第7話
プリウスが自宅に帰ると、ピアノとそれに重なる歌声が家中を包んでいた。夕焼けの中で花が揺蕩っているような柔らかい音で、その響きは昨日と何も変わることが無かった。昨日、世界最大の旅客船がこの街に突然やって来ても気に留めずに歌は続いていたのだから、もう今後も止める理由は無く永久に続いて行くのではないだろうか、とプリウスは思った。母はきっと、ブライトサイズがもう旅立ったことも火事を起こして戻ってきたことも知らないだろう、と。
玄関でスニーカーを脱いでいると、廊下の奥からトニーが駆け出して来て、尻尾を振り乱してプリウスに飛びついた。プリウスはトニーの頭を撫でてやりながら、脱いだ靴の向きを揃えた。
「お兄ちゃんおかえり。トニーの散歩行ってあるよ」
二階に続く階段からプリウスの妹が降りてきた。プリウスは頷いて、妹の頭を撫でて階段を登って行った。
やめてよね、と、トニーを抱き上げ、髪を撫でつけながら妹は言った。「お兄ちゃん早く降りて来てね。私凄いおなか減ってるから」
言われたとおり、プリウスは自室のラックに諸々の荷物を置き、絵を壁に立て掛けると、すぐに一階のリビングに降りて行った。
ピアノの音と歌声が止んだ。
「おかえり、パセリ、タイム」
プリウスの母はピアノチェアから振り向いてそう言った。パセリというのはプリウスのことで、タイムというのは妹のことだった。母はサイモン&ガーファンクルの歌にちなんで二人を昔からそう呼んだのだが、プリウスも妹もその由来を知らなかったし、訊いてみようとも思わなかった。自分たちの本名は母がつけたはずなのに何故その名で呼ばないのだろうかということは不思議ではあったが、ごく幼少のころから二人とも、母の行動に意味を求めても仕方がないという諦念を得ていたのだ。プリウスの妹は自宅に友達を招いた時に母親からタイム、タイムと呼ばれるのを友達に聞きとがめられ、結局それを家の中でも外でも共通する呼び名にされてしまった。妹はそれを受け入れることしかできなかった。
プリウスは母に頷いて、リビングのソファに腰掛けた。その隣にトニーが丸まって座り込んだ。更にその隣にタイムが腰掛け、テレビのリモコンのスイッチを入れた。円が今年の最安値を更新した、というテレビニュースをタイムは真剣な目で見つめた。タイムはまだ十一歳になったばかりだったが、新聞を毎日必ず一通り読み、フィクション、ノンフィクションを問わず読書を欠かさなかった。彼女は外部のできるだけ広い情報を求めていた。それは、家族全員の頭がおかしい中で、自分だけはまともに成長しなければ自分自身もこの家も崩壊する、という義務感の一環だった。
プリウスは何もせずに座っていた。一応顔はテレビに向けているが、ニュースの中身は全く頭の中に入っていない。ただぼーっとしているだけだった。本当は絵の続きを描きたいところだったが、止むを得ない。自分がここに座っていないと母親の料理が始まらないのだ。席を外したら止まってしまい、そうするとタイムが怒り狂うので仕方なかった。
それに加えて、睡魔がプリウスの全身を覆いつつあった。自分で忘れていたが、昨日はほとんど眠っていなかったのだ。手足の先が熱っぽくなっていて、食事を摂ったらその直後に眠りに落ちてしまいそうだった。
何語なのか良く分からない歌を歌いながら母親が夕食の支度にいそしむ中、タイムは膝の上に広げた新聞をじっくりと読みこんでいた。
ねえお兄ちゃん、とタイムは新聞を読みながら言った。「もうすぐサミットが始まるでしょ」
プリウスは頷いた。
「そうしたらこの街はどうなると思う?」
プリウスは首をかしげた。
「私はね、何にも変わんないと思う。だって私たちには何にも関係無いもん。多分世の中も何も変わらない。世界中から大統領とか首相がやって来て、色々ああだこうだ話すわけだけど、私が思うにそれは、筋書きが最初から出来上がってる演劇よ。みんな、先に本に書いておいたことをべらべら話すだけ。私調べたの。昔から、サミットではどんな話をしてきたか。それが良いか悪いか置いといて、以前はお金持ちの国が偉そうに自分たちの取り分をどうするか話し合ってたみたい。それは今も変わらない。だけど、ここで言わなくったって初めから答が出てることばっかりよ。答えるのが難しいことは答えが出ないから最初から無視。それに、始まってからもう40年よ。40回も同じことを繰り返していたら、何だって飽きちゃう。
新しいことなんか何一つ起こりやしない」
プリウスは、頷いたらよいのか首を横に振ったらよいのか分からず、黙って妹の話を聞いていた。
タイムはとりとめもなく、そして猛烈に話し続けた。北朝鮮の核実験についてや自民党の政策、企業が起こす不祥事について、芸能人の離婚、昨日観たテレビドラマ、学校で流行っているゲーム、LINEとかいうスマートフォンアプリケーションを使って起こるいじめについて、同級の男子がいかに頭が悪いか、でも一人だけちょっと足が長くて自分と同じくらい成績の良い奴がいるとか、話題を満漢全席取り揃えながら、一口二口つまむだけで思い切り食い散らかし続けた。それはタイムがまともに口を利けるようになって以来、いつもとまるで変わらない光景だった。
プリウスは機銃掃射のように話し続ける妹に対して、合間合間に頷いたり首を横に振ったりして調子を合わせていたが、猛烈に眠くなってきて、ほとんど話を聞いていなかった。
「あったかいうちに召し上がれ、お二人様」
プリウスの母はそう言いながら、エビのアヒージョやらシーザーサラダやら葱の肉巻きやらスペイン風オムレツやらが色鮮やかに盛り付けられた皿を、プリウス達の前に次々に運んできた。
母の料理は手が込んでいた。そしてそれがかなりの腕前だということはタイムも認めざるを得なかった。その領域はかなり狭い範囲のものだったが、母は自分が興味を持つものに関してだけはずば抜けた技量を持っていた。プリウスの家族は4人とも性格はばらばらだったが、一度こだわりだすととことんまで突き詰めるという性質だけは全員に共通していた。才能があるというよりも、それだけを徹底的にやり続けるのでいつの間にか異常に習熟してしまうのだった。
プリウスの母は、リビングの奥から写真立てを一つ持ってきて、料理の前に置いた。プリウスの父の写真だった。髭面の男が巨大なひまわりの前で穏やかに笑っている。母と、プリウスと、タイムと、そして父の写真で食卓を囲んで夕食を摂るのがプリウス家の習わしだった。
テーブルに置かれる父の写真について、タイムは過去何度も、まるでお父さんが死んだみたいだから止めて、と母に要求したが、母は全く聞く耳を持たなかった。だってお父さん一人だけいないの可哀想じゃない、と言い、朝食時と夕食時には必ず写真を置き続けた。
プリウスとタイムの父が最後に家に帰って来たのは、いつだったか思い出せないほど前のことだった。ぼろ雑巾のようなずたずたの服をまとい、髪も髭も伸び放題の父の顔を見てタイムはぎゃあっと悲鳴を上げた。警察を呼ぶ、とタイムが警告すると、父は、お父さんだよ、と答えた。父は母にただいま、と言った後は数日間をほとんどただ眠って過ごし、そしてまた旅立って行った。出ていく前に、今度はどこに行くのかとタイムが尋ねると、神様を探しに行く、と父は答えた。神様はどこにいるのか、とタイムが重ねて訊くと、分からん、と父は答えた、「しかし、俺の勘では神様は女だ」。
額の中で微笑む父の髭面をひとしきり眺めると、タイムは立ち上がり、二つのトレイにドッグフードと水を注いだ。呼ばれる前にトニーが足元にやってきた。お手とおかわりをさせた後で、タイムが、よし、と言うとトニーは一瞬でドッグフードをたいらげた。
テーブルに戻り、食事の間もタイムは喋り続けた。タイムは母に対して、ニンテンドー3DSが小学生にとっていかに重要なアイテムかということを滔々と語った。ポケットモンスターならびに妖怪ウォッチとは今や単なるゲームに留まらず、学校生活を円滑に進行するための前提的なコミュニケーションツールであり、これの所有の有無は文字通り死活を分けるため、可及的速やかに購入する必要がある、という内容で、これまで二人の間で数え切れないほど手を変え品を変え繰り返されてきた会話だった。
母はにこにこしながら頷いて、タイムって本当にゲームが好きなのね、と言った。
「違う。好きとかそういう問題じゃないんだって。一回もやったこと無いから好きかどうかも分かんないの。それを確認するためにもとにかく今すぐに必要なの。私はもう4年分くらいみんなに後れを取ってるから一刻も早く追いつかなくちゃいけないの」
「私には、それがタイムに本当に必要なものかどうか分からないのよね」
「必要に決まってるでしょ。必要じゃないものを何で同級生全員が持ってるの。絶対必要」
「お父さんが買ってきてくれたゲームがあるでしょう。全部木でできたすごろく。お花や動物が彫ってあって、綺麗な染料で塗ってあって。あんな可愛いものがあるのに」
「何年前の話してんの。平安時代の雅な貴族じゃあるまいし、あんなすごろくで今の小学生が騙せると思うセンスが凄いわ。大体あれベンガル語だかヒンディー語だかで何が書いてあるんだか全く読めないしセンス以前にゲームとして物凄い問題がある」
「でもね、パセリは今の年までテレビゲームが欲しいって言ったことが一度も無いから、やっぱり必要無いんじゃないかしら」
「お兄ちゃんと比べないで。お兄ちゃんはゲーム雑誌を買ってきても、それに描いてあるイラストを自分で描くだけで満足しちゃう人なんだから。お兄ちゃんの真似をできる人はこの街に一人もいないんだから、比べるのは反則。でもお兄ちゃんだって高い絵の具を買ったり画集を買ったりするでしょ。私にとってはそれがゲームなの。芸術的に生きるためにゲームが必要なの」
プリウスは黙々とオムレツを頬張りながら、茫然とテレビニュースを眺めていた。
続いてのニュースです、とアナウンサーが言った。
「世界周遊中に船内で火事が起こり、急遽日本に停泊していた世界最大の旅客船ブライト・サイズ・オーシャンで、盗難事件が発生しました。
盗まれたのはおよそ200カラットの巨大なブルーダイヤモンド、『スカイ・フル・オブ・スターズ』。
ブライト・サイズ・オーシャンの美術展示室に保管されていたところ、本日未明から昼にかけて何者かに盗まれました。現地から取材です」
マイクを握ったレポーターが、プリウス達が見慣れた港町に立ち、ブライト・サイズ・オーシャンを背景に、この船が昨日急遽、船内修理のためにこの港に立ち寄り、出立してすぐに小火を起こして戻ってきたことを改めて伝えた。彼は、来週サミットが開かれるこの街が、一連の出来事により、普段事件と呼べるものは何一つ起こりもしないほど穏やかであるにもかかわらず、今やいかに混乱をきたし大騒ぎになっているかということを語った。
VTR映像が流れ、海を往くブライト・サイズ・オーシャンの全景が映し出された。
ブライト・サイズ・オーシャンにはあらゆる娯楽施設や商業施設が揃っているが、美術展示室はその中でも目玉の一つだった。古今東西の財宝や美術品が赤いビロードや大理石に覆われた部屋に陳列される中、「スカイ・フル・オブ・スターズ」はその中央に鎮座していた。ニュースは在りし日のダイヤモンドの映像を映し出した。大粒の涙型のそれは、過剰な照明に照らされてブルーに瞬き、空に輝く星々を凝縮したような光を放っていた。
その後ニュースは、ブライト・サイズ・オーシャンは多数の乗客を乗せているためこの小さな街に留まり続けることはできず、明日から世界周遊の船旅を再開することと、専門家に対するインタビューを行い、カッティングが完了した200カラットのダイヤモンドというのは一般にはほぼ流通しておらず、希少性が高すぎるため正確な時価の測定は難しいが、少なくとも数百億円の価値がある、というコメントを伝えた。
この極めて貴重なダイヤモンドの盗難という事件の解決にあたって、ダイヤモンドの所有者である海運会社ディープ・ブルー・インターナショナルは県警に協力を要請しました、県警では緊急対策本部を設置し、捜査に当たっています、とナレーターが告げ、VTRは終わった。
あのダイヤで3DS何台買えるかな、とタイムは言った。
プリウスは箸を置いて両手を合わせ、目を閉じて小さく頭を下げた。目の前の皿は全て空になっていた。
「パセリ、お風呂入る?」
母がそう訊くと、プリウスは首を横に振って、目をしばたたかせながら人差し指を上に向けた。部屋で寝る、という意味だった。とにかく猛烈に眠かった。
お兄ちゃん、明日の朝のトニーの散歩お願いね、とタイムが言うのに頷いて、プリウスは自室まで階段を登って行った。瞬きするたびに、巨大なブルーダイヤモンドと、描きかけの絵と、今日会った少女の顔が、順々に瞼の裏に映し出された。
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