第22話

 バスに乗って駅まで戻り、電車を乗り継いで彼らの街まで戻って来るまでの間、プリウスとタカハシとポカリは無言だった。タカハシは首を傾けて眠っていて、ポカリはニコンDfを小動物をあやすように撫で続けていて、プリウスは膝の上に立て掛けた船と海の大きな絵をじっと見つめていた。トニーはプリウスの隣で体を丸めて眠っていた。

 電車にはほとんど他の乗客がいなかった。背中を丸めた老婆が一人、こっくりこっくり俯いて眠っているだけだった。プリウスは絵と、窓の外を流れていく景色を交互に眺めた。まだ夜まではしばらくの猶予があったが、分厚い雲の向こうで日が傾きかけていた。緑の畑と水田を通り過ぎ、陸橋を渡り、水の流れの少ない川を渡った。車内は影に包まれ、どこまで走っても電車の中も外も静寂に包まれていた。

 駅にたどり着いた電車から降りると、三人は改札を出てしばらく歩いたところで自然と同時に立ち止まった。

「思ったんだけどよ」とタカハシが言った、「あのショッピングモール、あの女が、はぐれメタルが経営してんじゃねえかな、最初はともかく、今は」

「な、な、何でそう思う」

「あの和菓子屋、あの女が好きだったんだろ。あの部屋も、あんな場所で暮らすようなむちゃくちゃは、経営に関わってなきゃ無理だろ。何でそこまですんのかは分かんねえけど、とにかくあの女にはショッピングモールを維持する必要があったってことだ。あの女が金を出してるっていう仮説以外に、たった2店舗しかねえ、土曜日の来客が10人ちょっとのショッピングモールを、あれほど清潔に維持できてる理由が説明できねえ。餃子の王将のことは良く分かんねえけどよ」

「ま、ま、ま」とポカリは言った、「マウンテンはどうなったんだろう」

「分からんな。あいつ携帯持ってねえし」とタカハシは言った。「望み通りはぐれメタルと一騎打ちできたのかもしれん。それで勝ったのか負けたのか。バイクを取り戻せたのか取り戻せなかったのか。分からん。けどよ、どっちにしろもうそういうのも終わりなんじゃないのか? ひょっとして」

「お、お、終わり?」

 タカハシはポケットの中からアポロを取り出して、口の中に一粒放り込んだ。

「俺たちはあの女に盗られたものを全部取り返した。ツイッターであの女は、プリウスの部屋にうじゃうじゃいた動物たちのことを『最後のプレゼント』だと言ってた。それは、俺らはもうあの女に貸しはないってことだし、もうあの女はこれ以上俺らやプリウスに関わる気ないってことだろ。それって、もう終わりってことじゃねえか。あのショッピングモールがいつまで営業続けるか知らんが、あんなど田舎まで俺らが行くことはもうないだろう。餃子の王将はここから徒歩10分のところにもあるし、いちご大福の季節ももう終わる。マウンテンがどうなったにしても、それはもうあいつの勝った負けたの話に過ぎない。明後日の月曜日にマウンテンが停学明けて学校に出てきたら、あるいは少なくとも死んでないのを確認できたら、それで全部終わりじゃねえのか」

 タカハシはプリウスの顔を見つめた。プリウスは甘いものと苦いものを同時に噛み砕いたような顔で、タカハシを見返していた。悲しげな表情でもあり、疲れ切った表情でもあり、脱力した表情でもあった。そしてそれ以外の何かを含んだ表情に、タカハシには見えた。

 タカハシはプリウスが抱きかかえるトニーの顎の下を軽く撫でて、じゃ、またな、と言い、歩き去って行った。

 ポカリも、じゃ、じゃ、また来週、と言って、タカハシと反対方向に歩いて行った。

 プリウスは去って行く二人の背中を見つめ、トニーを下ろして歩いた。今にも雨が降り出しそうなぎりぎりでずっと堪えている分厚い雲の下、ゆっくりと帰り道を歩いた。

 終わり、という言葉がプリウスの頭の中でぐるぐると回り続けた。脳内の大半をその言葉が占め、時折、あの部屋に自分もやはり留まるべきだったのではないかという思考、そして壁に貼られた大量の自分の写真が、闇夜に射す稲光のように、断続的に頭から胸に掛けて走り、胸から頭を貫いた。トニーはプリウスの少し先をぱたぱたと歩いていったが、プリウスが追いついてこないので、すぐに走って戻ってきた。そして、何度も先に行ってはプリウスの足元まで戻って来るのを繰り返した。

 自宅にたどり着くと、いつも通り家の中からピアノと歌が聞こえてきた。そして相変わらずど派手なシボレー・カマロが停まったままで、その隣の玄関先でプリウスの父が屈みこんでいた。セメントと砂を混ぜ合わせたモルタルでバケツを一杯にして、コテで柱に塗りつけているところだった。

「おかえり」とプリウスの父は暗い顔と声で言った。

 プリウスはモルタルで汚れた父の顔を見て、首を傾げた。

「マリに俺が犯人だと一瞬でばれた。柱を直すまで晩飯抜きらしい」

 プリウスは頷いて、玄関の扉を開けた。トニーは扉を開けた瞬間、家の中に駆けこんで行った。手に持った荷物を玄関に下ろし靴を脱いでいると、家の奥から、トニー、と叫ぶタイムの声が聞こえた。歌が止んだ。

 タイムが玄関まで駆けだしてきて、タックルするようにプリウスに抱きついた。みぞおちにタイムの頭が突き刺さって、プリウスは息がつまった。

 ありがとう、とタイムは言った。「お兄ちゃん、ありがとう」

 プリウスは微笑んで、タイムの頭を撫でた。

 家の奥からプリウスの母がトニーを抱きかかえてやってきた。

「トニーの足を洗わなくちゃね」とプリウスの母は言った。「パセリ、ありがとう。夕飯の前にトニーを連れて帰って来てくれて。これまで一回も約束の時間に間に合ったことがないあの人を見習わないでくれて良かったわ」

「本当に。お父さんのあの頭おかしい車見た?」

 タイムは満面の笑顔でプリウスの顔を見上げてそう言った。そしてしばらくプリウスの目を見つめた後で、首を傾げた。

「お兄ちゃん、どうしたの?」

 プリウスは微笑んだまま、首を横に振った。

 そしてタイムから体を離し、キャンバスとカバンとバットケースを抱えて2階の自室に上がって行った。

 プリウスの母とタイムとトニーは、階段を登って行くプリウスの背中を見上げて、ドアが閉じる音がすると顔を見合わせた。

 プリウスの父がそっと玄関のドアを開けて家に入って来て、タオルで手を拭いた後でタイムの肩に手を置いた。

「何がなんだかさっぱり分からんが、とにかく良かったな、タイム」とプリウスの父が言った。

「今それどころじゃない」とタイムは言った、「お兄ちゃん、どうしたんだろう?」

 プリウスの母はトニーと顔を見合わせて、首を傾げた、「あの子があんな顔をするのは10年くらい前にお父さんが酔っ払ってパセリが描いた絵にビールを零した時以来だと思うわ」

「本当に昔からロクでもないことしかしないんだね」とタイムは言った。

「こう見えてたまにはいいこともするんだ」とプリウスの父は言った。

「たとえば?」

「たとえば」とプリウスの父は言い、深く息を吸い込んで、吐き出した、「いつかじっくり聞かせてやる。しかしたぶん、ビールどころじゃないぞ、あれは」

「じゃあなに?」

 プリウスの父は首を横に振った、「男にとって一番重要なことだ。軽々しく言葉で言えることじゃない」

「要するに良く分かんないんでしょ」とタイムは言った。「お兄ちゃん、大丈夫かな?」

 そっとしておいてあげましょう、とプリウスの母は言った。「大丈夫。ご飯が食べたくなったらきっと降りて来るわ」

 

 プリウスは自室の真ん中にイーゼルを立て、描かれた船と海の絵を見下ろした。そしてその周囲をゆっくり、ぐるぐると歩いて回った。

 プリウスはため息に似た呼吸を繰り返し、天井を見上げたり、足下を見つめたりした。天井はいつもの天井で、足下にはいつものラグマットが敷かれていた。

 あのショッピングモールの部屋にあったのと同じストライプのラグマットだった。

 プリウスは自分の胸に手を当てた。それはいつもよりも少し早いリズムを刻んでいた。

 プリウスは窓際に立ち、外の景色を眺めた。ブナの林が風に揺れ、分厚い雲に覆われたままの空が暮れかけていた。吹き込む風は湿っぽくプリウスの体にまとわりついた。雨が降るだろうか、とプリウスは思った。

 分からない。降るかもしれないし、降らないかもしれない。

 プリウスは振り返って、イーゼルの前まで戻ろうとして、留まった。

 そして机の上を見た。ペン立てやノートや読みかけの小説が置かれた木目の机の中央に、一冊のスケッチブックがあった。

 昼、この部屋に帰って来て、大量の爬虫類や虫や小動物を片付けて掃除した時には気がつかなかった。その時からここに置かれていたのだろうか。そうかもしれなかったが、それはこの部屋の中で最もありふれたものだったので気がつかなかった。この部屋の中にはスケッチブックは何百冊もあるのだ。プリウスが描き貯めたものが、子供のころから現在に至るまで、旧いものも新しいものも一緒くたになって、本棚や押し入れの奥にずらりと並んでいる。保存してあるというよりも捨てる習慣がなかったのだった。

 だがそれにしても、机の上に置かれたそのスケッチブックはひどく古ぼけていた。表紙は黄ばんで、水分を大量に吸い込んでよれよれで、中の紙も同じようにぼろぼろになっているのはページを開かなくても想像がついた。

 プリウスはスケッチブックを机の上に置いたまま、そのページを開いた。

 子供がクレヨンで描いたと思われる、下手な虫の絵があった。カブトムシだろうか。黒い体と直線的に伸びた六本の足、そして天辺で二又に分かれた太い角が、黒一色で描かれていた。

 見覚えは全く無い。しかしそれなのにひどく懐かしい絵だった。これは自分が昔描いた絵だろうか、とプリウスは思った。

 プリウスはページを捲っていった。クレヨンと色鉛筆の荒々しいタッチで、カブトムシ以外の虫たち、バッタやトンボの絵、花の絵、蝶の絵、木の絵、魚や海や船の絵、そして人間の絵が描かれていた。同じくらいの背の高さの人間が二人。頭がやたら大きくて、目はただの点で、手足は直線的だった。描かれているのは子供かもしれないし大人かもしれなかった。ページの後半になるにつれ、描き手は色使いを覚えたようで、単色でなく複数のクレヨンを使い分け、画面はどんどん色鮮やかになっていった。筆致も上達していき、デッサンと言えるほどのものではなくとも、事物の曲線と立体感を捉えるようになり、動きの一瞬を切り取ろうとする姿勢が感じられた。下手でも少しずつでも向上しようとする意識が見て取れた。

 これは自分の絵だ、とプリウスは思った。

 このスケッチブックをはぐれメタルがいつの間にか盗んでいて、自分の下に返したのだ。それとも、彼女はこの部屋に忍び込んだ時に、本棚か押し入れの奥からこれを見つけて、ひとしきり眺めた後で机の上に置いて行った。そのどちらかだろうとプリウスは考えた。

 プリウスはぱらぱらとページをめくり、自然と微笑んだ。スタイルは大分違ったが、描いているものは今とあまり変わらなかった。海に浮かぶ船の絵や、花や、動物。昔から船や海が好きだったんだな、とプリウスは思った。

 プリウスはスケッチブックを閉じて椅子に座り、キャンバスに向かい合った。目を閉じると、大海を掻き分ける巨大な舳先が見え、まばゆい光が空と海いっぱいに広がり、港に今やって来るブライト・サイズ・オーシャンの姿がはっきりと見えた。

 マウンテンが言った通りだった。とにかくこの絵を仕上げよう、とプリウスは思った。

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