第10話

 プリウスは漫画を描いた。駅前のファミレスの2階、窓際のテーブルの上で、スケッチブックにかりかりと鉛筆で線を引き続け、出来上がったものをタカハシに差し出した。

 タカハシはそれを受け取り、コーヒーを飲みながら細い目で読んだ。

 プリウスは事態の説明をするために、事のあらましを語った漫画を道路のど真ん中で描き始めたのだが、それは何十分経っても終わらなかったので、止むを得ずタカハシが腕を引いてこの店に連れて来たのだった。

 スケッチブックに描かれていたのは、先刻プリウスが絵に描いていた女が、体育の授業中に携帯電話を盗み、屋上のドアを開け、プリウスと出会い、携帯電話を返し、タカハシの机からアポロを盗み、空き箱にダイヤモンドを入れ、プリウスの机の中にブルーダイヤモンドを仕込み、プリウスの絵を盗んで去って行くまでの一連の流れだった。

 セリフが全く無いこともあって、何がどうしてこうなったのか、ということはさっぱり分からなかったが、話の流れ自体は恐ろしく分かりやすい漫画だった。線はラフだったが、効果線やコマ割がスピード感にあふれ、ズームアップ・ロングショットを使い分け、重要なコマではパースを斜めに振って迫力を出すようにするなど、無駄としか思えないほど凝っていた。こいつ漫画の才能もあるなと思いながら、タカハシは、それで、と言った。

「それでこの女は何者なんだよ」

 プリウスは首を横に振った。

 名前は、年齢は、住んでるところは、とタカハシが聞き、プリウスは全てに対して首を横に振った。

「知り合いじゃねえのか?」

 プリウスは腕を組んで首をかしげた。

 そしてタカハシはプリウスに顔を近づけ、声を潜めて言った。

「つうか、そのダイヤまじでまじかよ?」

 プリウスは真っ直ぐ頷いた。確信を持った頷き方だった。

「普通じゃねえな。あらゆる意味で」

 プリウスは頷いた。

「何でだか良く分からんが、警察には行かねえつもりなんだな?」

 プリウスは頷いた。

 事態の全容については全く不明だったが、それがどうであれタカハシの結論としては、プリウスもその女も頭がいかれている、ということに落ち着いた。自分たちの携帯電話を盗み、ダイヤを盗んだのが同一人物だとプリウスは主張していた。その根拠も、そんなことが本当に一人の女に可能なのかどうかも、タカハシには全く分からなかった。ダイヤが本物なのかどうかも分からなかった。もし、さっきちらりと見た、プリウスのポケットの中のダイヤに数百億円の価値があったとしても、それがもたらす意味はタカハシの想像を超えていた。偽物ならば無論ただのガラクタでしかないし、本物であったなら桁が巨大すぎて現実感が全く無い。タカハシは、自分がプリウスを告発して、警察に情報提供する様を想像しようとしたが、ただ四方八方に混乱が散らばって途轍もない面倒に巻き込まれるだけのような気がして、そんなことをしなければならない理由が自分の中に見出せなかった。プリウスの動機が良く分からなかったが、何にしてもこいつが自分で解決したいならそうすればいいんじゃないだろうか、と思った。タカハシは漫画の内容を誰かに話すつもりは全くなかった。まだタカハシ自身が信じていないのだから、他の誰も信じるとは思えなかった。

 しかし、仮定としてダイヤが本物だということにしよう、とタカハシは思った。

 そうでなければ目の前の男との話が先に進まないからだった。

「それで、その女の居場所について当てはあるのか?」

 プリウスは力強く首を横に振った。

 タカハシはため息をついた。そしてテーブル上の呼び出しボタンを押した。コーヒーのお代わりが欲しかった。タカハシは眉間を指で揉みほぐした。

「お待たせしました」と野太い声が響いた。

 コーヒーのお代わりを、とタカハシは言おうと思って、店員を見上げた瞬間、途中で留まった。そこに、異様に巨大な男がいて仁王立ちで自分を見下ろしていたからだった。

 マウンテンだった。

 タカハシは口を半開きにして、制服の胸元や太ももがはち切れそうになっているマウンテンのファミレス店員姿を見上げた。

 仮装したゴリラにしか見えなかった。

 タカハシとプリウスが茫然とマウンテンを見つめていると、マウンテンは、ご注文をどうぞ、と低い声で言った。

 タカハシは我に返った。

「ご注文、じゃねえよ。お前何やってんだよ」

「アルバイトです」とマウンテンは言った。

「その図体とツラで良く採用されたな」

「ありがとうございます」

「て言うかお前停学中だろ? バイトなんかしてていいのかよ」

 マウンテンは身をかがめ、タカハシの耳元に顔を近付け、恐ろしく低い声で囁いた。

「黙れ、ぶち殺すぞ」

 タカハシは頷いた。

「ご注文をどうぞ」とマウンテンはタカハシから顔を離して再び言った。

「コーヒーのお代わりお願いします」とタカハシは言った。

「ご注文は以上でよろしいでしょうか」

 マウンテンがそう言ってプリウスの方を向くと、プリウスもようやく正気を取り戻したように瞬きをして、マウンテンの目を見返した。

 プリウスはしばらくして、スケッチブックを開いてマウンテンに示した。

 先ほどタカハシに見せた、少女の顔のラフスケッチだった。

 マウンテンはゴリラのような彫の深い顔に更に皺をよせて、その絵をじっと見つめた。

 プリウスは首を傾げた。

「この女を知ってるか、ってことだよ。知るわけねえだろうけど」とタカハシが横から言い添えた。

 マウンテンは顎に指を当ててさすった。

「この方なら、十分ほど前までこちらの店にいらっしゃいましたが」

 プリウスは目を見開いた。

 数拍置いて、え? とタカハシが言った。

「あちらの席に座っていらっしゃいました」とマウンテンは言って、プリウス達とは反対側の店の奥、今は空席になっている座席を手で示した。

「本当か? お前、人類の女の顔をちゃんと判別できんのか? どんな女の客が来ても全部、これは雌である、とかくらいの認識なんじゃないのか」

 マウンテンは首を横に振って言った、「目が特徴的です。見間違いようがない」

 プリウスは立ち上がった。

 そしてスケッチブックを掴んでボディバッグに仕舞い込みながら駆け出した。

 一瞬の挙動だった。

 タカハシが声を掛ける間もなく、プリウスはあっという間に店の外に走り出て行った。ゆっくりとドアが閉じていくの眺めた後で、窓の外を見下ろすと、歩道を真っ直ぐに走り抜けて行くプリウスの姿があり、やがて道の向こうに消えて行った。

 タカハシとマウンテンは顔を見合わせた。

「なんてせっかちな奴だ」とタカハシは言った、「あいつ、どこを目指して走ってったんだ? 今の会話で、女がどこに向かって行ったか分かるような情報あったか?」

 マウンテンは首を横に振った。

「いや、何も無い」とマウンテンは言った。普段の口調に戻っていた。

「けどよ、この店にいたのは本当なんだろ。お前、自分の言葉には責任持てよ。あいつ、完全に信じたぞ」

「それは間違いない。プリウスの絵は、女の特徴を完璧にとらえていた。奴の絵には、物事の本質を掬いあげる力がある」

「その絵を描くのを休んで探さにゃならんくらい重要らしいぜ、あの女は」

「何者なんだ?」

「プリウスに直接訊け。だけど、結局はあいつ自身にも分かってないみたいだったけどな」

「お前はどうするんだ?」

 タカハシは、プリウスが飲み残していった、オレンジジュースのグラスを見つめた。

「しゃあねえから探しに行く。このオレンジジュース代、奢るつもりなんかねえ」

 マウンテンは頷いた。

「タカハシ、お前、店の下で待ってろ」とマウンテンは言った。

「何をだよ」

「俺も行く。今日はもう上がりだ」

「はあ?」

「あいつが絵を描くのを止めさせるわけにいかん」

 タカハシは、深刻な表情になったマウンテンの顔を眺めながら、片目を瞑ってうなじを掌で撫でた。

 マウンテンが店の奥に引っ込むと、タカハシは席を立ち、カウンターで舌打ちをしながらコーヒーとオレンジジュースの会計を済ませ、階段を下りて店を出た。駐車場の前でマウンテンを待ちながら、口の中にアポロを一粒放り込んで、空を見上げた。

 夕暮れが近付いていた。

 五分後、背後からバイクの排気音が轟いた。

 どっどっどっど、という低く腹に響く音の方に振り向くと、低い車体のアメリカンタイプのバイクに跨ったマウンテンがいた。黒い革ジャケットを纏い、黒いブーツを履き、そしてサングラスを掛けたマウンテンの姿を、タカハシは限界まで目を細めて見つめた。

「お前ターミネーターかよ」

 乗れ、とマウンテンは言った。

 タカハシがマウンテンからヘルメットを受け取って後部シートに跨った瞬間、マウンテンは爆音を立ててバイクを急発進させた。タカハシは吹っ飛ばされそうになりながら、ヘルメットを慌てて被り、マウンテンの皮ジャケットにしがみついた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る