どこに行ってたの?」とタイムが言った。

「いろんなところに行ったよ」とプリウスの父は言った。「アメリカにもアフリカにもヨーロッパにも行った。海の上で何カ月も過ごした。いろんな人たちに会った。その人たちを手伝っていた。鉱山で宝石を掘って、石油のプラントを作って、病院を立てた。遊園地も作った。そうしたらみんなが俺にびっくりするほどお礼をしてくれるんだ。いろんな言葉を話せるというのは便利なものだ」

「お父さん、本当に外国語喋れるの?」

 タイムがそう訊くと、プリウスの父は物凄い早口でなにかを喋った。だがそれは、レコードを逆回転させたような、風が唸るような音で、全く単語として聞き取れなかった。

「なに? なんて言ったの?」

 プリウスの父はまた同じ調子で言葉を繰り返した。

「全然何言ってんのか分かんない」とタイムは言った。

「これは中央アジアのトルクメニスタンとアゼルバイジャンの間辺りで生活している原住民の言葉だ。彼らは二〇人ばかりで集落を作っていて、今の言葉はこの世界で彼らしか使う者がいない。その民族の名前はない。もちろんあると言えばある。しかしそれはちょうど、アイヌという言葉がアイヌ語で『人間』を意味するのと同じように、自分たちとほかの民族を区別するために作られた言葉じゃない。自分たちよりも大きなものと自分たちを区別するための言葉だ」

「自分たちより大きなものって?」

「神様だよ」とプリウスの父は言った。「そこには神様がいた。俺も神様に会ったよ。会える時間が決まってるんだ。物凄く朝早く、陽が昇る前に、聖なる山の上に登る。そこで膝を突いて待っていると、山脈の向こうから神様が現れる。神様は赤くて黄色くて途轍もなくでかい。そして美しい。それを見て俺が凄え、と言ってたら、長老が言うんだ。神様は偉いが、神様はあの光だけじゃない。光が投げかけられた先にある全てのものだって。神に照らされたものは全て神になる。俺の足元の地面に広がる草も、山も、花も、猿も、そして俺自身も神だって。それどころか目に見えるものも見えないものも全部神様だと。悪くない考え方だ。

 俺はいろんな場所で色んなものを作った。でもあの場所と彼らには何もしなかった。ただ話をしただけだ」

「さっきの言葉はなんていう意味?」

「『腹が減った』だ。食べよう」

 プリウスの父とタイムはいちご大福を齧った。

 おいしい、とタイムが言った。

「そうだろう」とプリウスの父は微笑んで言った、「このいちご大福には、魔法が込められている。250年の昔からこの地に伝わり、一子相伝で受け継がれ」

「250年も昔なんかじゃないわよ」とプリウスの母がお茶を啜って言った、「精々40年くらい前だわ。私店主のおばあさんに聞いたもの」

「え?」とプリウスの父は言った。

「本当と嘘を一緒に喋る癖、一生変わらないんでしょうね」とプリウスの母は微笑んで言った、「それとも全部嘘?」

「いや、本当だ」とプリウスの父は言った、「少なくとも喋ってる瞬間は」

「パセリはこの和菓子、昔食べたことがあるのよ」とプリウスの母は言った、「タイムが生まれて、ここに引っ越してくる前にね。もう覚えてないかしら」

 プリウスは首を横に振った。

「前に住んでたところは、凄く静かで、水がおいしくて、森が近いところだったでしょう。気候も良くて、近所においしい和菓子屋さんとか小料理屋さんがあって、とっても住みやすいところだったわ。咲耶、まだあったのね。懐かしい。あの時と何も変わらなくて、おいしいわ」

 プリウスは首を傾げた。

 そして眉間にしわを寄せた。

 プリウスは、自分の指先につままれた、半分が欠けたいちご大福の断面をじっと見つめた。

「でも、10年ちょっと前、そこら一帯が商業施設になることが決まったでしょ。私たちはパセリたちの通う学校の事も考えて、ここに引っ越してきたの」

「次は海の近くに住みたかったんだ。でかいものが好きでな」とプリウスの父は言った、「けど久しぶりにこいつが食いたくなったんだ。で、家に帰る前に店に寄ってきた」

 プリウスは母の顔をじっと見つめた。

「でも、パセリは引っ越しする前も、後も、しばらくは凄く泣いてたわね。あなたがあんなに泣くなんて」

 プリウスの目の前で、風景が歪んだ。俯くと、いちご大福の赤と白の断面が、細かく震えていた。それを持つプリウスの手が震えているのだった。

 何故震えているのか分からなかった。

 プリウスには泣いている自分の姿が見えた。ずっと前からそこにいたかのように、ごく自然とその姿が見えた。その背後の景色も。自分はそこにある何よりも小さく、風景はどこまでも広く深く大きい。深い緑色の、陰影の濃い森と、そこに静かに流れる川。川面に木々の枝葉を縫って光が差す。岩場に腰掛けて、自分は絵を描いている。

 一人で?

 違う。

 プリウスは首を横に振った。

 他に誰かがいる。

 プリウスはいきなり立ち上がった。

 テーブルの上の湯呑みが揺れ、プリウスの父の指にお茶が掛かった。プリウスの父は、熱っ、と叫んだ。

 プリウスはリビングを走り出て、階段を駆け上がり、自室に飛び込んだ。部屋を横切り、机の上に置かれたスケッチブックを開いた。ページを繰る。カブトムシ、バッタ、花、魚、船、そして、二人の人間。プリウスはその絵を目を見開いて見つめた。二つの絵にはほとんど違いがない。黒い髪で、同じくらいの背の高さで、着ている服はTシャツのような何かだ。クレヨンで拙く描かれた二人は笑っている。この二人は誰だ?

 僕だ、とプリウスは思った。

 これは僕達だ。僕とはぐれメタルだ。


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