第6話

 プリウスは美術室の入口の前に立った。無言で扉を開けて入り、無言で部屋を横切って行った。何人かの部員がいて、彼らは取りとめのない会話をしながらそれぞれクロッキーに励んだり石膏像を模写したりしており、誰もプリウスの方を見もしなかった。プリウスはクラスメイトに対してそうであるのと同じように、彼らと一度も会話をしたことが無かった。

 彼は一応美術部に在籍していたものの、この部屋で絵を描くことはほとんど無かった。画材や描いた絵を保管しておくのにここや部室が都合が良いというだけで、居座ることは基本的に無かった。周りに人がいるところでじっくり絵を描く、ということが性に合わなかったのだ。彼は、絵を描くというのは自由で静かで激しい一人で行う作業なのだから、切り離されて一人でいる方が自然だ、と思っていた。

 プリウスは壁に立てかけられた自分の絵を取り上げ、ぼろぼろのキャンバスバッグに差し込み、画材一式の入ったスケッチバッグを肩にかけ、イーゼルを抱え、すぐに美術室から出て行った。

 そして彼は筆洗に水を汲み、校舎屋上に向かう階段を登っていった。しかし屋上に出るわけではない。屋上への扉は、いつも鍵がかかっていて開かない。ただ、階段を登った先の踊り場、屋上への扉の目の前に椅子と机が数脚放置してあって、腰を落ち着けて絵を描くのに都合が良かったのだ。ここに限らず、椅子があって静かでさえあれば別に場所はどこでも良かった。誰もいない教室はもちろん、標本やホルマリン漬けが置いてある理科室でも良かったし、保健室でもいい。彼は時々トイレの入り口前に座って絵を描くこともあった。プリウスの姿を見かけたほとんどの人間は、そんなところで絵を描く方が余程落ち着かないのではないかと思ったが、彼は全く気にした様子もなく、日が暮れるまで絵を描き続けた。

 プリウスはいつもどおり、放置されて埃を被った机の下から椅子を引っ張り出し、手で座面を払って腰を落ち着け、自らの周囲に諸々の美術道具を開き、立てようとした。

 だが、プリウスは途中で留まった。

 彼の視線は、屋上への扉を見つめて、止まった。

 扉が開いている。ほんの5センチだけ。

 そこはいつも必ず鍵がかかっていて、扉が開いているのを見るのは初めてだった。鍵穴もドアノブも錆びて腐食していて、何十年も回転したことが無いのではないかと思えるほどだったから、高く開けたところが何よりも好きな男子高校生たちも、ここには何も無いと諦めて誰も近寄ろうとしなかった。

 だが今、いつからなのか分からないが、間違いなく扉は開いていた。外光が差し込み、意識を傾けると風がそこから流れてくるのを感じ取れた。

 プリウスは立ち上がり、扉にゆっくりと近づいて、押し開いた。扉は重く、しかし不思議と全く音を立てなかった。プリウスの目に傾きかけた陽の光が直接刺さり、彼は目を細めながら周囲を見回した。

 ざらざらのコンクリートが一面敷かれているだけのだだっ広い無表情な場所だった。その光景は、まるで廃墟だった。風雨に晒されて黴が生え、空を遮るものが無いというのに埃の臭いがする。微かに隅の方に苔や雑草が生えていて、それは命というよりは、工事現場の片隅に置かれた三角コーンのような止むを得なさで、所在なく頼りなかった。そして太陽の光以外全てが静止していた。何の物音もしないため、まるで時が止まっているようにプリウスには感じられた。

 だが確かに時は動いていた。プリウスの視線の先、屋上の縁の手前に、誰かが背中を向けて座り込んでいた。

 プリウスは後ろ手に静かに扉を閉め、ゆっくりと、その座り込んでいる誰かの方に歩いて行った。

 数歩も歩かないうちに、その人物が少女であることが分かった。彼女はオレンジ色のチェックのブラウスを着て、柔らかい風に髪を微かに揺らし、胡坐をかき、細い背中を丸めて何か作業をしている様子だった。プリウスには、その人物に心当たりは全く無かった。あるわけがない。この学校は二十歳以下の女が足を踏み入れることはまずあり得ない男子校で、しかもここはプリウスが知る限りこれまで一度も開放されたことが無い場所だった。加えてそもそもプリウスには家族以外の女の知り合いなど一人もいなかった。

 プリウスは、少女の少し斜め後ろに立った。そしてその横顔と手元を覗き込んだ。

 彼女の体の周囲には、大量の携帯電話が散らばっていた。フィーチャーフォンとスマートフォン、色とりどりの様々な機種のそれらに囲まれて、彼女は両手に一つずつ携帯電話を持って、両方の親指で同時に操作をしていた。メールボックスやSNSをチェックしている様子で、画面をスクロールしたりアプリを立ち上げたりしてじっと俯いて二つの画面を同時に睨みつけていた。

 顔を確認したところ、プリウスにとって驚くべきことに、彼は彼女のことを知っていた。人の顔に関して恐ろしく覚えが悪い彼だったが、流石に今朝出会ったばかりの彼女のことまで忘れるほどではなかった。

 彼女が普通の顔をしていたら、それでも忘れていたかもしれない。だが、何より目が特徴的だった。丸く大きく、やたら黒目の光が強い。眉毛はきりりと太く、うなじに掛かる髪は黒くつやつやしているが手入れが適当であちこち跳ねていて、肌は適度に陽に焼けていて良く引き締まっているが、顎の輪郭が子供のように丸いので幼くも見える。ベクトルが相反する要素が小さなスペースに凝縮されていて、それはプリウスでさえ一度見たら忘れられない顔だった。

 今朝、港でプリウスを激しく睨みつけてきた、あの少女だった。

 プリウスが立ち尽くして後ろから彼女の横顔を見つめていると、彼女は携帯電話の画面を睨んだまま、ちっ、と小さく舌打ちした。そして手に持った二つのそれを乱雑に地面に放って、別の二つを取り上げようとした。

 その直前で、彼女は留まった。体を硬直させた後で、顔だけゆっくりと振り向いた。

 彼女は口を半開きにしてプリウスを見上げた。

 大きな丸い目を更に大きく開いた視線が、プリウスの全身を上から下まで何度も往復した。その目の光には、今朝見たような敵意の火は一切なかった。プリウスの目には、彼女はただ心底驚いているように見えた。

 彼女は体を硬直させ、視線をプリウスに向けたまま、やがて、腕だけ動かして、己の体の周囲に散らばった携帯電話を集め始めた。地面に擦れてがりがり音を立てながら数十台の携帯を一か所に固めると、彼女は胡坐をかいたままプリウスに向き直り、更に後ろ手で携帯電話たちをプリウスから死角になるような位置に収め、深く呼吸して、言った。

「何の用?」

 プリウスは首を傾げた。

 傾げたまま、何も言わなかった。

 少女の眉間にしわが寄った。

「どうしてここにいるの?」

 プリウスはまた首を傾げた。

「近づいてくるのに全く気が付かなかった」

 プリウスは頷いた。昔から、良く言われてきた馴染み深い言葉だった。お前いつからそこにいたんだ。お前本当に影が薄いな。自分では全く意図せずとも、物音を立てないことに関してだけは誰よりも抜きんでていた。だからプリウスと呼ばれるようになったのだ。

 少女は何も言わないプリウスの顔をじっと見つめた。子供のような丸い目が大きくなったり楕円形になったりした。

 全然落ち着かない顔だ、と思いながら、プリウスは少女の背後、彼女の影に収まりきらずにはみ出している携帯電話を指差した。

 少女は短く呼吸が乱れるようなうめき声を微かに立てた。

「これは」と少女は言った。「これは私の」

 プリウスは首を横に振った。

 プリウスは、普段のんびりしているが著しく愚鈍という訳ではなかった。記憶に欠損が無ければ誰でも、思い当たらざるを得ない。彼は、その大量の携帯電話は体育の授業中に盗まれたクラスメートたちのものではないか、と思った。

 何故彼女がそれを持っていて、何故彼女がここにいて、彼女がそれで何をしようとしているのかは全く分からなかった。だが、プリウスはそうしたことはどうでも良かった。

 彼はただ確認したいだけだった。

「これは私の。今は」

 少女がそう言うと、プリウスは再び首を横に振った。

 少女の目の奥に力が入った。プリウスは真っ直ぐその視線を受け止め、二人は至近距離で見つめあった。

 プリウスは昔から、一度対象を見つめ始めると瞬きさえ忘れたように目を離さない男だったが、少女はプリウス以上にそうであるようだった。視界の中心にプリウスを据えると、大砲の照準を固定したような重々しさで、胡坐をかいた姿勢のまま胸を張ってプリウスを睨みつけた。少女の黒い瞳を覗き込みながら、今朝のことを思い出した。あの時も、彼女は自分から一切眼を逸らそうとしなかった。プリウスは、こんな風に自分を見てくる人間には会った記憶が無かった。

「どれがあんたの?」

 少女はプリウスから目を逸らさずにそう訊いた。

 プリウスは首を傾げた。

「この携帯の中で、どれがあんたの?」

 プリウスは首を横に振った。

「分からない? 交換条件。あんたの携帯以外は返す。でもその代わりあんたの携帯は渡せない。いいわね?」

 プリウスはまた首を傾げた。彼女が何を言っているのかプリウスにはさっぱり分からなかった。彼女の言い分に、論理が成立しているようには全く思えなかった。

 なんにしても、その中に自分の携帯電話は無い、とプリウスは伝えたかったのだが、上手く伝わらなかったようだったので、少女の前に膝をつき、もう一度首を横に振った。

 少女は眉間にしわを寄せた。腕を組み、プリウスを睨みつけたまま思案に耽った。

 しばらくして、彼女は頷いた。

「分かった。一つ一つ確認させてもらう」と少女は言って、背後から携帯電話を一つ取り上げて、プリウスに示した、「これがあんたの?」

 プリウスは首を横に振った。

「じゃあこれは?」

 次の一台を少女が示し、プリウスはまた首を横に振った。

 それから十台分ほど同じやり取りが繰り返された後、少女の空の手が、中空で止まった。

「まさかとは思うけど、ここにあんたの携帯、無いの?」

 プリウスは頷いた。

「て言うかひょっとして携帯自体もともと持ってない?」

 プリウスは頷いた。

 少女は口を半開きにした。そして微かに唇を震わせ、叫んだ。

「だったら初めからそう教えてよ!」

 その声は、びりびりと空気を震わせて辺りに響き渡った。校内中に轟くような鋭い叫びだった。

 少女はプリウスの口に張り手するような勢いで自分の掌を押しつけ、しいーっ、と言った。そして周囲に素早く目を配った。

 プリウスは口を押さえられたまま、頷いた。

 今の叫びに反応する気配は何も無かった。少女は深くため息をついた。そしてプリウスの口から手を離した。

「もういい」

 プリウスは首をかしげた。

「もういいって言ってるの。返す、これ全部」

 少女はそう言うと、両足を投げ出して、プリウスに背を向けてその場にごろりと横になった。

 プリウスは首を横に振った。こんなものを今ここで預けられたところでどうしようもない。持ち歩いているところを誰かに見つかったら自分が犯人だと思われる。だがプリウスが首を横に振るのを少女はもう見ていなかった。肘をついて横になった少女は、何かぶつぶつと独り言を呟いていた。

 プリウスも鼻で小さくため息をついた。

 どうしたものか、とプリウスは思案した。そして大して時間が経たないうちに、自分にとってそれほど大した問題ではない、ということに気が付いた。クラスメートの携帯電話を盗んだ犯人はやはり目の前の少女であるようで、彼女が何故、何のために、どうやって盗んだのかは全く分からないままだったが、プリウスにとってはどうでもいいことだった。彼女がもう要らないと言ってるのだから、いつか誰かがここに転がっている電話を見つけて、クラスメートたちの下に戻るだろう、きっと。別に今すぐどうにかしなければならないものでもない。そうプリウスは思った。彼には、携帯電話という物品の、一般的な高校生にとっての喫緊な重要性が良く理解できていなかったのだった。

 プリウスは少女から背を向けて歩き出した。校舎に戻る扉をゆっくりと開け、そして、セッティングしかかったままだった画材一式を一旦取りまとめて肩にかけ、椅子を引きずり出して片手に持ち、また扉をくぐって屋上へ戻ってきた。

 屋上を、椅子を運んで歩いた。引き続き寝転がっている少女とは反対側の屋上の縁近くに椅子を置き、イーゼルを立て、キャンバスバッグから描きかけの絵を取り出した。

 ブライト・サイズ・オーシャンを描いたあの絵だった。港にやって来る直前、巨大な船は絵の真ん中で、穏やかな波をかき分け、光の中を漂っている。時間が惜しかったことと、できるだけ一発で描いてしまいたかったことと、己の中に光と水のイメージが強かったことから、プリウスは油でなく水彩を選んだ。ベースは大体出来上がっている。残しているのは船の細かな部分と、空だった。頭の中にイメージを思い描きながら、絵の具を溶かし、混ぜた。青よりも黄金に近く、光と同じくらい風を感じられるような色がいい、とプリウスは思った。この絵の目の前に立った人が、服のボタンの隙間から風が吹き込むように感じられるような。

 その風は、生臭くさわやかで、強く重く大きく、弱く軽く小さい風だ。

 ゆっくりと画板に筆を撫でつけながらしばらくして、少女が背後に立って自分の方を見ていることにプリウスは気が付いた。絵を描いているときは基本的には目の前の絵に完全に集中しているが、しばしばその注意力は、自分の周囲全体に拡散する。自分と絵を高くから見下ろしているような感覚がする瞬間がある。それでいつの間にか少女が自分に近付いてきていることに気が付いたのだが、プリウスは気にしなかった。弱い風が吹く屋上で、目の前にキャンバスがあり、絵の具の付いた筆があって、自分がいて、彼女がいる。それだけだった。全く振り返りもせず真っ直ぐ水彩キャンバスに向かい、筆の絵の具がどのように伸びどこまで広がっていくのかに意識を集中した。やがてプリウスの注意は再び集束し、目前の絵と筆だけになった。

 おそらく、描写の対象としてブライト・サイズ・オーシャンは、プリウスにとって美醜の問題を超えていた。プリウスにとって重要だったのは、船そのものの形や大きさとともに、あの時水平線の向こうから避けがたい何かがやってきたという感覚だった。あの時確かにブライト・サイズ・オーシャンは輝いていた。しかしそれと同じかそれ以上に輝いていたのは旅客船を受け入れるこの海と、この港の方だった。いつも何事も起こらない凪いだ海のようなこの港が、鳥肌が立つようにざわめきだした。ずっと眠っていた小さな者たちが一斉に目を覚ました、そんな感覚が、この港街全体から沸き立った。それは特別な瞬間だ。二度と繰り返されることは無いかもしれない。それがプリウスに筆を取らせた。実際、ただブライト・サイズ・オーシャンは故障でこの街に立ち寄っただけで、海の果ての国の王子が遭難してきたとか、海賊に乗っ取られたという訳でもなく、結局は何事も起こさずにあっさりと去っていくだろう。瞬く間に退屈な日常に戻り、小さな者たちは再び眠りに就く。だが現れた瞬間は違う。あの時、船がやってくる瞬間に胸の内に広がったものは、無限だった。途轍もない何かが始まるような気がした。その感覚は300メートルの旅客船とは比べ物にならないほどはるかに大きい。この感覚の名前をなんと言うのかをプリウスは知らなかった。ただ少なくともそれは、出会うはずの無い者たちが出会ったときに起こるのだ、とプリウスは思った。

 気が付くと、陽が陰り、絵の具の色が分からなくなってきた。プリウスは絵筆を筆洗に突っ込み、大きく伸びをした。少しだけ風に乾かして、続きは家に帰ってから描くことにした。

 画材を片付けながら、プリウスはふと思い当って、屋上の周囲を見渡した。

 少女の姿は既にどこにも無かった。散らばっていた携帯電話も、どこにも無くなっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る