第9話
放課後、タカハシは教科書やノートをカバンに入れて、空になった自分の机の引き出しをじっと見つめていた。
アポロが無え、とタカハシは小さく呟いた。
買い溜めておいた、アポロ半ダースが、全て無くなっている。
菓子を鍵の無い場所に放置しておけば誰かに食われてしまうのは、男子校である以上当たり前のことではあった。しかし礼儀として、節度として、つまみ食いするのはせいぜい一箱であるべきで、全て持って行くのはルールも何も無い卑劣な盗人だった。他の物は許してもアポロだけは許せねえ、とタカハシは思った。彼は幼少のころからアポロの猛烈なリピーターで、常にストックを切らしたことが無かった。犯人を見つけたら、俺にとってのアポロと同じものをそいつから奪ってやる、そうタカハシは誓って、教室を出た。
ひとまず、彼の足は真っ直ぐゲームセンターに向かった。
どのような一日であっても、どのような問題が起こっていてもとにかく、まずは学校帰りにゲームセンターに立ち寄るのが彼の習慣でありルールだった。
騒音の中、タカハシはレースゲームの筺体に腰を落ち着けた。プレイヤーカードを読み込ませ、当然のようにマニュアル車と最高難易度のレースを選んでスタートした。可能な限りほとんどアクセルベタ踏みで、僅かなギアチェンジと完璧なタイミングのステアリング操作だけで、タカハシは最短経路で複雑なコースを突っ切った。コーナーをギリギリで曲がり、ライバル車を弾き飛ばし、半周以上の差をつけてクリアするまでの間、タカハシは完全に無表情だった。
ゲームが終わってタカハシがアクセルから足を離すと、画面に煌々と金色の表示が現れた。このゲームには、クリアタイムやクリアした回数によって付与されるポイントで全国のプレイヤーをランキングするシステムが搭載されていた。
全国8位。
タカハシはため息をついた。そして対戦格闘ゲームの筺体に向かった。
タカハシは無表情で、異常に複雑かつ適切な入力猶予が60分の1秒しかないという極めてシビアな連続技のコマンドを打ち込み続け、コンピューターキャラをサンドバッグのように打ちのめしながら、自分に対戦を挑んでくる者の登場を待った。
画面に「Here comes a new challenger !」の文字が現れた。向かい側の筺体に対戦相手が現れたのだった。
相手は、遠距離攻撃と近距離攻撃のバランスが取れた最もオーソドックスなキャラを選んだ。タカハシはほぼ近距離攻撃専用のキャラを選んだ。
2ラウンド先取制の第1ラウンドが始まると、相手は距離を取って飛び道具を連続で放ってきた。タカハシのキャラはその場で垂直ジャンプしてそれを躱し、ほんの少しずつだけ間合いを詰めながら、相手キャラの挙動をじっと見つめた。
そしてとあるタイミングで斜め上方にジャンプし、相手の頭上に飛び込んだ。相手はそれを待ち構えており、対空攻撃でタカハシを迎撃した。撃ち落とされたキャラは地面に倒れ伏し、相手は再び距離を取った。
タカハシのキャラが起き上がると、相手は飛び道具を打ち、タカハシは垂直ジャンプでそれを交わし続ける展開が繰り返された。そして再びタカハシは相手に向かって飛びかかり、再び迎撃された。
三たび同じ展開が繰り返されるかと思われた時、タカハシのキャラは起き直って最初の垂直ジャンプの直後、猛然と前方にダッシュした。相手は飛び道具を出し続けていたが、それがタカハシに正面から衝突するより一瞬早く、タカハシのキャラの突進技が命中した。そのたった一発で、相手は画面のぎりぎり端まで追い詰められた。タカハシがほんの少しずつだけ間合いを詰め、相手はその度に距離を取って遠距離攻撃を打ち続けていたので、いつの間にかもう下がりきれないバトルステージの際まで追い込まれていたのだった。
射程距離に入ったタカハシは猛烈な攻撃を開始した。相手は必死にガードしたが、タカハシは上段攻撃、下段攻撃、投げ技を無軌道と思えるほどの予測不能な順序やタイミングで繰り出し、悉く防御をかいくぐり、連続技をつなげていった。相手の体力は数秒の内に半分以上減っている。タカハシの連続攻撃がシステム上の入力限界に達して途切れた瞬間、相手キャラは1秒ほど無敵になる必殺技を繰り出して反撃した。
タカハシは、まるでその反撃が来ることがあらかじめ分かっていたようにバックステップでそれを難なく交わした。そして必殺技を繰り出して隙だらけの相手にジャンプ攻撃から繋がる連続技を叩きこんだ。5発、8発、10発の連続技が命中し、「K.O.」の文字とともに相手キャラは倒れ伏した。
勝負の2ラウンド目、タカハシはラウンド開始の瞬間から相手に向かって突っ込んだ。不用意に後方に飛びすさっていた相手は、あっという間にタカハシに懐に潜り込まれた。後は前のラウンドのただの焼き直しだった。タカハシは一度も相手に攻撃されること無く十秒も経たずに勝利した。
第1ラウンド開始から第2ラウンド終了まで、タカハシは一貫して無表情だった。
ぐわああ、という叫び声が、筺体の向こうから聞こえた。なんだこいつ、と同じ声が言った。ふと見やると、市外の高校生らしきグループの一団が、タカハシの対戦相手の筺体を取り囲んでいた。
「やばいってこいつ、バケモンみたいに強え」
そして彼らは笑いながら去って行った。
その後も何人かがタカハシに勝負を挑んだが、その度にタカハシは無表情で高速かつ正確なレバーコントロールとボタン操作で敵を一蹴した。
やがて対戦相手がいなくなり、タカハシはコンピューター戦を最後までクリアして、席を立った。ゲーム台を離れる間際、タカハシの目の片隅に、全国ランキングの表示が映った。
全国9位。
タカハシはため息をついた。
深いため息だった。
ゲームセンターを出ると、タカハシは駅前のスーパーに立ち寄った。お菓子コーナーに真っ直ぐ向かい、アポロを5つ買った。
海沿いの道路をアポロのイチゴ部分だけを歯で割って齧りながら歩き、中途半端すぎると考えた。8位だとか9位だとか、なにもかも中途半端すぎる。1位には永久に追いつけない。幾ら高速でコーナーを曲がっても、幾ら連続で攻撃を叩きこんでも、1位と俺との間には、決して埋められない途轍もない差がある。差があることは分かっている。しかしそれはどうしたら埋まる? 俺はそれを少しでも埋めようと思っているのだろうか? 本当に1位になろうとしているのだろうか?
タカハシは考えたくもないことを考えているのに気付いて首を横に振った。タカハシがゲームを好んだのは、それが得意だったからというよりも先に、何も考えずに集中することができるからだった。タカハシはゲームをプレイしている間、キャラの運命と己を完全に同一視していた。キャラの死は己の死であり、殺すのは自分であり、殺されるのも自分だった。そしてその上で一戦一戦に全てを捨て身で賭けることを好んだ。ゲームとキャラと対戦相手の間にそれ以外の要素、例えば己を差し挟むことは、タカハシにとってはルール違反だった。
俯いていた顔を上げると、道の向こうに、誰かがうつ伏せに寝そべっていた。タカハシは少しだけ目を細めた。そこは、港が見える開けた場所で、車が時折すぐ傍を走って行っても、その誰かは何も感じていない風に横たわっていた。
酔っぱらいか頭がおかしいのか分からないが、関わり合いになる理由は無いとタカハシは思い、足早に通り過ぎて行こうとした。
だが留まった。公道に横たわるその誰かのすぐ傍を通り過ぎようとした時、タカハシは足を止めた。知っている顔だった。
それはプリウスだった。
プリウスは、地面に寝そべって、両手の親指と人差し指でファインダーを形作り、その間から港を睨みつけていた。体をよじらせ、肘をつき、角度を調節し、何か正しい視点を探っているようだった。
「何やってんだ、プリウス」
タカハシがそう声を掛けると、横たわったままプリウスは顔を上げた。光に目を細めてタカハシを見上げ、指で作ったファインダーの中に彼を収めた。しばらくそうした後、プリウスは首を横に振って体を起こし、胡坐をかいて座り込んだ。
「珍しいな。今日は絵描かねえのかよ」
タカハシがそう訊くと、プリウスは頷いた。
「じゃあなんだ? んなところに寝転がって、次に描くネタでも探してたのか?」
プリウスは首を横に振った。
「じゃあ何してたんだよ? なんか探しもんか?」
プリウスは頷いた。
そして腕を組んで何か考え込んだ後で、肩に掛けたボディバッグから小さなスケッチブックと鉛筆を取り出した。プリウスは開いたページにさらさらと線を走らせ、しばらくしてタカハシの目の前に差し出した。
女の絵、少女の顔の絵だった。目が丸っこく、眉が太く鋭く、ミディアムショートくらいの髪の長さで、妙な迫力のある顔だった。
「女? 変な顔の女だな。そいつを探してるのか」
プリウスは頷いた。
タカハシは、くだらないことを言って茶化そうかと思ったが、止めた。プリウスの顔があまりにも真剣だったからだ。さっきの道路の端に横たわっていた馬鹿馬鹿しいポーズの時から、プリウスの表情はずっと変わらなかった。何かに対して集中していた。昨日卓球場で船の絵を描いていたときと同じ顔だった。
自分は多分人生でこんな顔をしたことは一回も無いな、とタカハシは思った。
プリウスはタカハシに絵を示しながら、首をかしげた。
「俺がこの女を知ってるかってことか? いや、悪いが知らない」
プリウスは、残念そうに頷いた。
「お前が絵を描くのを休むほどこの女は重要なのか?」
プリウスは頷いた。
分かった、とタカハシは言った。「俺も探すの手伝ってやろうか?」
プリウスは目を丸くしてタカハシを見返した。
タカハシ自身も、自分が言った言葉に驚いた。だがこう続けた。
「死ぬほど暇なんだよ。邪魔ならやめとくけどな」
プリウスは首を横に振って、微笑んだ。タカハシは頷いた。
「じゃあ行くか。ここから見て探すってのは、どう考えても効率悪いぜ。駅前へ行って聞いた方がいい」
プリウスは頷いて、立ち上がった。
プリウスのズボンのポケットから、小箱が零れ落ちた。箱は地面に落ちて、堅い音を立てた。
アポロの箱だった。
二人の視線が、アポロで交わった。タカハシとプリウスは同時に顔を上げて、互いの目を覗き込んだ。
直後、プリウスは素早い挙動でアポロの箱を拾い上げ、ポケットに突っ込んだ。そしてタカハシに向かって、何でもない、と言うかのように手を振った。
タカハシは、あんぐりと口を開けて、プリウスの顔を見つめた。
ポケットから落ちたアポロ。
慌ててそれを拾い、取り繕うプリウス。
タカハシの脳裏を、机の中から失われた半ダースのアポロの幻影が走り抜けた。それは目の前の光景に向かって瞬間的に一本の因果線で結ばれた。
てめえか、とタカハシは言った。
プリウスは首をかしげた。
「てめえ、俺のアポロ盗みやがったな」
プリウスは首を横に振ろうとしたが、そうする前にタカハシの両手が勢いよく喉元に伸びてきて、動きを止められた。
プリウスはぱちぱちと目を瞬きさせた。
「許さん。絶対に許さん!」
タカハシはそう叫びながら思い切りプリウスの首を絞めた。プリウスは全く呼吸ができなくなり、タカハシの腕を何度もタップした。
タカハシの頭から、数十秒前の目の前の男との会話の内容は一瞬で消し飛んだ。こいつが犯人だ、こいつが俺のアポロを盗んだ、こいつだけは絶対に許さん、ただそう思ってプリウスの首を絞めた。
何度目か、プリウスがタカハシの腕を叩く力が弱まり、彼が白目を剥き始めた時、タカハシは我に返って、左手をプリウスの首から離した。怒りが緩んだからではなく、優先すべき目的を思い出したからだった。
タカハシはプリウスのズボンのポケットに向かって手を伸ばした。
「返せ! 俺のアポロ返しやがれこの野郎!」
プリウスは一気に意識を取り戻し、首に掛かったタカハシの右手を両手で降り払うと、身をよじってタカハシの手からポケットをなんとか遠ざけようとした。
タカハシはプリウスのシャツを掴み、プリウスはタカハシの脇腹をくすぐった。
ぐふっ、とタカハシは息を漏らした、「てめえいい加減にしろよ、盗人が悪あがきしやがって。おとなしく罪を認めてアポロを出せ!」
二人は道のど真ん中で揉み合った。プリウスのシャツのボタンが弾け飛び、押しのけようとするプリウスの指がタカハシの口や鼻の穴に突き刺さった。
結局、揉み合いを制したのはタカハシだった。タカハシの指先が、プリウスのポケットからはみ出したアポロに引っ掛かり、そのまま外に向かって箱を弾き出した。
アポロの箱が道路を転がって行き、そして、中身が箱から滑り出た。
青く輝く物体だった。
二人の動きが、互いの体を掴んだまま、地面に転がったブルーダイヤモンドを見つめて、止まった。
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