第18話
周囲を森に覆われた丘の中腹に辿りつき、プリウスは大きく伸びをした。風が吹き渡り、緑の香りに包まれる。街と海と港が良く見渡せる、プリウスが、ブライト・サイズ・オーシャンがこの街にやって来るのを出迎えた場所だった。
「プリウス君、歩くの、速いね」
タマゴははあはあと肩で息をついていた。プリウスは首を傾げた。喫茶店からは大した距離ではなかったのでただの運動不足だろうと思ったが、ローファーで多少山道を歩かせたのは申し訳なかったな、ともぼんやり思った。
しかしプリウスにはここ以外適当な場所が思いつかなかったのだった。街中では誰かに会話を聞かれる可能性がある。自宅にタマゴを連れて帰ってしまうと、その間にグレイから電話と家庭訪問がある可能性があったし、母親はともかく妹のタイムがどんな反応をするか全く想像がつかなかった。少なくとも黙っていることだけはありえない、とプリウスは思った。一方で、自分が家にいないときにグレイから今朝の騒ぎについての処分の連絡があったりすれば、そこでまたトラブルが発生する恐れもあった。どうするか、プリウスなりに迷った末の判断だった。
プリウスが草の上に座りこむと、タマゴもその隣に座った。ほとんど密着するような間隔だった。
「綺麗な眺めだね」とタマゴが港を眺めながら言った、「ひょっとして、いつもここで絵を描いてるの?」
プリウスは頷いた。
「今朝のムーミン、やっぱりプリウス君だったんだね。私、吹奏楽部の片付けで遅くなっちゃって、今朝の朝礼遅刻しちゃったんだけど、見たの、ムーミンの着ぐるみから着替えて外に出てくるプリウス君を。それで後からみんなに聞いたの。はぐれメタルを探してるムーミンがいたって。プリウス君、あの子と知り合いだったんだね」
プリウスは腕を組んで、少し首を傾げた。
「知り合いっていう関係かどうか微妙ってこと?」
プリウスは頷いた。
「プリウス君あの子と付き合ってるの?」
プリウスは、眉間にしわを寄せた。
頭の中に、はぐれメタルの顔を思い浮かべようとしたが、現れたのは着ぐるみのフローレンだった。そして、もう二度と会いたくない、という彼女の声が聞こえた。
プリウスは首を横に振った。
よかった、とタマゴは言った。
「よかった、あの子はちょっと普通じゃないっていうか、なんて言うか――『凄い』から、止めておいた方がいいと思ってた」
プリウスは首を傾げた。
「あの子、結局今日は授業に出なかった。今朝、最初は来てたみたいだけど、帰っちゃったみたい。はぐれメタル、少し変わってるの。少しって言うか、かなり変わってる」
プリウスは首を傾げた。
「はぐれメタルのこと、変だと思わない?」
プリウスは首を横に振った。あらゆる規格に嵌まらない少女だとは思うが、変だと思ったことは無かった。プリウスはしばしば自分も、人から「変な奴」だと言われたが、その、変、というのがどういう意味なのか良く分からなかった。
「そうか、プリウス君の前ではあの子は普通なのかもね。うちの高校だと、あの子の周りでは、しょっちゅう変なことが起きるの。2年生の春から編入してきたんだけど、全然友達はいないし、ほとんど喋んないから、彼女のことは誰も良く知らない。でも有名なの。彼女の周りでは、物が消えたり、壊れたりがしょっちゅうなせいで。何にも証拠はないから、気のせいなのかもしれないけど、みんなそう噂してる。バスケットの授業中にボールが破裂したり、数学の先生のスカートがいきなりずり落ちたり、教室の中に凄い数のカエルが入ってきたり、パソコンの授業中にみんなのパソコンから一斉にエッチな動画が流れたり。子供のいたずらみたいな、小さなことなんだけど、でも絶対変なこと」
プリウスは頷いた。
それは間違いなくはぐれメタルの犯行だ、と思った。
「はぐれメタル、体育の授業は、絶対参加しないの。体が丈夫じゃないからって。でも私知ってる。あの子本当は、物凄く力が強いの。誰かがいたずらで、あの子のロッカーのカギを隠したんだけど、あの子がそのまま取っ手を引っ張って、ロッカーをこじ開けるのを見たの。私見間違いかと思ったんだけど、別の子は、はぐれメタルが信じられないくらい早く走るのを見たことがあるって。昼休み、購買部の一番人気のシナモンロールはすぐ売り切れちゃうんだけど、その子が急いで購買部に走って行ったら、あとから来たはずのはぐれメタルに追い抜かれたって。彼女が教室を出た時には、はぐれメタルはまだ自分の席でぐうぐう寝てたはずなのに」
プリウスは頷いた。
「だから、はぐれメタル以外にもう一つあだ名がある。テロリストって。冗談にならないから、誰も彼女の前では言わないけど。
プリウス君は、あの子と会ってから長いの?」
プリウスは首を横に振った。
「そっか、だったらきっと、そのうちにあの子の、ブレーキがない大型トラックみたいな感じ、分かると思う。どうしてプリウス君ははぐれメタルを探してたの?」
プリウスは腕を組んで頭を捻った。
それはプリウス自身が今一番知りたいことだった。
かと言ってタマゴに、今まで起こった出来事を説明するために、ポケットの中に入ったスカイ・フル・オブ・スターズや、スケッチブックに描いたはぐれメタルの犯罪物語を見せる気にはならなかった。そんなことをしてもただ面倒な結果にしかならないと思ったし、何よりただ何となくそうしたくなかった。
タマゴはプリウスの目をじっと見つめていた。傾きかけた陽の光を反射して妙に複雑に輝く目で、落ち着かない視線だった。顔立ちが整い過ぎていて、動いているのが不自然なくらいに感じられた。
タマゴは何も言わなかった。プリウスの顔をじっと見つめていた。それはプリウスの回答を待っている風でもなかった。ただ、彼の表情、顔形を形成する部品を一つ一つ確認するような目つきだった。
タタラ場の女子高生にとって、男とはそんなに珍しいものなのだろうか、とプリウスは思った。
プリウスは落ち着かず、なんとなく、スケッチブックの白紙のページを開いて膝の上に置いた。そして鉛筆を持ち、目の前に咲く山法師の花を描きはじめた。
プリウスがかりかりと筆を走らせても、タマゴはプリウスの顔から眼を逸らさなかった。
「ここ、いいところだね」とタマゴは言った。「こんな場所があるって知らなかった。色んな事を忘れられそう」
タマゴはうなじに手をやって、髪をかき上げた。柔らかく、枝毛の一本もないような長く美しい髪が、さらさらと風に揺れた。
プリウスは彼女の方に全く顔を向けずに絵を描き続けた。
「ねえ、プリウス君は大学どうするの?」
プリウスは花を描きながら、首を傾げた。
「美大? それとも他の普通の大学?」
プリウスは首を傾げた後で、首を横に振った。
「私もまだ決めてない。進路希望はとっくに提出したけど、あんなのまだ嘘で、本当は分からない。ねえ、今がずっと続けばいいと思うことない? ずっと高校生のままで、友達と遊んでる毎日が続けばいいのにって」
プリウスは首を横に振った。
「そっか。プリウス君には夢が、やることがあるもんね」
プリウスは首を傾げた。
「プリウス君、彼女いる?」
プリウスは山法師の花弁を描きながら、首を横に振った。
生まれてこの方、人間とほとんど会話をしていないのに、そんなものがいるわけがなかった。
「ねえ、一緒にあの子の家を探さない? はぐれメタルの家」
プリウスは鉛筆の動きを止めた。
そしてやっとタマゴの顔を見返した。
「あの子がどこに住んでるのか、誰も知らないの。学校に届けてある住所はもちろんあるんだけど。一度、あんまり不登校が続いたから、学級委員が彼女の家に学校の課題とか連絡事項とか持って訪ねたの。それで、はぐれメタルのマンションの部屋に上がったらしいんだけど、彼女はいたけど、部屋の中に家具が何も無かったんだって。机も、テレビも、ベッドも、何も。おかしいよねそんなの。だからきっと、本当の家が他にあるんだと思う。もちろん、お父さんもお母さんもそこにはいなかった。はぐれメタルの両親は貿易商らしいけど、普段は東京で働いてて、先生も2回しか会ったことがないって。色々と変だよね。だったら彼女一人何でこんな田舎の高校に通ってるのか、不思議じゃない?」
プリウスは頷いた。確かに奇妙だった。
はぐれメタルの親、とプリウスは思った。その姿形が、プリウスには全く想像がつかなかった。その貿易商とかいうのも多分嘘だろうし、教師が会ったと言うのが本当の親かどうかも分からない。
「私怖いの。あの子がいつか物凄いことをするんじゃないかって。今もほら、手が震えてる」
タマゴはそう言って、プリウスの左手を取った。小さく白く柔らかいその手は、確かに、細かく震えていた。タマゴはプリウスの手を両手で包みこみ、自分の方に引きよせた。
「ねえプリウス君、携帯番号教えて。私たち、LINEで情報交換した方がいいと思う」
プリウスは首を横に振った。
「教えたくない?」
プリウスは首を傾げ、また首を横に振った。
「ひょっとして、携帯持ってなかったりする?」
プリウスが頷くと、タマゴは微笑んだ。
「プリウス君らしい」とタマゴは小声で言った、「じゃあ、私これから毎日ゴッサム、じゃなかった、プリウス君の高校に行くね。放課後、今日と同じ校門の前で待ってる。そこで話そう?」
タマゴは太陽の光を反射してきらきら輝く瞳でプリウスを見つめた。目の大きさははぐれメタルと同じくらいなのだが、光の質が全く違った。タマゴの目が木漏れ日の輝きなら、はぐれメタルの瞳はマグマの炎だった。
プリウスは、悩んだ。
はっきり言って、タマゴと毎日顔を合わせるのは面倒だった。そして、単なる「面倒」で収まらないことになる予感がした。具体的にどこがどうという訳ではないが、はぐれメタルとは全く別の意味で、彼女の挙動は強引かつ危うい、とプリウスは思った。だがプリウスは、女という生き物の事を良く知らなかった。プリウスが知っている女と言えば母とタイムの二人だけだが、考えてみれば、その二人も自分の世界を強固に維持して決して他人におもねらない女だった。自分が知らないだけで、女というのは多かれ少なかれ皆こうした強引さと危うさを持っているもので、取り立てて気にするようなものではないのかもしれない。それに重要な事実として、タマゴは自分よりもはぐれメタルに近い場所にいて、既に自分が知りえない情報を持っている。それは彼女に近づくための得難い情報かもしれない。現場の生の状況を知るルートを確保しておくことに如くはない。
プリウスは頷いた。
よかった、と言ってタマゴは笑った。綺麗に剥けた茹で卵のように屈託のない笑顔だった。
「ねえプリウス君、私、中学の頃」
プリウスは相槌を打つように頷いた。
だが、タマゴの言葉は続かなかった。彼女は口を半開きにして、動かなくなった。表情が固まった。プリウスの方を見ているのかいないのか良く分からない眼差しになった。
中学の頃、何なのだろう、とプリウスは首を傾げた。
そんなに言いにくいことがあったのだろうか。どうせ何を言われても自分は覚えていないから、どんな話でも、言っても言わなくてもどちらでも大丈夫なのだが。
ご、とタマゴは言った。
プリウスは首を傾げた。
「ご、ご、」とタマゴは言った。
声が震えている。タマゴの右手がゆっくりと持ちあがった。彼女の人差し指がプリウスの背後を示した。
プリウスはタマゴの指が示す方に振り向いた。
「ゴリラ」とタマゴが言った。
その方向には雑木林が広がっている。クヌギやコナラの木々や背の高い雑草たちの緑色が辺り一面を覆っている。その木々の合間に、不自然な黒い塊が聳えていた。岩にしては黒すぎる。真っ黒い影の塊が動いているようだった。毛むくじゃらで、全身漆黒で、背の高さはプリウスと大して変わらない。しかし体の分厚さは3倍くらいありそうだった。二人が腰掛けた場所から距離にして3メートル。ほとんど目の前だった。
それはごそごそと動き、う、う、と低いうなり声を上げた。地面に腕を突いたり上げたりしながら、視線をあちこちに配っていた。
生き物だ、とプリウスは思った。分厚くて熱があって黒い。そしてゴリラだ。見間違いようも無いマウンテンゴリラだ。つやつやとした黒色の、皺だらけの彫の深い顔の真ん中で、険しく鋭い目が輝いている。ゴリラはプリウスとタマゴに向かって、真っ黒い光をした視線を真っ直ぐ投げかけてきた。
プリウスは口を半開きにして、ゴリラと見つめ合った。
ゴリラだ、とプリウスはもう一度思った。
そして反射的に、それが今朝タタラ場で別れたマウンテンなのではないかと思った。猫に襲われて正気を失い、野生に帰ってしまったマウンテンなのではないかと。
野生のゴリラがこの田舎町のささやかな丘にいきなり現れるという事態と、マウンテンがゴリラに変身するという発想と、どちらがより非現実的なのかを考える前に、プリウスの思考は強制的に断ち切られた。ゴリラが咆哮して両手で胸を思い切りドラミングし、ほとんど同時に背後で超音波のようなタマゴの悲鳴が響き渡り、プリウスは反射的に両耳を押さえた。
ドラミングも悲鳴も、数秒足らずで収まった。ゴリラは両腕を地面に突きながら、甲高い鳴き声を上げてプリウスに数歩近付き、すぐに数歩後ずさった。プリウスとタマゴを外敵なのかどうか見定めかねているような動きと目つきだった。
プリウスがタマゴに振り返るとちょうど、彼女の目が白目を剥き、その体がゆっくりと横倒しに倒れていくところだった。どさっと音を立て、完全に脱力して草むらに横たわった。
プリウスは茫然とその体を見下ろした。ぴくりとも動かない。足を折り曲げ、腕をだらりと下ろしたまま、タマゴはプリウスに背を向けていた。
プリウスは、手を伸ばしてタマゴの肩をゆすった。何の反応もない。白目を剥いたまま、彼女は死体のように全く動かなかった。どうすればいい、とプリウスは思った。何が起こっているのか全く分からないが、とにかく目前の現実に対してどう対応するのか決めなくてはならない。なぜ、いま、ここに、ゴリラなんだ、と思いながら、プリウスは口に手を当て、助けになる誰かや何かを求めて辺りを見回した。
誰もいない。
そう思った瞬間、視界の片隅を、女の顔が横切った。
反射的に全身がびくりと震えた。
プリウスとタマゴの背後、ゴリラがいる方と反対側の雑木林の入り口で、草の間から顔だけを出してこちらを見ている誰かがいた。一対の巨大な目が、薄暗闇の中でらんらんと炎のように輝いている。
はぐれメタルだった。
彼女は恐ろしく険しい目つきでプリウスを睨んでいた。藪の中から飛び出す直前の虎のような表情だった。
プリウスをひとしきり睨みつけると、はぐれメタルは立ち上がり、がさがさと音を立てて草の間から彼の目の前まで歩いて来た。
制服姿のはぐれメタルはプリウスの前に仁王立ちして、殺す、と言った。
「この女、殺してやる」
プリウスは、はぐれメタルを見上げ、何度も瞬きをした。
何故ここに彼女がいるのか全く分からなかった。
プリウスが首を横に振ると、はぐれメタルも首を横に振った。
「つまんない女。これからが面白いところだったのに、たかがゴリラが一頭吠えただけで気を失うなんて」
はぐれメタルはそう言って、雑木林に立つゴリラに向かって手を翻した。ゴリラは直ちにはぐれメタルに背を向け、がさがさと音を立てながら林の奥に消えて行った。プリウスは眉間にしわを寄せてゴリラの背中を見送った。
振り向くと、はぐれメタルがプリウスを怒りに燃えた目で睨みつけたままだった。彼女に対して、あれが本物のゴリラだったのか、野生に帰ったマウンテンだったのかを確認できるような雰囲気では到底なかった。
「この女、前から怪しいと思ってた。しかしここまでやるとは」
プリウスは首を傾げた。
「て、て、て」とはぐれメタルは言った。
プリウスは首を傾げた。
「手を握りやがった」
はぐれメタルは、今にも唾でも吐きかけるかのような苦々しい表情になり、足元を見つめた。
「あんたも。手間かけさせんじゃない。何へらへらしてんの。変態じゃないの」
プリウスは首を横に振った。全くへらへらした記憶は無かった。
「聞きたくない」とはぐれメタルは言った、「何も聞きたくない。喫茶店からずっと尾けてたから、何を話してたかは全部分かってる。こんないやらしい会話、聞いたことない」
プリウスは首を横に振った。何度も振った。
「分かってる。この女を殺せば、私は捕まらないからあんたが容疑者になる。だから殺しはしない。ただその代わり、私とあんたのことは忘れさせる」
プリウスは首を横に振るのを止め、どんな表情をしたらよいのか分からずに、はぐれメタルの顔を見上げ続けた。そして、今朝、もう二度と会いたくないと言った彼女が、何故自分たちを尾行していたのだろうと考えた。
俯いたはぐれメタルの顔は、複雑な表情になっていた。プリウスは眉間にしわを寄せてその顔を見つめたが、その感情の正体が分からなかった。しばらく見つめているうちに自分の顔が彼女の顔と同じ表情に勝手にコピーされて行くのを感じた。そうして自分の顔に描き写してみると、怒りと悲しみに満ちているのは間違いないようだったが、それだけでは描き足りない何かがあった。よく分からないそれ以外の何かの方が重要な気がした。
「どうしたら思い出すの?」とはぐれメタルは言った。「私は何も変わってないのに」
かすれた弱い声だった。
プリウスが今まで聞いた彼女の声の中で、最も弱い声だった。
もういい、とはぐれメタルは言った。「もう無理。もう」
プリウスは立ち上がり、俯くはぐれメタルに向かって手を差し伸べた。
プリウスの手がはぐれメタルの肩に触れる直前、はぐれメタルが急に顔を上げた。
次の瞬間、何かを握りしめた彼女の手首が翻り、プリウスの首筋に突き立った。手刀の衝撃でプリウスの脳が揺れると同時に、何かが突き刺さる痛みを感じた。
プリウスの手ははぐれメタルに向かって伸びたまま、行く当てを失った。プリウスは彼女の顔を見ようとしたが、他の風景と混ざってどこに何かあるのか分からなかった。プリウスの手がだらりと落ちると同時に、彼は意識を失った。
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