第11話
ポカリは草むらの中に潜んでいた。腹這いになり、肘を立て、カメラを構え、ぴくりとも動かなかった。もう何時間もそうしていた。彼自身も不思議だったが、カメラを握っている時はほとんど喉が渇かず、汗もかかなかった。極めて静かな心持だった。
街の中心部から少し外れたそこは、ほとんど人通りの無い場所だった。海辺の公道に面した、雑草が生え放題の空き地だ。しかし時々、学校帰りの女子高生や女子中学生が自転車に乗って通りがかる。ポカリは女たちが目の前の草の向こうを通り過ぎて行くたびにシャッターボタンを押した。
まるで野生動物の生態を追うカメラマンのようだった。
実際それに限りなく近かった。効率を考えれば駅前の改札口の目の前に立ってシャッターを押し続けるのが一番楽に決まっていた。しかしそれはポカリにとって、釣り堀で釣りをするのと同じようなものだった。用意されたものには狩りの快楽が無い。同じ魚でも、本物の魚は流れの激しい川にいて、目に映る場所にはおらず、影が揺らめく奥底にいる。その動きは自然で、自由で、活き活きとしている。どちらが美しいかは明らかだった。
本当のところは、以前、効率を求めて駅前でひたすらシャッターを切っていたある日、OLに警官を呼ばれそうになったので、止むを得ず人目を忍んで撮影するしかなくなったのだが、それが怪我の功名だった。彼の美しさの基準を変えることになったのだ。ポカリの愉しみは、それがいかに自然であるか、ということに重点が置かれるようになった。かつては徹底的にシビアな審美眼で女を撮っていたが、その頃から少しずつ、必ずしも表面的な美しさに囚われないようになった。自然で、無防備な女たちの美しいことと言ったら、単純な顔の造形だけでは決して測りきれなかった。
ポカリは特定の撮影ポイントを持たなかった。日によって、時間によって場所を変え、ターゲットも変えた。女の美しさは無限のパターンを持ち、時が移ろうごとに変わっていくのだから、同じ場所に留まっていてよい理由など一つも無かった。ポカリは建物の影、電信柱の裏、ゴミ捨て場の中、あるいは商店街の人ごみの中に紛れ、女たちを撮影し続けた。
短いスカートの女子高生が自転車で目の前を通り過ぎ、ポカリはシャッターを切った。
小学生だったポカリにカメラを買い与えたのは、母親だった。口下手で運動も苦手な息子でも楽しめる奥深い趣味が無いかと思ってそうしたのだが、それはポカリと完璧な親和性を示した。母は息子の適性を正しく把握し過ぎていた、とポカリは思った。母が与えたのはソニーのコンパクトデジカメで、バッテリーがチャージされた瞬間からポカリは目に映るありとあらゆるものを撮りまくった。そして、母親を撮った写真を彼女に見せた時のコメントで運命が決まってしまった。
「きれいに撮ってくれてありがとう」
ポカリはその言葉が心底から嬉しかった。そして確かに、自分で観てみても、液晶画面に映る母は美しかった。人生で初めて、言葉と行為と結果が結び付いた瞬間だった。
最初は母を撮るだけで済んだ。だが一週間後には、ポカリは街に出て女たちを追いかけるようになっていた。まだ十歳だった。
以来7年間、ポカリは毎日毎日女たちを撮り続けた。サッカー少年が毎日ボールを蹴るのと同じ、吹奏楽部の少女が毎日トランペットを吹き続けるのと同じことだ、とポカリは思った。そしてポカリは高校に入学すると同時にニコンDfを買い、半年に一つずつレンズを買い足した。毎晩、ベッドの中で、明日はどのレンズを持って行き、どこでどんな女が撮れるかを想像すると、鼓動が激しくなるほどわくわくした。
ポカリの目の前を、凄まじいスピードで自転車が通り過ぎて行った。
反射的にシャッターボタンを押した。
女だった。今まで見たこともないくらい猛烈なスピードで自転車をこぐ女だった。日ごろの研鑽で、自動的に目と指先が反応したが、脳内には顔の記憶が残らないくらい一瞬だった。女の後姿を確認しようとカメラから離れて草の合間から顔を出したが、あっという間に遠ざかって行き、もう体形の大小も判別できなかった。
ポカリはカメラを操作して、いましがた撮った写真を液晶画面に映した。
流石に若干輪郭はぶれていたが、シャッタースピードを高速に設定していたので、はっきりと顔は判別できた。
目が大きく眉が太く、シリアスな表情をした女が、フレームの細い自転車にまたがって、前方をしっかりと見据えてペダルを全力で漕いでいた。その表情は、何かを追いかけているようであり、同時に何かに追いかけられているようでもあった。黒い髪が風になびき、ボーダーのカットソーとデニムというシンプルな格好で、よく鍛えられた体をしているのがポカリには分かった。
どこかで見たことがある、とポカリは思った。この顔には見覚えがある。
ポカリはその記憶を脳内で辿った。特徴的な顔だ。ポカリは決して、一度撮った女は忘れないというタイプのカメラマンではなかった。これまで何万人の女を撮ったか分からないほどだったのでとても覚えきれないし、自分が撮った写真をそれほど頻繁に見返すことも無く常に次に撮る女に集中する、というスタイルだったので、詳細を覚えている方が珍しかった。
しかしそれでも印象は残る。ポカリは少し目を伏せ、おそらくそれほど昔のことではない、と思った。
もう一台の自転車が目の前を通り過ぎようとした時、ポカリはまた反射的にシャッターボタンに手を掛けた。
だが押さなかった。
男だったからだ。
ポカリはまた、草の合間から顔を上げて、走り去っていく男の背中を見送った。その顔は、通り過ぎる前に肉眼ではっきりと見えた。
自転車に乗って走り過ぎて行ったのは、プリウスだった。普段教室では見たことも無いような真剣な表情で、使い込まれたママチャリを必死に漕いでいた。
ポカリはプリウスの背中を目で追った。そして首をかしげた。プリウスと言えばいつも静かにひたすら絵を描いている男だったが、その彼のイメージにまるでそぐわない挙動と表情だった。彼が放課後に絵を描いていないということだけでも違和感があるのに、それどころか自転車を思い切り漕いでいるというのはほとんど非常事態と言えた。
ポカリはしばらくプリウスの後ろ姿を見送ってから、頭を振った。
誰にでも色々と事情があるもので、それは自分には関係がない。そうポカリは思い、また草むらの中に身を潜ませた。
目の前に雀が一羽やって来て、地面を何度かついばんだ後、飛び立っていった。
ポカリは欠伸をしながら、次のターゲットがやってくるのをじっくり待つことにした。だが集中力が一旦切れていた。日差しが傾き、風が柔らかく吹いていて、ついそのままうつ伏せに眠ってしまいそうだった。
目を半開きにさせて、カメラを握る力が弱まりそうになるのをこらえていると、遠くからバイクのエンジン音が聞こえてきた。
それは真っ直ぐポカリの方に近付いて来た。どどどどどど、という空気と地面の両方から伝わる重低音が、ポカリの腹を打った。ドスの利いた威圧感のある音だった。
バイクは急ブレーキをかけ、雑草の壁を隔ててポカリの目の前で止まった。アスファルトから、タイヤのゴムが焦げ付く臭いが立ち上った。
アイドリング状態のままの黒い巨大なバイクと、それに乗っている人物を草の合間から覗き込んで、ポカリは呼吸を止めた。
バイクに乗っているのはサングラスを掛けたマウンテンで、その後ろに座っているのはタカハシだった。
「お前、こんな何にもねえところでいきなり止まんなよ。唐突に便意でも催したか」とタカハシが言った。
「違う」
「じゃあなんだよ。お前の仲間がいる森はもうちょい山の奥の方じゃないのか」
「俺に仲間はいない」とマウンテンは言った。
邪魔だから早くどっか行け、とポカリは思った。
「じゃあ早く行けよ。俺ら何回見失ってんだよ。さあ一刻も早くその抜群にでかい鼻の穴でプリウスの匂いを」
「黙れ」
マウンテンはエンジンを切り、サイドスタンドを立ててバイクから降りた。
そして真っ直ぐポカリの方に歩いて来た。
嘘だ、見えるわけない、とポカリが思った瞬間、マウンテンは両手で草むらを切り開いた。
ポカリの全身が陽の光に晒された。額にしわを寄せて見上げると、マウンテンが傲然とこちらを見下ろしていた。その背後に口を半開きにさせたタカハシがいた。
ポカリとマウンテンは無言で見つめあった。
「こ、こ、こんにちは」としばらくしてポカリは言った。
「何をしてる」とマウンテンが言った。
「カ、カ、カメ、カケ」とポカリは言い淀んだ。
「亀がどうした」
「カメラ、カメラです。カメラで女を撮ってました」
「マウンテン、お前、何でそこにポカリがいると分かった?」とタカハシが背後から訊いた。
「匂いだ」
「まじかよ」
「出て来い」とマウンテンはポカリに向かって言った。
「お、お、お願いです殺さないでください」
「お前に頼みがある」
「な、なんでしょう」
「撮った写真を見せろ」
ポカリは頷いた。何度も頷いた。
マウンテンとタカハシは、ポカリが操作するカメラの液晶画面を覗き込んだ。最初の写真が映し出された瞬間、これだ、とマウンテンとタカハシは同時に言った。
「この女だ。絵の通りだ」
タカハシがそう言うのに、マウンテンは頷き返した。
ポカリはボタンを操作して、画面に映る写真の顔部分を拡大させた。丸い眼で太い眉の女。タカハシとマウンテンは、液晶画面をじっと見つめた。
「この女、どっちに行った?」とタカハシが訊いた。
ポカリは道の右手を指で示した。街の中心から離れ、ずっと進んで行けば岬にたどり着く。
タカハシとマウンテンは顔を見合わせ、互いに頷いた。そしてポカリから体を離した。
「邪魔して悪かったな。俺たちは行くから、心おきなく女体鑑賞に勤しんでくれ」
「プ、プ、プ」とポカリは言った。
「ぷ?」
「プリウスもそっちに向かってった」
タカハシは頷いた、「やっぱりそうか」
タカハシはポケットに入っていたアポロの箱の蓋部分をちぎって、裏面に番号を書いてポカリに渡した。
「俺の携帯番号だ。プリウスか、写真の女か、どっちかをまた見かけたら、電話くれ」
そしてマウンテンとタカハシは再びバイクに跨った。爆音を立てて二人は去って行った。
ポカリは二人の後ろ姿をぼんやり見送った。
春の風が背後から穏やかに吹き抜けた。
そしてしばらくして、カメラ機材をカバンに入れて片付け、草むらの中に倒しておいた自転車を立て直して跨った。
向かって行く先は、タカハシたちが去って行ったのと同じ方向だった。
あっちは観光客が良く訪れる岬だ、市外の女たちが現れる、悪くない撮影ポイントだ、ポカリはそう思って自転車を漕いだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます