第8話

 翌朝プリウスが登校すると、教室内は騒然としていた。騒がしいのはいつものことだったが、質が違った。

 行方が分からなくなっていた携帯電話が発見されたのだった。今朝、クラスで最初に登校したミスターポポが、教卓の上に黒い袋が置かれているのを発見し、中を開いてみたところ果たしてその中身は数十台の携帯電話だった。ボディのそこかしこに傷はついていたが、盗まれた全員の携帯電話がそこにあった。

 皆、ぶつくさと文句を言いながら一応無事に携帯電話が返ってきたことを喜びつつ、結局一体誰がいつどうやって盗んだのか、そしていつ誰がここに返したのか、ということについて四分五裂語り合った。

 犯人はやはりクラスの中の誰かではないか。いや、教師だ。用務員だ。校内の人間ではあり得ない、外部の人間だ。

 プリウスだけが、盗んだ犯人も返した人物も知っていたのだが、彼はいつもどおり一言も話さなかった。プリウスとて、「いつ、どうやって、なぜ」については何も知らなかったのだから、話すことなど無かった。そもそも彼女が何者なのかさえ知らなかった。ただ、返ってきたのならまあ良かった、と思った。そして相変わらず下を向いて、膝の上に広げた小説の続きを読んでいた。

 教室内で、外部の人間の犯行説と集団幻覚説が真っ向から対立し始めた頃、ばくだんいわ、とプリウスの隣の席のビギンが囁くように言った。

 ばくだんいわは、何だ、いい歌詞でも思いついたか、と言ってビギンに振り向いた。

「俺の親父さ、警官じゃん、だから聞いたんだけどさ」

「教科書に、書いてある、ことだけじゃ、分からない」とばくだんいわは音程が思い切り狂った歌を歌った。

「聞けよ。それで、人に言うなよ。昨日、ダイヤが盗まれただろ。スカイ何とかって言う。親父、招集掛かって捜査に駆り出されてたんだ。で、今朝帰って来た親父に聞いたんだけどさ。あれ、この街の誰かが盗んだかもしれないらしいぜ。船に乗ってた誰かが持ち逃げしたんじゃなくて」

「ふーん。そいつすげえな。で、もう犯人は分かってるのか」

「いや、まだ分からないらしい。だけど、少なくとも日本人じゃないかってさ」

「なんで?」

「盗まれた時、ダイヤがあった台座に、ダイヤの代わりにいちご大福が置いてあったらしい」

「なんで?」

「知るかよ。犯人が置いてったんだろ。ブライトサイズの船長はスイス人でいちご大福なんて知らねえからさ、謎の物体がダイヤの代わりに置いてあってこいつなんだよって思ってたら、正体は市長に聞いて分かったんだ。市長が、それは日本の春の味覚です、って説明したら、ブライトサイズの連中はただでさえ切れてるのに余計ぶち切れたらしい。犯人がこの街にいるのは間違いないから死んでも捕まえろってさ」

 授業が始まった。プリウスは開いたノートに絵を描き続けていた。スカイ・フル・オブ・スターズの絵だった。昨夕、寝ぼけた目でちらっと見たニュース映像の記憶だけを頼りに描いたので、ディテールは出鱈目だった。大きさも良く分からない。誰でもない誰かの右掌に乗せられたブルーダイヤモンドをプリウスはほとんど想像で描いた。

 窓の外から春の風がゆっくりと流れ込んできて、昨日十時間近く寝たというのに、プリウスはうつらうつらし始めた。見渡すと、今にもクラス全体が眠りに落ちていく直前の様相を呈していた。国語教師のヨーダは静かな嗄れ声で志賀直哉のテキストがいかに時代を先取りし、現在の我々にも影響を与えているかについて解説していたが、誰一人まともに聴いていなかった。

 プリウスは軽く頭を左右に振って、ブルーダイヤモンドの色を塗ろうと思い、机の中から色鉛筆のケースを取り出そうとした。

 だが、留まった。色鉛筆ケースの上に、見覚えの無い紙袋が乗っかっていた。プリウスはそれを引っ張り出した。

 駅前のパン屋の紙袋だった。

 開いて中を見ると、アポロの箱が一つ入っていた。いちご味のチョコとノーマルなチョコが円錐形に重なった、ロングセラーのお菓子だ。軽く振ると、重い何かがカタカタと音を立て、中身は明らかにアポロ以外の何かだった。箱には、ノートの切れ端が一枚セロハンテープで貼りつけられていた。プリウスはそこに書かれた文を読んだ。

「これであなたの絵を買う」

 アポロの箱を開き、傾けると、角ばって光った何かがプリウスの右掌に零れ落ちた。

 それは巨大なブルーダイヤモンドだった。

 プリウスは即座にそれをアポロの箱にねじ込むようにしまい込んだ。顔を上げ、周囲に素早く目を配った。ビギンも、ばくだんいわも、曙も、ジョンイルも、全員眠りかけていて、誰もプリウスの方など見ていない。

 プリウスは、ゆっくりと、再び、アポロの箱を開いて、両手で覆い、指先で中身をつまんで、引っ張り上げた。

 光が箱の中から溢れてくるようだった。恐ろしく激しい乱反射を内包した塊が、熱も無く青や白や黄や橙に輝いていた。半分だけその塊を引きずり出したところで、プリウスはぎゅっと目を閉じた。

 きつく、強く目を閉じた。

 そしてゆっくりと開いた。

 まだそれは間違いなくそこにあった。自分の親指と中指に挟まれて、燃えるように輝いていた。昨日ニュース映像で見たのと同じ、空に輝く星々のような光だった。

 プリウスはゆっくりと宝石をアポロの箱に戻し、箱をパン屋の紙袋に入れ、口を折り畳んで、机の中に仕舞い込んだ。

 深く呼吸しようとしたが、喉で詰まって息が通らない。

 辺りをそっと見回した。さっきまで何もかもが眠りかけていた教室の空気があっという間に変わっていた。室内を覆う大気の一粒一粒の動きが見えるような気がして、途端に全ての線がくっきりとし始めた。カーテンは白く輝き、周囲の同級生たちの黒い頭がスローモーションのように揺れ、ヨーダが黒板に書きつけるチョークの線が異様にはっきりと見えた。

 なんだこれは?

 ひとりでに、心臓が激しく打ち鳴らされた。ばくばくと、全身が揺れるような振動だった。自分の心臓がこんなに激しく鳴る音をプリウスは聞いたことが無かった。周囲から音が遠ざかり、風の音もヨーダの講義も、大気の熱も何も感じられなくなった。

 スカイ・フル・オブ・スターズだ、とプリウスは思った。希少性が高すぎるため時価の測定は難しいが、少なくとも数百億円の価値がある、という宝石商の言葉が脳内で再生された。

 何でそんなものが僕の机の中にある?

 いやあり得ない、とプリウスは頭の中で首を横に振った。本物なわけがない。誰かの悪戯だ。自分は宝石の真贋の鑑定どころか、そもそもダイヤをまともに見たことさえ無い。自分が人生で実物を間近で見たことがある宝石は、父が若いころにスリランカで手に入れ、母に求婚する時に指輪にして贈ったという極小粒のアレキサンドライトだけだ。あれに比べるとアポロの中のこれは、あまりにも輝き過ぎていて、同じ宝石というカテゴリーに置いて良いものとも思えない。自分には見分けなど付かない。誰かが自分をからかうために良く似たガラスか何かを持ちだして仕込んだに違いない。

 いつ?

 誰が?

 なぜ?

 どうやって?

 身の内から自動的に湧きあがってきたその全ての問いに、プリウスは答えられなかった。そして何よりも、彼の直感が告げていた。

 本物だ。

 これは本物だ。間違いない。偽物なわけがない。自分は宝石のことなんか何も知らないけど、本物と偽物の違いだけは分かる。これは偽物の輝きじゃない。血とか執念とか歴史とかが染み込んでいる。魔法の力で光っているように思えるほど輝いていて、迫力がどう見ても普通じゃない。

 プリウスは息を飲んだ。

「これであなたの絵を買う」というメモ。

 まさか、と思いながら、頭の中で幾つかの点が結線し、プリウスは途端にいてもたってもいられなくなった。ヨーダのおっとりとした授業が終わるのを、今か今かと待った。黙って教室を出て行こうかとも考えたが、そうすればいかに自分と言えども注目を浴びる可能性があった。よりによって今、そうなることだけは避けなくてはならない。プリウスは深呼吸した。今こそ自分の特性を最大限に発揮すべき時だった。教室の壁に掛かった時計の、回転する針の目に見えない4本目になれ、とプリウスは自分に言い聞かせた。それで、珍しく波打ったプリウスの心は、あっという間に静まり返った。

 授業が終わると、プリウスは紙袋を掴んで、静かに教室を出た。誰もプリウスの動揺や表情の変化には気付いていなかった。

 向かう先は美術室だった。その部屋の奥、衝立で仕切られた、美術部員たちが自作を保管するスペースに、プリウスもいつも自分の描きかけの絵を置いていた。あのブライト・サイズ・オーシャンを描いた絵も。昨日の夜はあまりにも眠くて何もできずに寝てしまったが、朝、美術室に運び込んであって、今日の放課後にはそれを完成させるつもりだった。

 プリウスは、美術部員たちの油絵や水彩画や版画や彫刻で埋め尽くされた空間の真ん中に立ち、辺りを見回して、息をついた。

 無い。やはり、あの絵がどこにも無い。今朝、間違いなくここに運んだはずなのに。

 プリウスは、手の中の紙袋を開き、アポロの箱の中から、スカイ・フル・オブ・スターズを取り出した。親指と人差し指でつまみ、目の高さまで掲げた。カーテンの隙間から差し込む光に照らされ、数え切れない数の光線が四方八方に伸び、プリウスは目を細めた。それは宝石というよりも、特殊なエネルギーの凝縮体のように見えた。

 プリウスは昨日出会った少女の顔を思い出した。丸い目で、自分を真っ直ぐ見据えてきた彼女の表情を、プリウスははっきりと脳裏に思い描いた。

 あの子だ、とプリウスは思った。

 彼女がブライト・サイズ・オーシャンの美術展示室からこれを盗み、自分の机の中に入れた。そして自分が描いた絵を代わりに持って行った。

 何故?

 どうやって?

 分からない。でも彼女しかいない。あの絵はまだ彼女以外の誰にも見せていなかったのだ。自分があの絵を描いたことを知っているのは、彼女しかいない。

 理由と方法はプリウスには想像もつかなかった。だが、彼女ならやる、とプリウスは思った。昨日、誰にも見つからずに体育の授業中のロッカーのカギを開けて携帯電話を盗んだのは彼女だった。数十年間開かずの扉だった屋上のドアの鍵も難なく開けた。そして誰にも見つからずに学校から出て行った。方法は全く分からないが、何にしても普通の女にそんなことができるわけがない。

 あの子は泥棒だ。それもプロフェッショナルだ。

 プリウスは自分が描いた絵を思い出した。波打つ海の上を悠々と迫って来る巨大な船、その周りでざわめく港、森、街、そして人々。

 プリウスは首を横に振った。

 駄目だ、とプリウスは思った。

 あの絵は、まだ渡せない。

 何故なら、あの絵はまだ完成していないからだ。まだ自分の筆の線が途中のままで、思念とか集中力とかいう類の何かが、あと一歩形になりきらずに中途半端に残っていて、自分の手を離れて旅立つ準備ができていない。

 返してもらわなくてはならない。

 プリウスはスカイ・フル・オブ・スターズをアポロの箱にしまい、ズボンのポケットに突っ込んだ。紙袋を片手でくしゃくしゃに丸め、美術室の隅にあった屑かごに投げ捨てた。

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