第20話

 仮眠したプリウスは、目を覚ますと直ちに学生服を着て外に出た。出来上がった絵をコンビニに持ち込み、100枚ほどカラーコピーした。

 そして、電柱や、家の壁や、堤防の下に、それをべたべたと貼りつけて街を歩き回った。今朝はやたらと街に人の数が多かった。喫茶店の前で、ファストファッション店の前で、駄菓子屋の前で、プリウスは多くの人々とすれ違った。だが、張り紙を無断で貼りつけて行くプリウスに、誰も注目することは無かった。人々は誰もが大声で何か喋り合い、深刻な顔をしていて、何か喫緊の課題を抱えているようだった。それが何なのか良く分からなかったが、無視されるに越したことは無い。プリウスはひたすらトニーの絵を壁に貼りながら歩いた。

 プリウスは駅近くの中古カーディーラーの前を通りかかった時、立ち止まった。

 他の幾つかの場所と同じように、そこも、営業時間外だというのに店前で数人のスーツ姿やシャツ姿の男たちが立ちつくしていた。彼らは制服を着た警官と話しこみ、鋭い剣幕で必死に何かを訴えていた。

 店の前にパトカーが停まっていたが、そこにある車はその一台だけだった。

 いつも店の前の囲いの中で、ぎっしりとレイアウトされているはずの車が、一台も無くなってがらんどうになっていた。

 プリウスはその、完全に空洞になった店舗を茫然と眺めた。

「この店には何台あったんですか?」と警官が尋ねた。

「15台です」とスーツ姿の男が答えた。

「15台全部が盗まれたんですか?」

「見りゃわかるでしょう。空っぽですよ」

「トヨタ・プリウスばっかり?」

「そうです。うちはプリウス専門店ですから。一晩で、根こそぎです。どこの盗賊団の仕業ですか? 二日後にはサミットだってのに、警察は一体何を見張ってんですか?」

 プリウスは顔を伏せ、足早に店の前を通り過ぎた。

 どんどん動悸が速まって行く胸を時々押さえながら、街中に張り紙を貼り続けた。

 登校時間が近づいてきて、家に戻り、朝食を簡単に摂ってから高校に向かうと、この数日、最早見慣れた光景となった、クラスメートたちによる噂の交換会が繰り広げられていた。しかし話題が多岐に渡り過ぎていて、討論の場ではなく単なる混乱の集積場と化していた。

 街外れの工場で火災が起き、今も詳しい被害状況は分かっていない。

 畑からイチゴが根こそぎ盗まれた。

 数十軒の家で、家の外に繋いでいた首輪が断ち切られた犬たちが逃げ出した。

 港に係留されていたヨットやボートがもやいを外されて何台も行方不明になった。

 自転車に乗ったゴリラが街を徘徊していてそれに驚いた近所の老人が足を滑らせて骨折した。

 プリウスが通り掛かった、中古車ディーラーから全ての車が盗まれていた事件も話題に上がっていた。

 しかし、それらの中でも教室内で最も大きな話題となっていたのはやはり、プリウス達が通う男子校と、タタラ場を結ぶ道の途中にある橋が崩落したニュースの続報だった。やはり崩落原因は爆発で間違いないらしい。橋の補修工事が行われてからまだ3、4年くらいしか経っていないため老朽化が原因のはずはなく、飛び散った破片などの状況証拠からも明らかではあったが、実際に川から火薬の粒子や起爆装置の破片が発見された。昨日の9時から11時にかけてのどこかで爆弾が設置され、そして起爆された。しかし犯人はまだ見つかっていない。もちろん橋は今も行き来ができないままだ。ゴッサムの生徒たちもタタラ場の生徒たちも互いに全く用は無かったので実質的な生活上の被害はほぼ皆無だったが、尋常ならざる事態には違いない。幾らかの生徒たちは先日の灯台の爆発と橋の崩落を結びつけて考えた。二つの事件の犯人は同一人物であり、それは学校生活に不満を抱えたタタラ場の女子生徒なのではないか。

 彼らは笑いながらそう話していた。

 プリウスは全く笑えなかった。

 なんかここ最近いい加減やばくねえか、とプリウスの後ろの席のキュアドリームが、その隣の席のしまむらに言った。「まじでテロが起きるんじゃねえの、来週のサミットで」

 プリウスが胸を押さえて俯いていることに、教室の中の誰一人として気がつかなかった。

 彼はずっと聴き耳を立てていたが、話題の渦の中に、タタラ場の長い髪の美しい女子高生が行方不明になった、というニュースだけはどこにも無かった。それだけで安心するわけにはいかなかったが、プリウスは最早タマゴが無事に家に帰ったことをただ信じるしかなかった。彼女の安否を確認しに再度タタラ場へ赴きでもすれば、今度こそはぐれメタルがどんな行動に出るか分からない。

 プリウスは深呼吸して、教室の中を見回した。

 タカハシは腕を組んで眠っていた。ポカリは俯いて、持ち込んだノートパソコンでキーボードをぱたぱた叩いて調べ物か作業をしている様子だった。マウンテンは相変わらず停学中で、姿が見えない。

 授業が始まる前から終わるまで、タカハシもポカリもプリウスの方を一切振り向かなかった。彼らがあえてそうしているのだということはプリウスには分かっていた。

 プリウスは授業中、漫画を描き続けた。昨日、山の中腹でタマゴと話していたところに唐突にゴリラが現れて彼女が気絶すると、続いて木々の間からはぐれメタルが現れ、プリウスを麻酔針で昏倒させ、飼い犬のトニーを盗み、街のいずこかへ去っていった、その一部始終を。頭で思い返してみると理屈も流れもめちゃくちゃなストーリーだったが、絵にしてみると何故か不思議なリアリティがあった。漫画のトーンは全体的に暗く沈み、重々しい圧迫感に包まれていた。

 土曜日だったため、授業は午前中で終わった。

 クラスメートたちは足早に帰宅していき、タカハシとポカリとプリウスだけが教室に残った。プリウスは席にじっと座っていた。開け放たれた窓の外から風が吹き込み、白いカーテンがぱたぱた揺れていた。空は重い雲に覆われ、今にも雨が降り出しそうだった。ポカリがノートパソコンのキーボードを打ちこむ乾いた響きが教室内を覆っていた。

 眠っていたタカハシが大きく伸びをして振り向き、プリウスの顔を眺めた。

「その顔は、昨日女子高生を押し倒して上手いことやった奴の顔じゃねえな」

 プリウスは頷いた。

「火事だとか爆発だとか泥棒だとか、一体どこの世紀末だ。お前の漫画にはいつになったらパンツが出てくるんだよ」

 プリウスは微笑んだ。ポカリが作業を終えてノートパソコンを閉じると、3人は席から立ち上がって歩き出し、教室を出た。

 下足ロッカーを出て校庭を歩くと、校門の前にマウンテンがいて、その巨体を門扉に凭せ掛けて立っていた。3人がその前を通り過ぎて行くと、マウンテンも並んで歩き出した。

 4人は全く会話をしなかった。ひたすら無言で、並んで真っ直ぐ歩いた。

 高校の前を流れる川に掛かる橋を遠巻きに眺めると、警察や工事業者や学校関係者が集まっていた。何を言っているのかは良く分からなかったが、とにかく誰もがいら立っている様子なのは分かった。誰もが、明後日始まる国際会議に備えて万全の態勢を組まなくてはならないと言うのに、こんなど田舎の橋一本の世話にかかずりあっている暇はない、という顔をしていた。マスコミの姿も見えた。だがその数はごく僅かだった。多分こんなどうでもいい橋の事よりも、工場の火災やらイチゴ泥棒やら車泥棒やらの方の取材を優先させているのだろう。

 4人の中で、プリウスが一歩だけ先を歩いた。

 彼の足は真っ直ぐ自宅に向かっていた。誰にも会話を聞かれない落ち着いた場所で話す必要があったが、例の丘の上には近寄りがたく、他のどの場所が「安全」なのかも分からなかったので、最早プリウスには自宅しか思い当たるところが無かった。坂道を下り、神社の前を通り過ぎ、潰れた喫茶店の角を曲がって少し歩くと、いつも通り家からピアノの演奏と歌が聞こえてきた。

 プリウスは無言で玄関扉を開き、3人に家に上がるように促した。ポカリがお、お、お邪魔します、と言って靴を脱ぐと、ピアノの音が止んだ。

 家の奥からプリウスの母親が現れた。

「まあ」とプリウスの母は言って、微笑んだ。「パセリ、私の新しい生徒を三人も連れて来てくれたの?」

 プリウスは首を横に振った。

「じゃあビーチボーイズの撮影? この人、竹野内豊って言うよりもガッツ石松みたいだけど大丈夫かしら?」

 プリウスは首を横に振った。

「そう、残念だわ。私あのドラマ好きだったのに」とにこにこ笑いながらプリウスの母は言った、「パセリが帰って来るのを待ってからまた出かけようと思ってたのよ、トニーを探しに」

 お腹が空いたら、テーブルの上の物をあっためてね、と言って、プリウスの母はドアの向こうに引っ込んで行った。そしてやがてまたピアノの音と歌が聞こえてきた。チック・コリアの「ワット・ゲーム・シャル・ウィ・プレイ・トゥデイ」だった。出かけるのはもう一曲歌い終えてから、ということのようだった。

 プリウスの部屋に続く階段を登りながら、サウンド・オブ・ミュージックみたいな家と母親だな、とタカハシは言った。

 プリウスは部屋のドアを開ける直前で、立ちすくんだ。ドアノブに手を掛けて、そのまま動かなくなった。

 何故留まるのか自分でも分からなかった。

「何だ?」とタカハシが訊いた。

 プリウスは眉間にしわを寄せた。

 そして、振り返って階下を見下ろした。歌とピアノは変わらずに聞こえてくる。妹はいない。おそらく、母に先んじてトニーを探しに出掛けているのだろう。

 ではこの気配は何だ?

 マウンテンがプリウスの肩に手を置いた。二人は視線を交わし、マウンテンはプリウスに向かって頷いた。そしてプリウスと体を入れ替わり、ゆっくりとドアノブを回し、扉を押し開いた。

 僅かに開いた隙間から、マウンテンは部屋の中を覗き込み、表情を変えずにすぐに閉じた。

 マウンテンは首を横に振った。

「この部屋はもう駄目だ」

「なんだそりゃ。部屋の中が爆発で全部吹き飛んでたか?」

「見てみろ」

 マウンテンは体をずらし、タカハシと位置を交代した。

 タカハシは無造作にドアを開いた。

 半分くらい押し開いたところで、ドアが何かにぶつかって、止まった。

 だが部屋の中の様子を見るにはそれで充分だった。タカハシは目を細め、プリウスは目を開き、ポカリはぎゃあっ、と叫んだ。

 床の上が、うねっていた。最初にプリウスの目に映ったのはしゅるしゅると舌を伸ばす蛇だったが、すぐに他の、一目で判別しきれない無数の生物たちの中に埋もれて行った。

 プリウスが全く見覚えのない、極彩色の空間が誕生していた。

 そこにいたのは数え切れないほどの動物や虫たちだった。蛇や、トカゲや亀などの爬虫類、アマガエルやイモリなどの両生類がのそのそと床を這い、コオロギやカマキリやコガネムシが跳ねたり飛んだりし、リスやイタチやアライグマやウサギがベッドの上で寝そべっている。ヒバリやシジュウカラやウグイスが部屋の中をぱたぱたと飛び、無数の色とりどりの蝶が舞っていた。壁に立て掛けたプリウスの絵にトカゲがまとわりつき、プリウスの机の上でバッタが跳ねまわり、照明のシェードにスズメが留まっていた。一つ一つを取りあげて行けばそういうことだったが、総体としてはただのカオスだった。

 その色も、その臭いも、まるでアマゾンの原生林だった。

 モンシロチョウが4人の傍を通り抜けて部屋を出て行った。

「なかなかいい部屋に住んでんじゃねえか」とタカハシが言った。

 プリウスは頷いた。

「しかし腰を据えて話すのには向いてねえな。口の中に蝶が入ってきそうだし、蛇に尻を噛まれそうだ。どうする?」

「み、み、見なかったことに」とポカリが言った。

 プリウスは首を横に振った。

 そしてしばらく立ちつくした後で、止むを得ず足を踏み出した。

 プリウスは虫や様々な生々しい者たちを踏みつけないように注意して部屋の隅まで歩いて行き、窓を開いた。家の前はささやかなブナの林が広がり、その向こうは川になっている。

 そしてとりあえず一番近くにいたトカゲを掴んで窓の外に放り捨てた。カマキリを投げ捨て、蛇を投げ捨てた。マウンテンとタカハシもやって来て、鳥を手ではたいて追い出し、マウンテンがリスとイタチをまとめて窓から木の上に投げ捨てた。落ちた衝撃で死んでしまいそうな者たちだけ、ビニール袋に詰め込んで、階段を下りて外に出て行き、林に放した。動物たちは無言で、あるいは悲鳴を上げて、次々に林の向こうに消えて行った。

 その作業の途中でピアノの音が止んだ。プリウスの母はトニーを探しに出掛けて行ったようだった。

 全ての動物たちを追いだして床に掃除機を掛け、軽く水拭きをして完全に片付くまでには、たっぷり1時間は掛かった。四人がストライプのラグマットの上に座りこんでも、辺りにはまだ生々しい臭いが残っていた。

 プリウスは3人に、授業中に続きを描き足したスケッチブックの漫画を開いて見せた。

 漫画を読み終えた3人は、一様にため息をついた。

「で、怒り狂ったはぐれメタルは街を荒らし、この部屋をケモノまみれにしていったわけだ」とタカハシが言った、「このキレっぷり、半端じゃねえぞ、まじで。お前があいつをなんとかしねえと、そろそろ日本がやばいんじゃねえか」

 プリウスは頷いた。

「相変わらず、警察に行くつもりはないんだろ?」

 プリウスは頷いた。

「賢明な判断だ」とマウンテンは言った、「警察に託したところで彼女は捕まらん。むしろ俺たちが逆襲を受ける可能性が高まるだけだし、そもそも今更手遅れだ。容疑の数が多すぎて、全ての供述と捜査に付き合っていたら、どれほどの時が掛かるか知れん。少なくとも俺たちの残りの高校生活はそれだけでほとんど終わるだろう。それだけならまだいいが、無駄に時間を奪われて、結局俺たちは何一つ取り戻せない。お前の絵も犬も戻らん」

「それで、あの女は何がしたいんだ? 本当に何もかもプリウスのせいだっていうのか?」

「そ、そ、そうらしい」

 ポカリがそう言った。

 3人がポカリに振り向くと、ポカリはノートパソコンを開いて示した。

 その画面にはツイッターのとあるアカウントの呟きが列記されていた。ポカリは下から遡って画面をスクロールしてみせた。



  @spiritoftheair 5月×日

  やっともう一度会える

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  @spiritoftheair 5月×日

  なにあの犬

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  @spiritoftheair 5月×日

  ケータイが無い

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  @spiritoftheair 5月×日

  なんてきれいな絵

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  @spiritoftheair 5月△日

  もうがまんできない 

  あの絵がほしい

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  @spiritoftheair 5月△日

  爆発

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  @spiritoftheair 5月△日

  彼は完全に忘れてる

  むかつく

  心の底からむかつく

  じゃあ何で追いかけて来るの

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  @spiritoftheair 5月○日

  一人で来ればいいのに

  変なやつらを連れて

  猫でいいわ

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  @spiritoftheair 5月○日

  彼がムーミンになった

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  @spiritoftheair 5月○日

  もういい

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  @spiritoftheair 5月○日

  彼が何考えてるのか分からない

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  @spiritoftheair 23時間前

  何考えてるのか分からない

  彼は私のことを全く覚えてない

  それなのに追いかけてくる

  そしてそのために他の女を頼るなんて理解できない

  どうしたらいいのか分からない

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  @spiritoftheair 22時間前

  可愛くない犬

  こんな犬、前はいなかった

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  @spiritoftheair 13時間前

  なんなのプリウスって

  プリウスなんて知らない

  プリウスって何?

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  @spiritoftheair 11時間前

  イチゴが食べたい

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  @spiritoftheair 3時間前

  最後のプレゼント

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 まじかよ、とタカハシは言った、「これ、あの女のツイッターアカウントか?」

「そ、そうだ」

「どうやって分かった?」

「ひ、ひ、ひたすらけ、け、検索しただけだ。それぞれの事件が起こる前にさかのぼって、該当の呟きがないかどうか。分かりにくいけど、じ、事件に関連するツイートは全部、事が起こる前に書き込まれてる。間違いなく彼女のアカウントだ」

「検索して分かるんだったら、他の奴にもどこかでばれてるんじゃねえか。それなのに全部ゼロリツイート、ゼロいいねでスルーされてる」

 ポカリは首を横に振った。

「ぐ、ぐ、具体性がほとんどないから、お、俺らしか多分分からない。フォロー数もゼロ、フォロワー数もゼロだけど、こんな意味不明なつぶやきの羅列だけのアカウントは珍しくもなんともないんだ。だ、だ、誰にも秘密を打ち明けられない者が、王様の耳はロバの耳と叫ぶための穴だ」

「分かった。とにかく良く見つけたな」

「いざとなったらパ、パ、パケット盗聴をするつもりだった」とポカリは言った、「か、か、彼女は時々駅前のファミレスに通ってた。あそこは無線LANが飛んでる。鍵付きならそこでパスワードが分かるはずだった。で、で、でもこのアカウントはオープンだから必要無かった。い、い、意識してるかしてないかは分からないけど、彼女は見つけられたがってる」

「なるほど。盗撮カメラマン兼ハッカーか。これほど恐ろしい組み合わせも滅多にないな」

「み、み、みんな不用心すぎる。パスワードシステムなんて、わ、わ、分かってしまったらそれまでだ」

 タカハシは眉間に深い皺を寄せた。彼がそのハッキング技術を習得するまでに至る研鑽の日々と、何のためにそんな技術を身につける必要があったのかに思いを巡らせると、碌でもない想像が次々に浮かんできたが、そんなことは今どうでも良かった。そして、それよりも、とタカハシは思った。

「それよりも、ここにあの女の居場所のヒントになるような情報は無いのか」

 ポカリは首を傾げた、「あ、あ、あるにはある、けど、よ、よく分からない」

 ポカリはブラウザ画面を下の方にスクロールして、あるポイントで止めた。ポカリの指が、一つのツイートを指し示した。そこには画像が貼りつけられていた。

 森を映した写真だった。

 手前に大粒小粒の石が敷き詰められた川原があり、細いせせらぎが流れ、その向こうに鬱蒼と茂った森が光と影に包まれていた。森の木々は重々しく連なって、かなり奥深くまで続いて行く気配を感じさせた。緑も光も影も水の暗さも均等に混ざり、全体の印象として、暗い写真なのか明るい写真なのか良く分からなかった。そこに漂う空気は冷蔵庫の裏側のようにじめじめとひんやりしているようでもあり、夏の暑さを感じさせるようでもあった。フィルムで撮った写真をスキャンしたもののようで、いくばくか色あせており、撮影されてからそれなりの年月を経ている、ということくらいは分かったが、それも、5年前なのか10年前なのか20年前なのかと問われたら、どれくらいなのかはっきりしなかった。

 ツイートに、はぐれメタルのコメントは付いていない。ただその写真が貼りつけてあるだけだった。タカハシには、写真がはぐれメタルに関係のあるものなのかどうか、重要なのか特に深い意味は無いのかも分からなかった。意味があると言えばあるようにも見え、無いと言えばまるで無さそうにも見えた。彼女の生活や過去を全く知らないのだから分かるわけがない。

 タカハシが横目に見ると、プリウスは真剣な目でじっと写真を見つめていた。彼が、意味があろうが無かろうが、この写真から何かを読み取ろうとしているのは明らかだった。

「ここはどこだ?」とタカハシは言った。

「わ、わ、分からない。場所を特定するには情報が少なすぎるし、風景としてありふれてる」とポカリは言った。「こっちの方がまだ読み解ける可能性が高い」

 そしてポカリは再び画面をスクロールし、別の画像ツイートを指差した。

 和菓子屋の写真だった。ガラスのカウンターがアップで映し出され、色とりどりの饅頭や栗きんとんや最中が並んでいた。こちらはデジカメで撮った写真のようで、画像は鮮明だった。だがカウンターがアップで写されているだけで、背後の壁に掲げられているかもしれない店のロゴも、カウンターの後ろの店員の姿も見えず、店の情報が何も分からない。森の写真と同じく、ただ画像だけが貼られていて、はぐれメタルのテキストによるフォローは無かった。

「こ、こ、これだけじゃ、この店が一見してどこの店なのか分からない。けど、メニューの内容から言って、たぶん最近の写真だ。ほら」

 ポカリはそう言って、写真の一点を指差した。

「こ、こ、これ、いちご大福だ。い、い、いちご大福は普通3月から5月くらいまでしか売られてない。ツイートの日付は4日前。わざわざきょ、きょ、去年とかの写真を貼ってる可能性もあるけど、彼女は誰かを撹乱するためにツイッターをやってるわけでもないし、ある程度り、り、リアルタイムの写真を貼ったと考えていいだろう。もし日付通りのものだとしたら、5月にいちご大福を売ってる県内の和菓子屋は、50も100もあるわけじゃない。それでも、足で虱潰しに探したら、ど、ど、どれくらい時間がかかるか分からないけど、その前に、す、少なくとも数は絞れるかもしれない」

「これが何なのか、店が分かったところで何がどうなるのか分からんが」とタカハシは言った、「これしか手がかりが無いなら探すしかねえってことか」

「見たところはぐれメタルのツイートはほとんど行為に直結しているか、彼女にとって重要で抑えきれない感情の吐露だ。ヒントになる可能性がある」とマウンテンは言った、「ポカリ、その、店の候補を絞るというのは本当にできるのか?」

 ポカリは肩の高さで右掌を下に向けて、ひらひらと振った。

「や、や、やってみる」とポカリは言った、「で、で、でも幾らか手間が要る。田舎の和菓子屋はホームページなんか持っていないことが多いから。家に帰って」

 突然、爆発音のような巨大な音が響き渡り、家が大きく揺れた。

 わっ、とポカリが声を上げ、マウンテンがすっくと立ち上がった。

 本棚や、机や、部屋の真ん中に吊るされたシェードライトがぐらぐらと揺れた。

「地震か?」とタカハシは言った。

 そう言ってから、タカハシは少しだけ首を横に振った。地震にしてはあまりにも一瞬で揺れが収まった。

 プリウスが立ち上がり、窓に駆け寄った。プリウスは外の音に耳を澄まして、すぐに踵を返し、部屋を出て行った。それにタカハシ達三人も続き、どたどたと音を立てて階段を降りて行った。

 プリウスが玄関ドアを開いて外に出ると、目の前に一台の車が停まっていた。鮮やかなピンク色のシボレー・カマロだった。そのフロントがプリウスの家の玄関の柱にめり込み、柱をひん曲げていた。

 正確にはその車は、ベースはピンク色だったが、それだけでなく無数の色と絵に包まれて、目が痛くなるほどの極彩色だった。

 車体に花弁や火花や様々な種類の光が弾ける背景がべったりと敷かれ、その上に、巨大なアニメタッチの少女が描かれていた。それも一つや二つではなく、ボディの面積が許す限り全面を埋め尽くしていた。頬を赤く染めたメイド服姿の紺色の髪の少女、涼しげな眼をしたセーラー服姿の金髪の少女、両耳の上で髪を結った刀を背負う少女、胸元で両手を絡めて憂いを含んだまなざしをしたピンク色の髪の少女、やたら巨大なリボンを後頭部に付けて銃を抱えた紫色の髪の少女。彼女たちは全員共通して異常に巨大な胸と目を持っていた。ボンネットからフロントドアを経てトランクカバーに至るまでびっしりと描かれた、それらの途轍もなくカラフルな絵が目立ち過ぎて、その車はシボレー・カマロと言うよりシボレー・カマロの形をしたメタリックのキャンバスに見えた。

 折れ曲がった柱と車の隣でスーツ姿の男が一人うずくまり、右手で顔を押さえて俯いていた。男は深く肩を落とし、見るからに落ち込んでいる様子だった。

 しまった、と男は呟いた。しまった、と何度も呟いた。

「またマリに怒られる」

 プリウスは男の前に立った。しばらく立ちつくしていると、うずくまった男は手から顔を放し、プリウスと、彼と並んで立っている3人を見上げた。その髭面の男は、プリウスがよく知っている人物だった。会うのは数年ぶりだったが、彼こそがこの家の主だった。

 プリウスの父だった。

 プリウスの父は、立ち上がり、4人を眺めた。背格好や目の色と形はプリウスにそっくりだった。その目はまるで、人知れぬ深い森の奥で見たことも無い動物と出会ったかのような、怪訝な光を放っていた。4人を順々に眺め、やがて何かを確認し終えたように満面の笑みを浮かべた。

 おお、とプリウスの父は言った、「久しぶりだな」

 そしてマウンテンの前に立った。

「しばらく見ないうちにずいぶんでかくなりやがって。父さん嬉しいぞ」

 プリウスの父はそう言って、マウンテンの太い腕をばしばしと叩いた。

 マウンテンは無表情でプリウスの父を見下ろした。

 プリウスはマウンテンの腕を叩き続ける父の背後に立ち、その肩をとんとん叩いた。父が振り向くと、プリウスは自分の顔を人差し指で示した。

 プリウスの父の手の動きが空中で止まった。彼は目の前のマウンテンと、プリウスの顔を何度か見比べ、眉間にしわを寄せた。数秒の時が経ち、プリウスの父はまた、おお、と言って微笑み、今度はプリウスの腕を叩いた。

「しばらく見ないうちにずいぶんでかくなりやがって。父さん嬉しいぞ」

 プリウスは頷いた。

「頼む。柱の事は母さんに黙っててくれ。悪気は全く無かったんだ。このシボレー・カマロのV型8気筒6000CCが元気良すぎてな。この一〇年、スズキのアルトしか乗ったこと無かったんで、紳士的なラクダからいきなり気の荒いサラブレッドに乗り換えたようなものだ」

 プリウスは頷いた。

 黙っていようといまいとこれだけ派手に柱がへし折れていればあっという間に事態がばれて、直ちに原因も判明するに決まっていた。だが、昔から、何か問題が起きた時は一応試しに誤魔化してみるという行為が、父にとって儀式的に重要なのは良く知っていた。

 プリウスは折れ曲がった柱と、バンパーに深い傷が走った極彩色のシボレー・カマロを眺めた。見れば見るほど色鮮やかな車だった。

「いい車だろ。友達から譲ってもらったんだ。知っての通り、俺はプロモーターをやってるから、この類の友人関係が濃くてな。彼が今度結婚することになって、もう少し大人しい車に買い替えることになったからこの車を処分したいということだったんだ。俺はこの車に一目惚れだったから、全くお互いにとって幸運だった。今度、こいつに乗ってみんなでドライブに行こう。マリもタイムも大喜びするだろう」

 プリウスは首を傾げた。母はともかくタイムは、喜ぶどころか、トニーを心底心配して必死で探しているこのシリアスな状況下で、こんな冗談みたいな車が我が家の所有物になったと知ったら本気で怒って一生父に口をきかなくなるのではないか、と思った。

「ところで、母さんとタイムは家か?」

 プリウスは首を横に振った。

「残念だな。お土産をたくさん持ってきたから早くプレゼントしてやりたいのに。二人とも俺の帰りを毎日楽しみに待ってただろう?」

 プリウスは首を傾げた。

「そこは嘘でいいから頷いておけ」

 プリウスは頷いた。

「まあいい。仕方ないから、代わりに君らにお土産をやろう」

 プリウスの父はカマロの後部に回り、トランクを開いた。その中には、一見して用途が分からない、ごちゃごちゃとしたガラクタがぎゅうぎゅうに詰まっていた。

「知っての通り、俺は探検家だ。日本と世界各地を回って集めた秘宝を君らに託す」

 プリウスの父は、ネックの根元の部分が完全に折れ、激しい炎で焼け焦げたと思しきギターの残骸をトランクから取り出し、ポカリに差し出した。

「君は芸術的な顔をしているからこれをあげよう。1967年にジミ・ヘンドリクスがステージで焼いたギターだ。モントレーの酔っぱらいから300ドルで買った。間違いなく本物だ。その男はザ・フーのピート・タウンゼントがステージで叩き折ったリッケンバッカーも持っていたが、そっちの方は3万ドルだったので諦めた」

 ポカリは止むを得ず頷いて、それを受け取った。

 プリウスの父は再びトランクを覗き込み、片手を突っ込んで、ガラクタたちの奥から、銃身の異様に長い、黒光りしたハンドガンを取り出し、タカハシに差し出した。

「君は人を殺しそうな顔をしているからこれをあげよう。初代ダーティ・ハリーでクリント・イーストウッドが使った44マグナムだ。弾が残っているかどうか、実を言うと俺にも分からん。でもこいつは世界最強の拳銃で、お前さんのドタマなんて一発で吹っ飛ぶ。賭けてみるか? 己の幸運を。……さあ、どうする」

 タカハシは目を細めてそれを受け取った。

 満足そうにうなずいて、プリウスの父は三度トランクに向かい、両手で物品をかき分け漁った。そして、一つの大きなジュラルミンケースを取り出した。ケースを開くと、サッカー選手が脛に付けるレガースやアメフト選手が身に纏うプロテクターのような形状の金属製の何かがぎっしりと詰まっていた。パーツ同士はワイヤーで繋がっており、重々しく、チタン製のようで、何に使うものなのか良く分からなかった。

 プリウスの父はそのケースをマウンテンに差し出した。

「筑波大学の工学システム研究室で開発されたパワードスーツの試作品だ。生体電位信号を読み取って、身体機能の拡張、増幅を行う。これを装備すれば常人でもゴリラと渡り合うことができるという。ということは、ゴリラが装備すればサイヤ人と戦うこともできるだろう」

 マウンテンは無言でそれを受け取った。

「パセリ、お前にはこれをやる」とプリウスの父は言い、トランクから野球の金属バットケースを取り出した。

 プリウスはずっしりと重いそれを受け取った。ファスナーを開き、バットケースをひっくり返すと、どすっ、と音を立てて紫色の布で包まれた全長1メートルくらいの細長い物体が地面に落ちた。布を結ぶ紐をほどくと、鉄製らしき棒が現れた。しかしそれは徹底的に朽ち果てていた。全面が錆に覆われた、と言うよりも、錆が集積して出来た塊のようだった。廃ビルの隅に転がっていそうな鉄筋を2、3本束ねてくっつけるとこれになるだろう、とプリウスは思った。プリウスは手の平にこびりついた錆をズボンで払って、棒を地面に突き立てて人差し指だけで支えた。

「神剣、草薙剣(くさなぎのつるぎ)だ」とプリウスの父は言った、「言うまでも無く、これはこの国で最も重要な宝物『三種の神器』の一つ、スサノオがヤマタノオロチを退治た時にその尾から現れた太刀だ。この伝説の宝剣は、あらゆるものを切り裂き、あらゆる魔を退ける。お前の人生に、自分の力ではどうすることもできない困難が立ち塞がった時、この剣を握って立ち向かえ」

 プリウスは頷いた。しかし具体的なそのシチュエーションが全く想像できなかった。

 4人は全員全くの無表情だった。タカハシは念のため、プリウスの耳元で、一個でも本物はあるか? と小声で訊いた。プリウスは直ちに首を横に振った。

 プリウスの腹が、ぐうう、と音を立てた。

「なんだパセリ、腹が減ってたのか」とプリウスの父は言った、「ならいいものがある。いま日本で最も重要な場所で買ってきた和菓子だ」

 プリウスの父は幾つもの銀杏が描かれた若草色の和紙に包まれた箱を差し出し、包みを破って箱を開けた。

 中にはぎっしりと大福が詰まっていた。

 タカハシとマウンテンとポカリはその箱から一つずつ大福を取り出し、いただきます、と言って食べた。

 プリウスは鉄錆で汚れていない左手で大福を取り、手の平の上に載せたままでいて、じっと見つめていた。そしてやがて無言で口に含んだ。

「お、お、おいしい」とポカリは言った。「いちご大福」

「そうだろうとも」と言って、プリウスの父はにっこりと頷いた、「このいちご大福には、魔法が込められている。250年の昔からこの地に伝わり、一子相伝で受け継がれてきた味で、日本中でこの店でしか食えない。現在の店主の年齢は既に90を超え」

 プリウスは講釈をたれる父から、和菓子の箱の包み紙を奪い取った。

 いきなり素早い動きを取った息子を見返して、プリウスの父は、さすが芸術家だな、と言った、「食い気や御託よりも、装飾の方が気になるとは」

 プリウスは破れたその紙を広げて、裏返し、傾け、矯めつ眇めつ眺めた。鋭い目つきで紙の一点を睨みつけると、タカハシとマウンテンとポカリの3人に向き直り、包み紙の端に書かれた名前を指し示した。

「和菓子 咲耶(さくや)」とそこには記されていた。

 ポカリは首を傾げ、マウンテンはプリウスの目をじっと覗き込んだ。

「プリウス」とマウンテンが言った、「ここか?」

 プリウスは頷いた。

「まじかよ」とタカハシは言って目を細めた。

「な、な、何が『ここ』で、何が『まじ』なんだ?」とポカリが訊いた。

「ツイッターにあの女が上げてた写真の店が、ここだってことだろ?」とタカハシが言った。

 プリウスは頷いた。

「な、な、なんで分かる」とポカリが尋ねた。

 プリウスは口を開いた。だがそのまま、何の音も出なかった。頭の中に言葉が浮かんでいるのだが、それをどうつなげていいのか、どこから喋ってどこまで説明すればよいのか分からなかった。プリウスは眉間にしわを寄せて、首を傾げ、苦しそうな表情になった。

「いやいい、分かった」とタカハシは言った、「お前、こいつを食ってそれが分かったんだろ。てことはお前、このいちご大福をあの女に食わされたことがあるんだな?」

 プリウスは頷いた。

 ポカリはポケットから取り出したスマートフォンで「和菓子 咲耶」を検索した。グーグルマップが表示され、彼らが住む県のど真ん中にピンが立っていた。

 ポカリが3人に画面を示すと、3人とも頷いた。

「で、行くか?」とタカハシが訊いた。

「今すぐ行く」とマウンテンは言った。「ここに、手掛かりがあるかどうかも分からんからこそな。あの女の動きの速さを考えると、これがこちらからアプローチできる最後のチャンスかもしれん」

「何がなんだかさっぱり分からんが、どうやら俺のお陰で盛り上がっているようだな」とプリウスの父は言った。

「あ、あ、ありがとうございました」とポカリは言って頷いた。

「咲耶に行くなら気を付けろ。そこはやばいところだ。俺が保証する」とプリウスの父は言った。「たぶん、偶然じゃないぞ」

「どうやばいんすか」とタカハシが尋ねた。

「いま日本で最も重要な場所だと言ったろ」とプリウスの父は言い、片目を閉じて、小指で耳の穴をほじった、「しかしまあいいか。せっかくこれから行こうとしてるんだ。今からスター・ウォーズを観ようっていう奴にダース・ベイダーの正体を喋ったって何の意味も無い。行けばすぐ分かる」

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