第12話

 プリウスは自転車を降り、両ひざに手をついて俯いた。息が完全に上がっていた。全身は汗で濡れていた。顔を大粒の汗が伝って滴り落ち、何度も荒い呼吸を繰り返した後で、道の向こうの白い灯台を見上げた。

 岬の突端に立つ灯台の周囲には、人の気配は全く無かった。岬と灯台の位置を示す立て札と、公衆トイレと、ずいぶん昔に閉店して廃屋になった土産の煎餅屋を通り過ぎると、後は灯台まで一直線にあぜ道が続くが、既に陽が落ちかけていて、地元の人間も観光客も、姿が一人も見えなかった。風が強まり、海は西に沈んで行く太陽と波の影の間で、黄金と黒の中間に染まっていた。水平線まで障害物は何も無く、無限に波が続いていく。その上空をカモメが群れを成して旋回していた。雲と風と光が夜に溶けてしまう一瞬前の、ありふれた、そして滅多に見ることができない光景だった。

 絵に描きとめたい、とプリウスは思った。

 その考えを振り払ってプリウスは海から目を逸らし、15メートルほどの高さの灯台と、それに続く道の途中に乱雑に打ち捨てられている一台のカーボンフレームの自転車を見据えて、ゆっくりと歩き出した。あまりにも長時間全力で走ったために足が少し震えていた。

 横倒しになった自転車は確かに、先ほどまで追いかけ続けて何度も見失った、レース仕様のロードバイクだった。その姿を釣り具屋の角で見かけて、咄嗟に近場に転がっていた鍵のかかっていないママチャリを無断借用して追いかけたが、相手は途轍もないスピードで走り去って行ったので、こうして結局追いつけたのは奇跡としか思えなかった。

 プリウスは灯台の入口の前に立った。徹底的に錆びきった鉄製の扉が5センチだけ開いている。それはプリウスに既視感を引き起こした。灯台の点灯と消灯は自動化されているので、普段は厳重に閉ざされている扉だ。プリウスは扉に手を掛けて、ゆっくりと開いて中に入った。暗くて様子がよく見えなかったが、螺旋階段が上まで続いていた。足元に注意しながら、プリウスはゆっくりと階段を登った。自分の足音とその重みで階段がきしむ音以外、全くの静寂だった。

 階段を登りきった先の白いドアをプリウスは押し開いた。

 ごうっと音を立てて、風と光が戻ってきた。

 鉄柵に囲われた展望台からは、街とその周囲の山と森が良く見渡せた。夕暮れの中で深緑色に沈んで行く直前で、家々には明かりが灯り、緑は風を湛えて間もなく眠りに就こうとしていた。そして、ほんの少し首を左右に振ると、辺りは一帯、海だった。

 プリウスは、鉄柵に手を添えて、回廊を右手にゆっくりと歩いた。夕暮れの太陽の光が真っ直ぐに目に突き刺さって来て、視界が海と空だけになる。一歩一歩、カーブの向こうからあの丸い目が現れるのに備えて、慎重に進んだ。

 だが、どこにも誰の姿も無かった。

 プリウスは回廊を一周して、出てきた扉の前まで戻って来てしまった。

 眉間にしわを寄せて、首をかしげ、あたりをきょろきょろ見回していると、頭上から咳ばらいが聞こえた。

 プリウスは、眉間にしわを寄せたまま見上げた。

 丸い灯ろう屋根の上に、足を組んで腰掛けている少女の姿があった。ミディアムショートの髪が風にあおられて顔に掛かり、太陽の影になって表情が良く見えなかったが、少し顎を持ちあげてプリウスを見下ろすその居丈高な姿勢の奥に黒い大きな目が見えた。

「何か用?」

 プリウスは少女に向かって頷いた。

 少女は壁に掛かるタラップを顎で示した。

「じゃあ登ってきたら?」と少女は言った。

 プリウスは頷いて、タラップを掴んで登って行った。ライトがある灯室のガラス壁を越え、アーチを描く屋根の上を取っ手を辿って少女の隣に腰かけた。

 座り心地良く落ち着く場所とは言い難かったが、そこは下の回廊よりもさらに見通しが良かった。海と街全体が見渡せ、車や電車の赤と黄の光、街灯とビルのオレンジ色の光、港の青と白の明かり、そして家々の夕食を囲むリビングの明るさが、空の明るさと既に逆転していた。水面からぽつぽつと蛍の光が湧きあがるような、街全体が星の光に滲んでいくような光景だった。

 プリウスはしばらくぼうっとその様子を眺めていた。そしてはっと気が付いて、少女の方に向き直った。気に入った風景は何でも、一度頭の中に絵として叩きこむ癖があったが、今はそれよりも優先したいことがあるはずだった。

 少女の顔を見つめると、彼女の方はずっとプリウスを見ていたようだった。丸い、何を考えているのかよく分からない目が、プリウスの眉間の真ん中を射抜くように真っ直ぐ突き刺さってきた。

 辺りがどんどん闇に包まれていく中、二人は至近距離でしばらく睨み合った。

 やがてプリウスはポケットの中に手を突っ込んで、アポロの箱を取り出した。そして箱の中から宝石を取り出そうとした。

「待った」と少女が言った。

 プリウスは首を傾げた。

「ちょっと待って」と少女は言って、左手首のGショックのバックライトボタンを押して、時間を確認した、「あと一分」

 プリウスは首を傾げた。

 少女はプリウスから目を逸らし、顔を真っ直ぐ街の方に向けた。

 止むを得ず、プリウスも光が灯る街の方に目を向けた。

 二人は並んで腰かけたまま、夜になっていく街をじっと見つめた。少女は大きな目を更に開いて、プリウスは漠然とした目で。風が二人の体の間を通り抜け、頭上で鳥が鳴いた。

 風の音が止んだ。

 そしてそれと同時に、突然視界全体が暗闇になった。

 街の明かりが全て、ほとんど同時に消えた。

 プリウスは反射的に息を飲んだ。すぐ隣で少女も息を吸い込むのが聞こえた。

 世界全体が夜の森になってしまったように見えた。

 プリウスは一瞬、何が起きたのか良く分からなかった。まるで巨人が巨大な誕生日ケーキのろうそくを一息で吹き消したように、まるで歌手のライブが始まる直前のように、煌々と照らされていた街の明かりが全て落ちた。それが停電だと理解する前に、プリウスはいきなり世界が舞台装置の転換のように切り替わったように見えた。

 プリウスも少女も、二人ともほとんど同じような表情で目を見開いて、真っ暗闇になった街の様子をじっと見つめた。

 車のヘッドライトとテールライトの断続的な光だけが点線のように輝き、動いている。幾つものクラクションの音が遠くから聞こえる。

 やがて、プリウスは少女の方に振り向いた。

 その瞬間、バチッと音がすると同時に、足下から太い光の線が現れた。光は街と海に向かって真っ直ぐに伸び、鈍いモーター音とともに回転し始めた。

 灯台が点灯したのだった。プリウスと少女の二人の体は、光の真上にあってぼんやりと照らされた。暗闇の中で、灯台はこれまでプリウスが見たことも無いような煌々とした輝きを周囲に向かって撒き散らしていた。

 少女は顔の前で両手を小さく叩いて拍手した。

「あー、上手く行った」

 少女は笑っていた。

 まさか、とプリウスは思った。

「車と船の光だけは消すの無理だったけど、ほとんど上手く行った。そう思わない?」

 プリウスが眉間にしわを寄せて少女を見ると、灯台の光に間接的に照らされた、口角の上がった少女の表情は、不敵、としか表現しようがない形状になっていた。

「光を盗んだの。そしてここに集めてみたかったの。綺麗でしょ?」

 プリウスは、頷いたらいいのか首を横に振ったらいいのか分からなかった。ただ少女の顔を見つめた。少女の視線はずっと街の方に向けられていて、丸い目はずっと開きっぱなしだった。

 プリウスはポケットの中の宝石を握りしめた。

「ただ綺麗なだけじゃなくて物凄く美しいものがいい」と少女は言って、息を深く吸い込んで、吐き出した、「でもこれじゃ足りない。全然。停電は悪くないアイデアだと思ったけど、すぐに元に戻っちゃう。もっとずっと続くものじゃないと」

 少女のその言葉通りに、少しずつ、街に光が戻り始めた。ぽつぽつと明かりが灯り、そして急速に全体に広がっていった。さっき見た、夕暮れがやって来て街にじわじわと光が広がる様子を、一気に早送りで見直すような光景だった。

 そしてやがて全て、普段と何も変わらない夜の街に戻った。

「絵みたいに、ずっと続くものが」

 そこでようやく少女はプリウスの方を見た。

 プリウスは少女が何か言うのを待った。

 しかし、彼女はプリウスの目を真っ直ぐ見るだけで何も言わなかった。

 プリウスはポケットからアポロの箱を取り出し、スカイ・フル・オブ・スターズを引っ張り出した。弱く、複雑に輝いている。掌の上に乗せて少女に向かって差し出すと、彼女は顎に指を当てた。

「それじゃ足りなかった?」

 プリウスは首を横に振った。

「王冠にするとか、杖に填めるとか、加工はそっちでやってね。私ぶっ壊すのは得意だけど、作るのは苦手だから」

 プリウスは首を横に振った。静かに、何度も首を横に振った。

 そして少女に向かってブルーダイヤモンドを差し出し続けた。

 少女は、目を細め、暗い目つきになった。

「要らないっていうこと?」

 プリウスは頷いた。

「じゃあ代わりに何が要るの?」

 プリウスは首を横に振った。

「絵を返せってこと?」

 プリウスは頷いた。

 少女は首を横に振った。

「返さない」と少女は言った。「あの絵は絶対に誰にも渡さない」

 少女は断固たる、といった決意の眼差しでプリウスの目を睨みつけた。

 プリウスも、それに負けじと睨み返した。宝石を差し出した手を、決して引こうとしなかった。彼女の胸元に向かって手を差し出し、ぴくりとも動かなかった。

 二人の表情は、全く同じだった。眼の光の強さも、引き締められた唇も、鋭角になった眉も、鏡で映したように似通っていた。

 二人は何分間もそうしていた。星の光が二人に降り注ぎ、足下で灯台の明かりが回転し続け、風が左右や上下に吹いて、遠くでフェリーの汽笛の鳴る音がした。

「クイズしようか」と少女が表情を変えずに言った。

 プリウスは首を傾げた。

「私が問題を出す。あんたがイエスかノーで答える。問題は一問しか出さない。正解だったら、絵を返す。不正解だったら」

 少女はそこで言葉に詰まった。唇を噛み、更に鋭くプリウスを睨みつけた。

 プリウスは首を傾げた。

「不正解になれば分かる」

 プリウスは頷いた。そして宝石を差し出した手を引き、腹の位置で握りしめた。

 少女も、確認するように頷き返した。

「分かった、じゃあ、問題」と少女は言った、「『私たちは昔会ったことがある』。イエスかノーか」

 少女の声は静かで、静かな表情だった。

 プリウスは息を飲んだ。骨が喉に突き刺さるような感触がした。

 プリウスは彼女の目を見つめて、やっぱりそうなのか、と思った。

 彼なりに瞬時に脳味噌をフル回転させた。彼女の声の調子、そしてほんの少しだけ変化した眼差しの光が、プリウスに回答を一つしか用意しなかった。

 答えはイエスだ。

 それしかない。そうでなければ彼女がこんな問いを発するわけがない。やっぱり、僕たちはかつてどこかで会ったことがあるのだ。彼女は僕の事を以前から知っているのだ。

 プリウスは少女の表情を伺った。刻一刻とその目は見開かれていき、期待に満ち溢れていた。どう見てもプリウスに向かって、早く頷け、と言っているようにしか見えなかった。

 だが、プリウスは、回答は明白にイエスであると思えば思うほど、背中に冷や汗を感じ、胃が急速に重くなった。

 プリウスには、それが全く思い出せなかったのだ。

 記憶のどこをどうまさぐっても、彼女の子猫のような丸い眼も、一方的な口調も、どこか張り詰めた空気も、全く欠片すら見つからなかった。一度会ったことがあるなら忘れられるはずがない、過度に特徴に満ち溢れた女だというのに。

 しかし彼女の方は僕のことを覚えている。何故だ?

 プリウスの頭の中で二つの思考が声となって乱舞した。いいからとにかく頷け、という声とともに、記憶に無いのに頷いてどうする、続いてそれがいつだったか尋ねられたら致命的だ、なんとか思い出せ、という指令が突き付けられた。音もなくアラートが脳内に響き渡り、プリウスは混乱した。しかし思考したり記憶を辿ったりしているような時間はない。唯一の回答はイエスで、その回答をする限り余裕はあと数秒も無い。覚えているか覚えていないかなのだから、考えたり迷ったりしている時点で回答は限りなくノーに等しくなる。プリウスは自分に言い聞かせた、答えはイエスだ、頷こう。

 プリウスは首を横に振った。

 その瞬間、周囲から音が消えた。

 あれ、とプリウスは思った。そのまま思考も停止した。首を振った姿勢のまま、気が付かないうちに俯いて、自分のスニーカーを見つめていた。

 プリウスは顔を上げ、そっと少女の顔を覗き込んだ。

 少女の表情は完全に無になっていた。

 目がガラス玉のようになり、いきなり魂が全て消えたような顔が、プリウスの方に無音で向けられていた。さっきまでのぎらぎらした生命力に満ちた目から一転、凄まじい落差だった。無表情が灯台の明かりで微かに下から照らされ、ホラー映画かと思うような凍りついた顔だった。

 その顔を見て、プリウスの心臓も凍りついた。悲鳴を上げそうになるくらい恐ろしい顔だった。自分が致命的な失敗をしたことを問答無用で理解させる顔だった。何やってる、何故頷かなかった、とプリウスは頭の中で自分を罵ったが、後の祭りだった。とりあえず頷いて後のことは適当に誤魔化せばいいのに何故だ、と自分に対して驚き唖然としたが、彼は自分自身の最大の欠点を忘れていた。

 彼は自分に嘘が付けなかったのだ。

 プリウスがどうやったらこの場を取り繕うことができるのかと考え始める間もなく、少女はすっくと立ち上がった。足場の落ち付かないアーチを描く灯ろう屋根の上で、真っ直ぐに背筋を伸ばして立ち、正面に視線を向け、風に髪が揺れた。

 倒れて落下してしまうのではないか、とプリウスは思った。

 少女はその場で踵を返した。そしてその瞬間屋根を駆け上がった。屋根の天辺にたどり着くと、避雷針を兼ねた風見鶏を掴んで身を翻し、体操選手のように体をさかさまに反転させた。

 プリウスの目が追えたのはそこまでだった。次の瞬間には、少女は風見鶏の先端に立っていた。一連の動きはまったくの無音だった。重力が消失したような、ふわりと羽が舞い上がるような動きだった。少女は真っ直ぐ前方を見据えて、恐らく今まで人間が一人も立ったことのないであろう場所に、木に留まる鳥のように立ち尽くした。

 プリウスはよろけながら立ち上がり、少女を見上げた。

「不正解」と少女は言った。

 少女の体がゆっくりと後方に倒れた。それはスローモーションのような動きだった。プリウスは目を見開いて、反射的に少女の方に手を差し伸べた。少女の瞼が閉じられているのが、暗がりの中で見えた。

 少女は暗闇の向こうに落ちて行った。

 その瞬間、プリウスはアーチを駆け登った。勢いをつけすぎて風見鶏に衝突し、その鉄の棒を掴んで、少女が倒れて行った方を身を乗り出して覗き込んだ。

 何も見えない。

 プリウスは叫ぼうとした。

 だが何と言ったらいいのか分からなかった。

 彼女の名前も知らない。

 プリウスは激しく息を吸ったり吐いたりして、目を思い切り開いて暗闇を見つめた。灯台の光が回転する向こうに微かに見えるのは、岩場と、そこに打ち寄せる波の微かな白い色だけだった。

 頭の中が真っ白になったまま、どうすることもできずに暗闇を見つめ続けた。頭上で鳥の鳴く声が聞こえた。プリウスは上空を見上げたが、鳴き声はすれど何の姿も見えなかった。また視線を下方に向け、少女の姿を探した。

 プリウスの眉間にしわが寄った。

 変だ、とプリウスは思った。

 何が変なのか、プリウスは自分に訊ねた。だって変だろう、と自分の頭が答えた。

 何の音もしなかった。

 彼女の体が灯台の下までそのまま落下したなら、何らかの音がしたはずだ。だが、灯台の回転する音と、波の音しか聞こえなかった。変だ。

 それはどういうことだ?

 よく分からない。

 よく分からないがそれはつまり、彼女は下までそのまま落ちたのではない、ということだ。プリウスは先ほどの少女の挙動を思い出した。あの身のこなしは、人間業とは思えなかった。

 プリウスは胸に手を当てて、鼓動を落ち着かせようとした。

 すると、指先に異物の感触がした。プリウスが下を向くと、シャツの胸ポケットに何かが入っていた。指先でそれを取り出した。

 ビニールに包まれた大福だった。

 それがいつ胸ポケットに入れられたのか、プリウスは全く気がつかなかった。ビニールの包装を開いて、粉に覆われたすべすべの大福を齧った。餡の甘みと酸っぱい果物の味覚が口中に広がった。

 いちご大福だった。

 大福の二口目を齧りながら、落ちたんじゃない、とプリウスは思った。

 消えたのだ。

 プリウスはいちご大福を良く噛んで嚥下すると、屋根をゆっくりと降りた。タラップを降り、扉をくぐって、真っ暗闇の中の螺旋階段を一歩一歩降りて行った。

 灯台の入り口扉を押し開いて出て行くと、街へ戻るあぜ道の途中、正面に人影が三つ見えた。

 プリウスはしばらく歩いて立ち止まり、目を細めてその影を見つめた。

 タカハシとマウンテンとポカリだった。タカハシは学生服のポケットに手を突っ込んで、マウンテンは暗闇の中でサングラスをかけたまま腕を組んで仁王立ちし、その少し後ろに戦場カメラマンのような重装備のポカリがいた。

 プリウスは色々な意味を含んで首を傾げた。

「お前やっぱり灯台にいたのか。誰か二人、灯台の上にいるのが見えた。暗くてはっきり分からんかったが」とタカハシが言った。

 プリウスは頷いた。

「どうやって入った? 俺たちも入ろうとしたけど、鍵がかかってて入れなかった」

 プリウスは首をかしげた。

「いや、力を入れれば開きそうだった」とマウンテンが言った。

「お前が気張ったら鍵より先にドアノブの方がぶち壊れそうだったから止めたんだ」とタカハシは言った、「まあいい。とにかくお前はあの女を見つけたんだな」

 プリウスは頷いた。

「じゃ、紹介しろよ。そして俺にアポロを返させろ」

 プリウスは首を横に振った。

「なんだよ、まだ灯台の上にいるんじゃないのか?」

 プリウスは首を横に振った。

「どういうことだよ、お前以外にはまだ誰も」

 タカハシは言葉の途中で、目を細めた。道の向こうの灯台の光が急に強くなった。ポカリは反射的に光に向かってカメラを構えた。だがシャッターを押すことはできなかった。次の瞬間、灯台の光量がいきなり数百倍になって炸裂した。目の前に巨大な太陽が突然現れたような光だった。

 ほとんど同時に、凄まじい轟音と爆風が4人を襲った。

 プリウスは顔から前のめりに倒れ伏し、タカハシとポカリはあお向けに吹っ飛んだ。マウンテンのサングラスが顔からずれた。

 暴風が吹き渡り、あぜ道の砂利が飛び散り、様々な種類の鈍く堅く巨大な音が周囲一帯を駆け抜けた。鳥たちが一斉に飛び立ち、あっという間に逃げ出していった。倒れて砂利に顔面を突っ込ませたプリウスは、真っ暗闇になった視界の中で、耳が全く聞こえなくなり、何が起きたのか分からなかった。

 竜巻のような風の中で、プリウスはしばらく微動だにせず倒れたままだった。ゆっくりと顔を上げ、瞬きをした。何度も瞬きをした。視界は揺れ、耳は果てしなく遠ざかっていたが、鼻だけは生きていた。鉄と炭と煙と、それ以外の良く分からない何かがごちゃごちゃに混ざった熱のこもった臭いが、辺りに充満していた。

 しばらくして、肩に誰かの手が掛かり、プリウスはそっと引っ張り上げられた。マウンテンだった。

 プリウスの耳元でマウンテンは、大丈夫か、と言った。

 それが大声だったのか囁くような声だったのかは分からなかったが、とにかく大丈夫か、と言っているのは分かったので、プリウスは頷いた。

 そして背後に振り返った。

 暗闇の中で、コンクリートを中心とした瓦礫が一帯に飛び散っていて、代わりにさっきまであったはずのものが無くなっていた。

 灯台が無くなっていた。正確には、半分以上が消し飛んで、大量の煙と微かな炎を立ち上らせ、折れ曲がった鉄柱が飛び出した円筒形のオブジェになって佇んでいた。壊れた巨大な花瓶のようだった。

 プリウスはマウンテンと並んで茫然と立ち尽くした。

 プリウスが立ち上る黒い煙を眺めていると、いつの間にか隣にタカハシとポカリもやってきた。4人は汚れた顔と服で、ついさっきまで灯台だったものをぼんやりと見上げ続けた。

 波の音とうねる風の音の中で、もうもうと立ち上る煙の香りと埃に包まれて、4人は無言だった。

 灯台が爆発した、と4人は思った。それ以外全く何も考えられず、またそれが何故なのか、どういう意味なのかは全く分からなかった。

 ポカリは胸元に抱えたカメラを構え、廃墟に向かってシャッターを切った。

 その音で正気に戻ったように、タカハシの体がぶるっと震えた。

「やべえ」とタカハシは言った、「逃げるぞ」

 プリウスとポカリは首をかしげた。

「警察だか救急車だか分からんが、誰かが来て見つかったら死ぬほど面倒だ。なに訊かれても説明できることなんか一個もねえ。全く訳が分からんからとりあえず逃げろ」

 タカハシがそう言うと、頷き合ったりすることも無く、4人全員一斉に、灯台に背を向けて走り出した。

 タカハシは少女が乗っていたカーボンフレームのロードレーサーに跨り、プリウスは盗んだママチャリに乗り、ポカリは自前の自転車のペダルを漕ぎながら走りだし、マウンテンはバイクのエンジンを掛けた。

 そして4人とも坂を駆け下りた後、それぞればらばらの方向に散り、全速力で走った。駆け出してから別れるまで、何の会話も無かった。

 暗い道路を無灯火で走りながら、プリウスは笑った。何がおかしいのか自分でも良く分からなかったが、あの子が灯台を爆破したのだ、と思うと、とにかく腹の底から笑いが込み上げて来て止まらなかった。

 彼女はまた現れる、とプリウスは思った。

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