第19話
プリウスは、暗闇の中で目を覚ました。心地よさと冷たさの中間の夜の風がプリウスのシャツの隙間を通り抜け、草が鼻先をくすぐった。目を薄く開き、緑の匂いを嗅いでいた。
夢を見ていたような気がした。内容はほとんど思い出せなかったが、誰かが自分の名前を呼んでいた。それが誰で、何のために呼んでいたのかは分からなかった。
ゆっくりと体を起こし、プリウスは両腕を抱えて身震いした。見上げると、限りなく満月に近い月の傍を薄雲が通り過ぎて行った。夜の港町の光が、夜空の星と対称になって点々と瞬いている。
救急車のサイレンの音が遠くから聞こえる。
ここはどこだ、とプリウスは思った。
その瞬間、プリウスは瞬きして、弾かれるように立ち上がった。
辺りを見回した。
丘の中腹の森の合間、さっきまで、自分と、タマゴとはぐれメタルがいた場所だった。そこから少しも動いていない。
しかし、どこにも、誰もいない。倒れたタマゴも、怒りと悲しみの表情を浮かべていたはぐれメタルも、どちらの姿も無かった。
プリウスは首筋に手を当てた。はぐれメタルが何かを首に突き立てて、自分は気を失ったのだった。刺された箇所に痛みは無い。ただ軽い頭痛だけが残っていた。
風が海と夕餉の匂いを運んでくる。
プリウスはしばらく立ち尽くし、首を横に振った。
プリウスはスケッチブックとカバンを拾い上げ、丘を下り始めた。暗い山道をざくざく足音を立てて下りながら、プリウスははぐれメタルの顔を思い浮かべた。現れるのは、一瞬だけ見えた最後の彼女の顔、俯いていた顔を上げて自分の首に何かを叩きつける直前の彼女だった。プリウスは胸を手で押さえた。鼓動が速くなっていて、体の中であちこち無軌道に振動が起きていた。山道を出て家路に就きながら、月明かりの下で左手首の腕時計を見ると、午後8時を過ぎていた。またタイムに怒られる、頭の片隅でそう思ったが、浮かんでくるのははぐれメタルの顔ばかりだった。
家にたどり着くと、玄関には普段通り、黄色い明かりがついていた。今はほとんど影の中に沈む、花々で覆われた庭を通り過ぎた。
玄関のドアを開けた瞬間、おかしい、と思った。
静かすぎる。
母の歌声が聞こえない。
廊下の向こうから、お兄ちゃん、と声がした。同時に部屋の中からタイムが現れ、ほとんど全力疾走で駆け寄ってきて、プリウスの胸に手を突いて止まった。
「トニーは?」
プリウスは首を傾げた。
「トニーはどこ? 一緒じゃないの?」
プリウスは首を傾げた後で、横に振った。プリウスがトニーを散歩に連れて行ったのは今日の早朝、女子高に侵入する前のことだったが、それは何日も前の事のように感じられた。
「トニーがいないの。どこにも」とタイムは言った。「私が学校から帰って来て、散歩に連れていって、足を洗って、部屋の中に放しておいたら、いつの間にか、いなくなっちゃったの。本当にいつの間にか。どれだけ探しても、家の中のどこにもいなくて。お兄ちゃん、本当に知らない?」
プリウスは眉間にしわを寄せて、首を横に振った。
「お母さん、トニーを探しに行ってるの。お母さん、私はお兄ちゃんを家で待てって。トニーと一緒に帰って来るかもしれないからって。私も、きっとそうだと思ったんだけど」
プリウスは、目を真っ赤にして話すタイムの目を見つめながら、口を半開きにして、茫然とした。
はぐれメタルの姿が、頭の中で一杯になった。
彼女だ、とプリウスは思った。
丘で、倒れ伏した自分とタマゴの体を見下ろし、タマゴの体を背負って山を下り、やがて一人この家に向かって歩いて行く彼女の背中が、プリウスの頭の中の画用紙に、はっきりと描かれた。
だがその顔は、髪に隠れてもう見えなかった。
プリウスはタイムの頭を撫でた。タイムはそれを振り払おうとせず、唇を噛みしめて、両手の拳を握りしめていた。
「お兄ちゃん、私たちもトニー探しに行こ。ドッグフードあげ損ねちゃったから、あの子多分、凄くお腹減らしてる」
プリウスは頷いた。タイムは付箋にメモ書きして、靴箱の上に残した。
《お兄ちゃんと、トニーを探しに行きます》
プリウスとタイムは二人並んで、夜の街を歩いた。タイムは暗闇に向かって何度もトニーの名を呼び、プリウスは何度も指笛を吹いた。トニーの散歩コースを辿って畑や工場の脇道を歩いて行ったが、その様子は普段とは違って静かすぎた。いつもは光が射す時間帯しか歩かない道で、トニーの黄金の毛並みが輝いて太陽と重なり、活き活きとした空気に満ちていたが、暗闇の中では、トニーどころか生命の気配が全く感じられなかった。タイムの声にもプリウスの指笛にも、どこからも全く反応は無かった。二人はやがて、幹線道路に出て歩き始めたが、地方の港町の夜は早く、時折車がすぐ傍を通り過ぎて行く以外には人影もまばらだった。ファミレスの前を通り、公園の前を通り、学校の前を通り、街をぐるぐると回った後で、二人は港まで歩いて行った。
再び救急車のサイレンが聞こえ、堤防の向こうを走り去っていく。
港に停泊する船の明かりは全て落ちていた。湾内はいつも通り凪いでいて、テトラポッドに打ち寄せる波の音が遠くから聞こえる。鳥たちの姿も無い。フェリーの停留所ももう閉まっている。タイムとプリウスがそれぞれの方法でトニーを呼び続けていると、猫が一匹目の前を横切って、すぐに見えなくなった。
二人は埠頭の突端まで歩いて行った。タイムは眉間にしわを寄せて、暗い海を覗き込み、空との境目が分からない水平線を見つめた。
遠くで、今度は、パトカーがサイレンを鳴らしながら通り過ぎて行った。
プリウスは腕時計を見た。午後10時半。プリウスはタイムを見下ろした。そろそろ妹を家に帰さなくては、とプリウスは思った。おそらく、母も家に戻って来る。いつまでも自分たちが戻らなければ心配するだろう。
「トニー、どこに行っちゃったのかな」
タイムは震える声でそう言った。こんなに弱々しい妹の声を聞くのは初めてだった。いつも、自分と、家にいない父の分を含めた三人分以上の発声を一手に引き受けて喋り続けるヘビーメタルライブのようにやかましい彼女を思うと、まるで悲しい旋律を奏でるオルゴールのように圧力の無い声だった。
プリウスは頭の中に、はぐれメタルの顔を思い浮かべた。
その正確な形を、プリウスは描くことができなかった。顔のどのパーツも、輪郭も、あんなに分かりやすかった彼女の顔が、今は見えなかった。だが必死でイメージした。彼女が何を考えているのか、何を思っているのか、プリウスには分からなかった。彼女が自分に目を向けているのか背を向けているのかも分からなかった。きっとその両方だとプリウスは思った。彼女の感情の正体が分からなくても、それに自分が深く関わっていることは分かっている。ぼんやりとして焦点の合わない彼女の造形を、頭の中の入口にある、最初の看板に貼りつけた。
プリウスはタイムの肩に手を置き、彼女の目を見つめた。タイムがプリウスを見上げると、彼は深く頷き、肩に置いた手に少し力を込めた。
うん、とタイムは言った。「お兄ちゃんだったら大丈夫だよね。お兄ちゃんはトニーの言葉が分かるから」
プリウスとタイムは帰り道を歩き始めた。家を出た時よりも辺りはさらに暗くなっていたが、もうすっかり暗闇に目が慣れ、星と月の光が眩しいほどだった。その光で、プリウスとタイムの二人の影が足下に落ちた。二つの影は限りなく相似形だった。性格と行動が全く違ったために、知らない人間には兄妹と思われることが少なかったが、黙って並んで歩いていると二人の顔は瓜二つだった。
タイムは行きがけに通った、明かりの落ちた工場の前で、再び、トニー、と暗闇に向かって呼びかけた。
相変わらず何の反応も無く、二人がそのまま通り過ぎようとした瞬間、工場の入り口の壁の向こう側から、黒い巨大な影が音も無くいきなり現れた。
途轍もない巨躯だった。それが二人の前に立ち塞がって、目の前が真っ暗になった。
ぎゃあっ、とタイムが悲鳴を上げ、反射的にプリウスの背後に隠れた。プリウスも体をびくりと震わせた。ゴリラが出た、と思った。
目の前の影は首を横に振って、一歩足を前に踏み出した。その横顔が、月明かりに照らされた。
マウンテンだった。
彼は顔を煤や埃で真っ黒にして、普段以上にゴリラのようだった。だが確かにマウンテンだった。数時間前に本物に出会っていなければ断言できなかったかもしれないところだが、間違いない。改めて見るとマウンテンの体はゴリラより巨大だったが、今朝別れた、あくまで人間の、マウンテンだった。
プリウスは息をついて、肩を落とした。
「プリウス、お前か。脅かすな」とマウンテンは言った。
プリウスは首を横に振った。
「そっちの、お前が小さくなったようなのは、妹か?」
プリウスは頷いた。
「お兄ちゃん、このゴ……いや、人、知り合い?」
プリウスはタイムに頷いた。タイムの顔を見ると、マウンテンを見上げながら、完全に怪物を見る目で怯えていた。足も震えていたので、プリウスは肩を抱いて支えてやった。
「バイクを探していたんだ」とマウンテンは言った、「何者かが、盗んだ」
プリウスは首を傾げた。
「バイトを終えて帰ろうとしたら、ファミレスの駐車場から盗まれていた。切断されたロックだけが残されていたが、かなり鋭い切り口だった。あの女だ。手際が良すぎるし、それほど手練れでありながら遺留品をわざわざ残していったということは、俺たちへの宣戦布告に他ならない」
プリウスは頷いた。それでどうして工場で顔を煤だらけにしなくてはならないのか良く分からなかったが、多分、単に彼の鼻が導いたのだろう。
「いやな予感がする」とマウンテンは言った。「プリウス、聞こえたか? 今日、この街で何度サイレンの音が鳴ったか。異常な数だと思わないか?
急いで奴を見つけて叩かなければ、今にとてつもないことが起こるぞ」
プリウスは頷いた。
「お前はどうしたんだ? こんな時間に。妹と二人でトレーニングでもしていたのか?」
プリウスは首を横に振った。
「うちの犬を、探していたんです」とタイムは震えた声で言った。「トニーっていう名前の、アメリカンコッカースパニエルを。小さくて可愛い金色の犬を、見かけませんでしたか?」
マウンテンは首を横に振った。
「すまん、小さいプリウス。俺は見かけていない」とマウンテンは言った、「でも心配するな。その犬は、お前の兄貴が必ず見つける」
タイムは頷いた。
マウンテンはそれを確認すると、踵を返し、工場の前に停めてあった自転車にまたがった。その逞しい肉体でフレームをへし折りそうにしながら、ぎいぎいと音を立てて、自転車は走り去って行った。
プリウスとタイムが自宅にたどり着くと、プリウスの母も既に帰宅していた。やはり母もトニーを見つけられていなかった。タイムと母は、互いの行動について情報交換した。探した場所や時間、会った人物。最後まで話しても、有益な情報は一つも無かった。
母は相変わらずにこにこ笑っていた。
「必ず見つかるから大丈夫よ」と母は言った、「お父さんも昔からよく行方不明になったけど、最後まで帰って来なかったことは一度も無いもの」
明日の朝交番に届けに行くから、タイムはお風呂に入って寝なさい、とプリウスの母は言った。タイムは頷いて、私も明日の朝からもう一度探す、と言った。
プリウスは自分の部屋に上がり、玄関に置きっぱなしだった荷物を下ろすと、直ちにスケッチブックを開いた。そして目を閉じて、トニーの姿を思い浮かべた。
鉛筆を握りしめ、構図を思い描き、さらさらと幾つもの線を引いた。金色の毛並み、大きく開いた口から吐き出される息、跳ねるように軽快に歩く四本の脚、賢そうに高く伸びた大きな黒い鼻。プリウスが引く線は、やがてトニーの全身を完璧に映し出した。
プリウスの母がおにぎりとみそ汁を持って部屋に入ってきた。プリウスは微笑んでそれを受け取ると、母も微笑んで、何も言わずに部屋を出て行った。プリウスは左手でおにぎりを頬張りながら、右手に筆を持ち、アクリル絵の具で色を塗った。平静な眼差しで、軽くブラシを握り、既にそこにあるものを取り出すような気持ちで、静かに黄金色の絵を描き続けた。
遠くでサイレンの音が響き渡っていたが、最早プリウスの耳には届かなかった。
深夜2時、プリウスはサインペンを手に取り、完成した絵の上に、大きな文字でこう書きつけた。
《犬を探しています(名前:トニー 性別:オス)》
そして絵の下に自宅の電話番号と共にこう書いた。
《見かけた方、保護された方はどうかご連絡ください》
プリウスは、目を閉じた。
頭の中で、言葉が浮かんで消え、幾つもの顔が現れた。
そして目を開き、画用紙の右下隅に、サインペンで小さな絵を描き足した。
泡を吹き上げながら逃げて行くはぐれメタルと、それを追いかけるトヨタ・プリウスをデフォルメした絵だった。
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