第15話

 明朝6時35分、プリウス達4人はタタラ場近くのコンビニ前に集合した。プリウスとタカハシとポカリが予定の5分遅れでほぼ同時に到着すると、マウンテンが腕を組んで仁王立ちして待ち構えていた。

「遅い」とマウンテンが言った。

「今度の衆議院選挙と消費税増税の相関関係について悩んでいたら眠れなくてな」とタカハシは言った。

 4人とも学生服姿だった。この姿をしている限り、タタラ場の生徒たちからは警戒される可能性が限りなく高かったが、この後、8時30分までに登校しなくてはならないのだから止むを得なかった。

 4人とも、昨晩別れる前にポカリが紙出力した丸い眼の少女の写真を携えていた。マウンテンとタカハシはそれが入ったカバン以外には素手で、ポカリは使い込まれたコンパクトデジカメを首に下げ、写真のデータが入ったタブレットとビデオカメラを持っていた。基本的にポカリが好むのはスチル撮影だったが、堂々と三脚を立てて風景のムービーを撮っている振りをしていると、本来の目的であるスチルの被写体が油断するのだと言う。それが何故今必要なのかは分からなかったが、誰もわざわざ理由を訊かなかった。プリウスは手にB4サイズのスケッチブックを抱えていた。そこには丸い眼の少女の大きな似顔絵が描かれていた。ポカリが撮った写真があるわけだから、聞き込みのためには不要だったのだが、彼には己の求めるもののイメージと実体を自分自身の中で一つにする作業として絵を描くことが必要で、眠らずに描き上げた。

 4人はタタラ場に向かって歩き出した。

 ほどなく、緑の生け垣と白亜の壁に覆われた、タタラ場の姿が見え始めた。壁の向こうの校舎は磨きあげられたタイル張りで、彼らが通う高校のみすぼらしく薄汚れた校舎に比べて著しい格差を感じさせた。建物までが彼らに敵意を持って迫って来るようだった。

「で、どうする? まさか校門の前に4人並んでプラカードみたいに写真を掲げて、この泥棒女を知りませんか、ってやりながら、女の登校を待つつもりじゃないよな」

「その通りだ」とマウンテンは言った。「堂々と正面突破するのが最も効率が良い。彼女の到着を真正面から待ち構える」

「そう言うと思ったが、それだけは止めろ」とタカハシは言った、「俺たちが、あの小奇麗な校門の前に突っ立っててみろ。わいわいきゃっきゃ言いながら登校してくる女学生どもの波の中で、どれくらい目立つか想像つくだろ。もしあの泥棒女がやって来ても、俺たちがいることが遠くからでも一瞬でばれて逃げられるに決まってる。それにお前が校門の前に地獄の門番みたいに立ち塞がってたら、何の関係もない生徒たちもびびって逃げ出しちまう。まともに聞き込みなんかできるわけない」

「ではどうする」

「い、い、いい場所がある」とポカリが言った、「こっちだ」

 3人はポカリに先導されて、方向転換した。

 昨晩、3人がポカリ宅から辞した後、タカハシとポカリは、眠る前にメールでやり取りした。

 二人は、自分たちがタタラ場に行く必要はあるのか、ということについて意見を交わしたのだった。つまり、とにかくマウンテンがやる気になっていて、一対一で女と戦うと言っているのだから、最早自分たちは傍観していれば良く、わざわざ4人で行く必要はないのではないか、とポカリは思った。

 写真のデータだけマウンテンに渡して、あとはよろしくお願いしますということでよいのではないでしょうか、とポカリはメールに書いた。

 タカハシもそれに賛同しないではなかった。確かに、タタラ場に行くのは猛烈にめんどうくさいし、ミッションの質を考えても、本来であれば一人か二人が行けばそれで済む話だった。

 しかしタカハシには、マウンテンと女子高生の間でまともな会話が成立するとは到底思えなかった。どういう過程を経るのか想像もつかないが、無視されるか、通報されるか、暴力沙汰になるか、いずれにしてもろくでもない結末になるに違いなかった。あの女がみすみすマウンテンに捕捉されるとも思えなかった。あの爆破騒ぎや携帯電話の盗難事件の展開を見るにつけ、あの女の逃げ足には神がかり的なものがある。マウンテンは彼女とストリートファイトで雌雄を決することを望んでいたが、彼女の方がその挑戦を受ける理由は全く無い。それに加えて、面倒なのはマウンテンに既に写真の出力を渡してしまったということだった。もしもマウンテンが写真の出所を問い質されるような事態になれば(それはすなわち2度目の停学ということだが)、マウンテンが黙秘を貫いたとしても、自分たち4人の関係は遅かれ早かれ明るみに出るだろう。そうなれば何の言い訳も通用しない。

 そして、プリウスは4人だろうがマウンテンと2人だろうが、どちらにしても間違いなく行くだろう。

 あの二人が無言で、瀟洒な校門の前にぼーっと突っ立っている姿を想像すると、タカハシはいたたまれない気持ちになった。

 マウンテンとプリウスだけを行かせたところで成功する見込みがなく、また自分たちに被害が及ぶ可能性さえあることを考えると、自分たちも同行するしかない、というのがタカハシの結論だった。

 ポカリも渋々それに同意した。タカハシの意見もさることながら、冷静に考えて、マウンテンがもし泥棒女を捕まえても、わざわざ自分のカメラを取り返してくれないだろう、と思ったからだった。

 女子高の敷地周りを三人を先導し、勝手知ったる庭のようにポカリは歩き続けた。プリウス達には未踏の領域だったが、ポカリにとっては一〇年も昔から週に一度は散策してきた、慣れ親しんだ場所だった。

 しかしその間、この学校の生徒と会話したことは一度しかなかった。

 学校の敷地内で身を伏せて写真を撮っているところを女子生徒に見つかり、何をしているのかと問い質され、モグラの撮影です、と答えた瞬間逃げ出した、ただそれだけだった。

 ポカリは校舎を覆う外壁の隙間、生け垣の目の前で立ち止まり、跳躍して鉄柵を掴んだ。

「こ、こ、こっち」

 そう言って柵を乗り越え、緑の向こうに消えた。プリウス、タカハシ、マウンテンがそれに続いた。マウンテンが柵を乗り越えようとした時に鉄がひん曲がりそうにきしんだ。

 ポカリは身を屈め、敷地内を生け垣に沿って校門がある方向に進んでいった。落ち葉が大量に敷き詰められている上を、4人は息を殺して歩んだ。

 そしてポカリは前進を止めた。周囲を見回すと、辺りは木が生い茂り、背後の校舎は建物の隅の窓の無い場所で、どこからも死角になっていた。そして目の前には道路に面した生け垣がある。ポカリはカバンから剪定鋏を取り出し、生け垣に生える木の枝を何本か切った。顔を木に近付け、外の道路を覗き込んで、頷いた。

「こ、こ、ここなら登校してくる生徒たちが全員見える」

 そして3人にもそこから外を見てみるように促した。

「完全にプロの犯行だな」とタカハシは枝の隙間に顔を寄せて言った。

 プリウスは頷いた。道路から1メートル半くらい高い場所に位置するそこからは、狭い隙間の割に外の様子が良く見渡せた。

「それじゃ、じっくり待とうぜ」とタカハシは言った、「もしまともにあの女が現れたら、こっそり後をつけて行く。下足ロッカーで何年何組の生徒かを確認するんだ。そして上手く行けば同級の生徒を見つけて奴の情報を聞きだす。上手く行かなくても帰りにまたここにきて、同じことをする。俺たちとタタラ場の女たちとで会話が成立するかどうか知らんが、やるしかない。いいな?」

 プリウスとポカリは頷いた。

「待て、俺が直接彼女と決闘するという方針はどうなった」とマウンテンは言った。

「お前、大量の女子高生たちが登校してくる目の前であの女と一騎打ちするつもりかよ。停学どころか警察沙汰になる。そいつは放課後の話だ。ここから離れた場所で、あの女を追いこむ。聞き込みで住所が分かればベストだが、分からなくても、この学校に確かに通っていることさえ確認できれば、今後足取りを辿るのが楽になる」

「まだるっこしい」とマウンテンは眉間のしわを深くして言った。

「も、も、もしあの子がずっと現われなかったら?」とポカリが訊いた。

「そうなったら聞き込みが手当たり次第のナンパになるだけだ。できればやりたくない。教師とかに見つかる可能性が余計高くなるからな」

 ポカリは憂鬱そうな顔で頷いた。そしてカバンからポカリスエットを取り出してぐびぐびと飲んだ。

 4人は息をひそめた。部活の朝錬に勤しむ女子生徒たちがぽつぽつと登校し始めたからだ。生け垣の向こうを歩いて行ったり自転車に乗って走って行く女子高生たちはみな背筋が真っ直ぐに伸び、スカートの丈も膝ぎりぎり位まである。髪を染めている生徒などおらず、タカハシに言わせれば、極めてつまらない画一的なスタイルだった。特に何の変哲もない10代の少女たちなのだが、タカハシの目には、彼女たちが自分たちとは全く違う世界に生きる生物のように見えた。

 4人は交代しながらしばらく静かに外を眺め、朝の通学路を爽やかに歩いて行く女子高生たちを観察した。

 タカハシは、自分の体に振動が伝わるのを感じた。

 ふと横を見ると、ポカリの腕がぶるぶると震えていた。身を寄せ合って外を覗いているので、体の震えが伝わって来るのだった。

 タカハシが眉間にしわを寄せてポカリの様子を見ていると、やがて彼は通り過ぎて行く女子高生たちにデジカメを向けて、次々にシャッターを切った。

「お前、本当にこんな時まで写真撮るのかよ」とタカハシが小声で言った。

「が、が、我慢できない」とポカリは震えた声で応えた。

 タカハシは舌打ちしそうになり、それを堪え、更に息を潜めた。3人が沈黙すればするほど、ポカリの呼吸が辺りに響き、外まで聞こえてしまうような気がした。止めさせたかったが、ポカリの荒い呼吸音は明らかに脳内麻薬が一瞬のうちに大量に分泌され始めた現れで、尋常ならざる緊迫感が彼の全身を包んでいた。ここで無理やりカメラを取り上げたら正気を失って喚き狂う恐れさえある気がした。シャッター音は切ってあるのでばれる可能性は低いのかもしれなかったが、タカハシは緊張し始めた。通学中の女子生徒に対して聞き込みをするくらいであれば朝から元気良くナンパしてましたで済むかもしれないが、敷地内の植え込みに隠れて写真を撮っているのがばれればそれはただの変態で、言い訳のしようがないし、間違いなく誰からも同情されないだろう。

 これまで一度も警察に逮捕されずに数限りない撮影をこなしてきた、ポカリの盗撮の腕前を信用するしかなかった。プリウスとタカハシとマウンテンは十数分おきに見張りを交代したが、ポカリはカメラを構えてベストポジションから微動だにしなかった。

 4人それぞれに張り詰めながら女子高生たちを観察していると、やがて、その点々とした人の流れが一旦途絶えた。朝錬組がひとしきり登校し終えたようだった。遠くのグラウンドから陸上部の掛け声と、吹奏楽部の練習音が聞こえ始めた。ドビュッシーの交響詩だった。その雄大で繊細な旋律が映し出す幻想的な風景と、枯葉と植木に潜んで女子高生を見張る現実の光景にイメージの差があり過ぎて、プリウスは目眩がした。

 座って待っているだけなのに、妙に体力を消耗する作業だった。寝不足らしいタカハシはうとうとと眠りかけていて、マウンテンはじっと身を小さくして潜めているのに耐えられないようで、むずむずと体を動かし続けていた。ポカリだけが活き活きとして、カメラを構え、狩人の目で獲物の到着をじっと待っていた。

 プリウスは眠りに落ちかけているタカハシの肩を軽く叩いた。タカハシは目をしばたたかせて頷き、プリウスと見張りを交代した。タカハシはカバンからアポロを取り出して箱を開け、3粒まとめて口の中に放り込んだ。

 口の中でアポロが完全に溶けた頃、再び、タタラ場の女子高生たちが橋の向こうから少しずつやって来るようになった。タカハシが携帯電話で時刻を確認すると、8時ちょうどだった。

 リボンをきちんと胸元で結び、長く清潔な靴下を履き、背筋を伸ばして次々と登校してくる少女たちの姿に、タカハシとプリウスは後ろめたさを伴う圧迫感を覚えた。

「しかし信じられねえ。あの女が、この高校に通ってるなんて。全然似合わねえ」とタカハシは小さな声で呟いた。

 プリウスは頷いた。プリウスにはタカハシの言いたいことは分かった。目の前を歩き過ぎて行く彼女たちは、普通すぎるのだった。

「お前、本当にあの女のこと知らないのか」

 プリウスは首をかしげた。

 灯台の頂上から彼女が消えてから、ずっとそのことを考え続けているのだが、駄目だった。もし会ったことがあるのだとしても、どうあがいてもその記憶がよみがえってくる気配がなかった。

 プリウスが頭を捻っていると、一匹の猫が彼の足元にやってきた。茶色が中心の三毛猫で、プリウスの足元でにゃあ、と鳴いた。猫はプリウスを緑色の瞳でじっと見上げていた。

 プリウスは猫と見つめ合いながら、口の前に人差し指を立てた。

 猫? とタカハシは小さく呟いた。

 すると、彼らの背後の木の足元から、猫がもう一匹現れた。黒猫で、同じようにプリウスを見上げて小さな声で鳴いた。

 プリウスは首をかしげた。

 マウンテンは眉間の皺を限界まで深くして、何だこれは、と言った。

「この小動物ども何の用だ」

 その口ぶりは、単純に、猫という生き物が不快なようだった。

 黙れ、とタカハシは小声で言った。「外の女たちにばれる」

 マウンテンは口をつぐみ、不愉快そうに顔を歪めた。

 タカハシが振り返って、木の一部になったように固定したポーズで写真を撮り続けているポカリの姿を確認しようとした瞬間、その視界の上方、生け垣を飛び越えて、また別の猫が現れた。

 真っ白い猫だった。猫はプリウスの体に飛びつき、同じような声でまた鳴いた。

 タカハシは目を細めた。

「何だ、これは。お前の飼い猫か?」とタカハシは小声で言った。

 プリウスは首を横に振った。

 その瞬間、4人の四方八方から何匹も同時に猫が現れた。

 木の上から、落ち葉をかき分け、外壁の上を辿って、校舎の影から、色とりどりの猫たちがまっしぐらに四人に向かってきた。そしてにゃあにゃあと鳴きながらプリウスに飛びかかった。猫たちはプリウスの体にまとわりつき、頭に登り、手に体をこすりつけ、学生服のズボンを引っ掻いた。

 プリウスの体があっという間に大量の猫で埋もれた。毛皮の色が入り乱れ、何匹いるのか数え切れなかった。

 なんだ、とタカハシが言った。

 その後の言葉が続かなかった。

 タカハシとマウンテンはただ茫然とその光景を見つめた。一瞬で、誰も何の反応もできなかった。

 プリウスは体が動かせなくなって、猫たちにまとわりつかれたままの奇妙な姿勢で、救いを求めるような眼でタカハシとマウンテンとポカリを見た。

 タカハシは目を見開き、マウンテンは顔面蒼白だった。ポカリは己の世界に100パーセント没入しており、背後のプリウスを襲う異変に全く気がつかずに写真を撮り続けていた。

「お前マタタビでも持ち歩いてるのか?」とタカハシは言った。

 プリウスがぶるぶると首を横に振ると、頭の上に登っていた猫が地面に落ちた。

 猫たちの鳴き声の合唱が辺りに響き渡った。最初は小声だったのが、興奮の色合いが濃くなり、最早集団発情期の様相を呈していた。

 まずい、とタカハシが思った瞬間、おおおお、とマウンテンが叫んだ。

 プリウスとタカハシはびくりと体を震わせて振り向いた。猫たちも体を震わせてマウンテンを見上げた。鳴き声が止んだ。代わりに、外から女子生徒たちのざわめく声が聞こえた。

 マウンテンは立ち上がっていた。体ががたがたと震え、猫に埋もれたプリウスを睨みつける目が血走っていた。プリウスとタカハシと猫たちは、目と口を開いてその姿を見上げた。

 そしてマウンテンは再び、おおおお、と凄まじい大声で叫んだ。

 叫びながら、マウンテンはポカリがカメラを構える生け垣に向かって突っ込んだ。ポカリは吹っ飛ばされてひっくり返った。木々をへし折りながらマウンテンの巨体が生垣から飛び出し、女子高生たちの通学路に向かって転がり落ちた。直後、ぎゃああ、という少女たちの叫び声が辺りに響き渡った。

 ゴリラが出た、という声がした。

 プリウスとタカハシは、巨大な空洞となった植え込みの両脇に屈みこみ、外の光景を覗いた。マウンテンが体を掻きむしりながら叫んでいる。女子高生たちが悲鳴を上げて逃げ惑っている。マウンテンが叫ぶ言葉も女子高生たちの悲鳴も、全く日本語になっていない。天を仰いで叫ぶマウンテンの周囲からあっと言う間に人垣の潮が引き、ぽっかりと空間が出来上がった。少女たちの腰は引け、何人かがその場に尻もちをついている。マウンテンが焦点を失った目で道を駆け出した瞬間、悲鳴はピークに達した。人垣をかき分けて走っていくマウンテンの背中を、プリウスとタカハシは茫然と眺めた。

 マウンテンがいずことも知れぬどこかへ走り去って完全に見えなくなるまで、二人は無言だった。遠ざかって行く救急車のサイレンの音のように、遠くからマウンテンの叫び声が響いて朝の空にこだました。

 猫がプリウスの体をよじ登っていき、顔が半分隠れた。

「あいつ猫が嫌いだったのか」とタカハシは呟いた。

 プリウスは頷いた。

 誰かいる、という声がした。

 二人はその声で我に返り、身を隠した。視界の隅に、自分たちの方を指差して見上げる女子高生の姿が見えた。

 枝葉が散らばった植え込みの真下に、女子高生たちが集まってきた。やばい、とタカハシは思い、周囲を見回した。砕け散った植栽、カメラを抱えたままあお向けに倒れて動かないポカリ、猫にまとわりつかれたプリウス、そして、すぐ外の通学路にわらわらとたかる者たち以外にも、敷地内の校舎の隅からも女子高生たちが現れた。彼女たちはこちらを指差しながらゆっくりとやって来る。木々に覆われているこの場所にいる自分たちの姿は少女たちからはまだ見えないはずだが、たぶんあと数十秒もしないうちに見つかる。何がどうしていきなりこうなったのか、という因果の「因」が全く分からなかったが、とにかく状況は最悪だった。全ての情報が、全く役に立たないか、まるでろくでもない現実を示していて、タカハシの脳内で一つの言葉となって集束した。

 ゲームオーバーだ。

 プリウスが突然立ち上がった。体にへばりついた猫たちが半分くらい転げ落ちた。

 プリウスは通学路のある一点を見据えていた。

 あの丸い眼の少女がいた。道路の向かいの住宅の前の電信柱、制服に身を包み、プリウスの方を見上げていた。

 彼女は唇の両端を吊り上げて笑っていた。不敵な笑みであり、ただ純粋に笑っているようにも見えた。

 タカハシもプリウスの視線の先の少女に気が付いた。プリウスと並んで立ち、少女の姿を見つめた。

「まさか」とタカハシは言った、「この猫、あの女がけしかけたのか」

 プリウスは頷いた。

 少女は微笑んで、プリウスとタカハシに背を向け、校門に向かって歩き出した。女子高生たちの人波にまぎれ、やがて見分けがつかなくなる。

 タカハシは周囲を改めて見回した。前方は、外の通学路から自分たちを見上げて指差す少女たち。側方は、校舎裏のこちらに向かって背筋を伸ばして落ち葉を踏みしめやって来る少女たち。自分たちは完全に包囲されている。

 タカハシがプリウスの顔を見ると、彼は既に自分の方をじっと見つめていた。鋭く引き締まり、いつか見た恐ろしく真剣な表情と同じ顔になっていた。何かを確認するような目だった。

 その瞬間、タカハシの集中力が一気に高まった。シューティングゲームで弾幕に囲まれて被爆寸前の時、格闘ゲームで画面端に追い込まれて体力が一ドット分しか残っていない時、タカハシの体に流れる時間は、停止する寸前までスローになる。その時と同じように、タカハシは全ての情報を瞬時のうちに組み合わせ、唯一の回答を言った。

「プリウス、行け。あと任せろ」

 プリウスは頷いた瞬間駆け出し、マウンテンが開けた穴から飛び出した。何匹かの猫が体にへばりついたままで、プリウスが膝を曲げ、片手を突いて通学路に着地した衝撃で弾き飛ばされた。飛び降りた場所は女子高生たちのど真ん中で、きゃああ、という悲鳴が周囲から沸き起こった。

 プリウスは立ち上がり、校門に向かって走り出した。あの少女の頭を探して人波をかき分けると、その度に悲鳴が上がったが、プリウスは無視して走った。校門をくぐるとすぐに、真っ白く幅の広い階段が上方に伸びていて、玄関ホールに続いて行く。見上げて、その階段の途中に、あの少女の背中が見えた。

 プリウスにはそれが彼女だと良く分かった。制服は彼女の体になじんでいて、ごく普通の女子高生に見えた。しかし彼女は周りの誰にも似ていなかった。後姿だけで、それが分かった。

 プリウスが階段を駆け上がると、少女は走り出した。プリウスの方を振り返りもしないのに、彼が近づいてくるのが分かったようだった。プリウスは女子高生たちの間を縫って走ったが、一瞬のうちに差が開いた。途轍もない足の速さで、走るというより滑空していくような、時間の流れる速度が彼女だけ違うようなスピードだった。

 プリウスは少女を追いかけた。彼女は校舎の中に土足のまま入って行き、プリウスもスニーカーのまま下足ロッカーの横を駆け抜けた。彼女の姿はあっという間に消え、プリウスは直感に従って角を曲がり、階段を駆け上がった。視界のぎりぎりに彼女の背中が見え、直線に入ると直ちにまた見えなくなった。

 朝の日差しに照らされた清潔な廊下を、プリウスは全速力で駆け抜けた。グリーンレザーの掲示板の張り紙が舞い上がり、床に擦れたスニーカーのラバーが激しいテンポで音を立てた。遠くから聞こえる、吹奏楽部が奏でるドビュッシーの《海》の旋律がクライマックスに到達しつつあった。校舎の中にはまだ生徒たちの姿はほとんどない。一般教室ではなく、理科室やPC室などの特別教室がある棟を走っているのだった。プリウスの高校に比べて、遥かに清潔で開放的な校舎だった。タタラ場という名が似合わない、とプリウスは意識の片隅で思った。まるでただのお嬢様学校だ。

 廊下の突き当たり、窓ガラスの向こうに屋上庭園が広がっていた。玄関ホールの屋根の上が緑化されているのだった。プリウスは2階の廊下にいて、柵に手をついて周囲を見回した。

 プリウスの目が、庭園を挟んで反対側の3階廊下を走る少女の姿をとらえ、彼は再び走りだした。渡り廊下を駆け抜け、階段を駆け上がった。

 角を曲がった瞬間、プリウスは反射的に踵を立てて、足に猛烈なブレーキをかけて、直ちに身を翻して隠れた。

 そこは生徒たちの一般教室が並ぶエリアだった。白いブラウスと紺のスカートを身に纏った大量の女子高生が、扉をくぐって教室に入って行き、廊下で談笑している最中だった。プリウスは左手首の腕時計を見た。8時15分。多くの生徒たちが登校し始める時間だった。ここを駆け抜けて行くのはさすがに無理だ、とプリウスは考えた。彼女たちを無視してかいくぐれたとしても、職員室に通報される。

 どうするべきか、視線を右往左往させていると、角の向こうから女子高生たちの会話が聞こえた。ねえゴリラ見た? ゴリラ、と少女の一人が言った。

「見た見た。校門の前にいたやつでしょ? めちゃくちゃうほうほ言ってたけど、あれ何?」

「ていうかあれゴッサムシティの生徒だよね。制服がそうだった」

「まじで? ゴリラっぷりに目が行ってて気付かなかった」

「なんかそれとは別に、一人、校舎に忍び込んだ奴がいるらしいよ、ゴリラをおとりにして」

 げーっ、と女子高生は言った、「それ絶対変態じゃん。ゴッサムの奴らってさ、うちらの制服とか体操服とか売り買いしたりしてるんでしょ? もうさ、あの犯罪学園、消滅しちゃえばいいのにね」

 女子生徒たちは、プリウスが通う高校をゴッサムシティと呼びながら、その生徒たちの悪行について挙げ連ねた。コンビニでの万引きに始まり、ファミレスでの喫煙、海水浴場での飲酒、全裸で川を泳いだり、駅前でのしつこいナンパ、電車やバスの優先席の占拠、ノーヘルでのバイクの運転、体育祭での盗撮、等々、ゴッサムシティとはこの世の全てのさもしく低俗な小犯罪者の集合する吹き溜まりであるようだった。

 プリウスは目をきつく閉じた。大体の内容が事実無根と言えない気がするためにかえって、聞くに堪えない会話だった。

 やはり最早見つかるわけにはいかない、とプリウスは思った。予測していたよりも遥かに、彼女たちの自分たちに対する敵意は深く激しいもので、この制服を着ている自分が巣に飛び込めば、問答無用で袋叩きに遭うだろう。

 生徒たちが自分のいる方に歩いてくる。いつ背後から別の生徒が現れるかも分からない。角を曲がった先にあの少女がいると分かっていても、挟み撃ちにされる前に、プリウスは後退せざるを得なかった。

 どうするべきなのか考えながら、プリウスは渡り廊下の端まで退いた。だがその先にも既に、部活の朝錬を片付け始めた女子生徒たちの姿が見えた。楽しげに談笑しながら廊下を歩いてくる。プリウスは咄嗟に、すぐ傍の部屋の扉を開けて身を隠し、少女たちが通り過ぎて行くのを息を潜めて待った。

 息を深くついて見回すとそこは、椅子や大小の木組みの箱が所狭しと置かれた倉庫だった。脚立があり、森や城が描かれた書割の舞台装置が壁に立て掛けられ、大きなラックに半透明のケースが並べられ、ビビッドな色合いの衣装が詰まっている。演劇部が使っている部室兼倉庫のようだった。

 少女たちの汗と情熱が詰まった、曰く言い難い空気を吸い込みながら、プリウスは足下の籠の中に転がった着ぐるみの首をじっと見つめた。フィンランドの作家によって描かれ、日本で何度もアニメ化された架空の生き物、顎と首が一体化した長い顔、ムーミンの青い目が、プリウスを見返していた。

 数十秒、プリウスは青く透き通ってつぶらなムーミンの丸い瞳と見つめあった。

 プリウスはおもむろに、その首を抱え上げ、そっと頭にかぶった。視界が恐ろしく狭くなり、息がつまった。

 だが何とか目の前は見えた。

 プリウスは一旦頭を外し、学生服とスニーカーを脱ぎ捨ててカバンに無理やり押し込んだ。代わりにスケッチブックを取り出した。そして、着ぐるみの体部分を取り上げて広げ、入り込んだ。首の部分から足を突っ込む寝袋のような構造だった。足を通し、腕を通し、頭部を被った。

 狭くきつく暑い。サイズが合っていないのだった。しかし何とか全身を収め、外から見る限り完全なムーミンとなった。プリウスは猫背になって、太く短い指でスケッチブックを取り上げ、おぼつかない足取りで歩きだした。腹部が大きく飛び出し、極端に足も手も短い造形のため、動きにくいことこの上なかった。

 ガラガラと音を立てて扉を開け、プリウスは陽光に照らされた廊下を歩きだした。水色のフェルト生地で覆われた体躯が輝いていた。どすどすと足を踏み出し、ふらふらと揺れながら、微かな視界の向こうに見える一般教室に向かった。

 渡り廊下で、喋りながら歩いてくる二人の女子高生とすれ違った。女子高生たちは最初驚いた後に、すぐに笑顔になって、ムーミンおはよう、と言って手を振った。

 プリウスは反射的に手を振り返して、少女たちとすれ違った。

 そして3年生の教室が並ぶ廊下の前まで戻ってきた。始業間際になり、登校してくる生徒たちで溢れ返っていた。その様子を眺め、プリウスは一瞬ぎゅっと目を閉じてから、再び歩き出した。プリウスが廊下のど真ん中をのしのし歩いて行くと、少女たちの視線が一斉に彼に集中した。少女たちは、水色のふくよかな体つきのムーミンにぎょっとおののいてから、ムーミンだ、と言って笑った。

 プリウスは女子高生たちに手を振りながら廊下を歩いた。辺りは笑顔で包まれていた。数分前までの全力疾走の呼吸が鎮まらないうちに暑苦しい衣装を纏ったせいで、プリウスの全身から汗が吹き出し始めた。サウナのような頭の中でぜいぜいと荒い息を吐きながら、俺は演劇部員だ、俺はムーミンだ、と自分に向かって言い聞かせた。

「ねえムーミン、どこ行くの?」

 狭い視界の向こうで、すれ違う女子高生たちの誰もがプリウスに笑顔を向けてきた。やがて反応するのが面倒になり、プリウスは首を振りながら、必死にあの少女の姿を探した。

 プリウスは3年A組の教室の扉をくぐり、中をぐるりと見回した。薄暗い網がかった景色の中で、席に着いた誰もがプリウスの方を見て笑っていた。プリウスは、笑っていない者、自分の方を見ていない者を探した。

 どこにもいない。

 続いてプリウスは隣の3年B組の教室に入って同じように教室全体に目を凝らした。汗で目が滲み、視界がぼやけて良く見えない。ムーミンはあくまで透き通ったクールな眼のままだったが、その中のプリウスは焦り始めた。始業チャイムが鳴るまで、あと何分残っているのか分からなかったが、ほとんど余裕はないはずだったし、探さなければならない教室が残り幾つあるのかも良く分かっていない。

 止むを得ず、プリウスはスケッチブックを開いて、そばを通りかかった女子高生に示した。そこには、あの少女の似顔絵が描かれていた。

 何人かの女子生徒が、そのスケッチブックを覗き込んだ。

「はぐれメタル?」

 一人の女子生徒がそう言った。すると周りの少女たちも頷いて、これはぐれメタルだ、と同調して言った。

 プリウスは着ぐるみの重たい頭をかしげた。

 はぐれメタル?

「ムーミン、中身1、2年生? この子3年生で、はぐれメタルって言うの。ドラクエやったことあるなら知ってるでしょ。この子も、目が丸くて、物凄いすばしっこくてすぐ逃げちゃうから」

 いつも一人だし、あんまし学校来ないレアキャラだしね、とその隣にいた女子生徒が言った。

「にしてもこの絵、笑えるくらい良く似てる。ムーミン、絵うまいね」

 プリウスは首を横に振り、引き続き、短い手でスケッチブックを示し続け、首をかしげた。

「ああ、はぐれメタル探してるんだ。D組だけど、今日来てるかな」

 少女が言い終わらないうちに、プリウスはスケッチブックを閉じて再びのしのしと歩き出した。自分では全力で急いでいるつもりなのだが、足腰のすっかり弱ってしまった老人のような速度しか出なかった。C組の教室を越え、顔を上げて、「3‐D」の表示を確認して、扉の傍に立っていた女子生徒を出っ張った腹で押しのけながら教室に入った。

 前の教室と同じように、誰もがプリウスに注目した。

 荒い息をつきながら、教室を見回し、ぼやけた狭い視界の中で少女の姿を探した。彼女の丸い目と太い眉と丸い輪郭と、昔ゲーム雑誌で見た銀色の体から気ままに泡をぷかぷかと吹かすはぐれメタルの姿が、プリウスの脳内で重なっては離れた。

 彼女の姿はどこにも見えない。空いている席が幾つかあるが、それが彼女の席なのかどうか分からなかった。

 チャイムが鳴った。

 プリウスが茫然と入口で立ち尽くしていると、廊下に出ていた生徒たちがプリウスの脇を通って教室内に戻って来て、全員着席した。

 まだ空席が2つある。そのうちの一つが「はぐれメタル」なのだろうか。プリウスには確信が持てなかった。もう授業は始まってしまう。他の教室に探しに行くことも最早できないし、もし待って彼女が現れたところで、どうやって彼女を呼び出せばよいのだろう。

 タイムリミットだ、もう引き返さなくてはならない、と頭では分かっていた。しかし、頭の中に、猫におびえて逃げ出していったマウンテンと、マウンテンに突き飛ばされてカメラを抱えたまま気を失ったポカリと、自分に行けと言ったタカハシの姿が浮かんだ。タカハシ以外はロクでもないことしかしていない気がしたが、それでも自分が今ここにいるのは三人の行動の結果だった。彼らに収穫を持ち帰ることが自分の責任だと思い、プリウスは猛烈に暑苦しい頭で必死に考えた。

「なんだお前、もうホームルーム始まるぞ」

 背後から声が掛けられた。

 教室の中がしんと静まり返った。

 一足で振り返られず、プリウスはその場で何度も足踏みをしながら振り向いた。そこにいたのは男性教師だった。丸眼鏡で丸い鼻で眉尻が垂れ下がった、30代くらいの短髪の男だった。

 プリウスは頭の中で反射的に、その教師をマスオさんと名付けた。

「こりゃなんのイベントだ。誰か知ってる者はいるか?」

 マスオさんがそう問いかけながら、プリウスの前を通り過ぎて教室の中に入ってきた。そしてムーミンの頭を掴み、女子生徒たちに顔を向けさせた。少女たちの首は一様に横に振られた。

「うちのクラスに何の用だ。何年何組か、名前を言いなさい」

 マスオさんはムーミンの目の部分に顔を近づけてきた。

 やばい、とプリウスは沸騰寸前の頭の中で思った。完全にタイミングを逸した。さっさと逃げるべきだった。最早女子生徒たちは誰も笑っておらず、疑惑の眼差しだけがプリウスの全身に突き刺さった。誰かを探すとか探さないとかいう状況ではない。自分の正体が追求されている。嘘で誤魔化すこともできない。もしプリウスがもう少し雄弁な性質だったとしても、何を言おうと喋った瞬間に男だとばれておしまいだった。

 ここでこの着ぐるみの頭を外されたら自分はどうなるのだろうか。

 どうなるのか、想像もつかなかった。

 この足では逃げても一瞬のうちに捕まる。どうやったらこの場をやり過ごせる?

 マスオさんの手が、プリウスの頭に伸びてきた。プリウスはきつく目を閉じた。止むを得ない、とプリウスは思った。

 手が触れた瞬間、思い切り頭突きして逃げる、そう決めた。

「何やってるの? こんなとこで」

 プリウスの頭の動きと、教師の手の動きが同時に止まった。

 教室内がざわめいた。

 その声は、プリウスの背後、外の廊下から聞こえた。柔らかく、同時に、遠くまで響く透き通った声だった。

 プリウスは再び、その場で足踏みをして、声がした方に振り向いた。

 プリウスは、そこに鏡があるのかと思った。そこにいたのは、プリウスと同じ着ぐるみのムーミンだった。

 心もち胸を張り、居丈高な姿勢に見えるそのフェルト生地の体は、廊下の外の窓から差し込む光に照らされ、黄金に輝いていた。丸い瞳は真っ直ぐにプリウスを見据えていた。

 正確にはそれは、全く同じムーミンではなかった。肌が黄色く、前髪の生えた、ムーミンのガールフレンド、フローレンだった。

 マスオさんと教室内の生徒たちは、向かい合う2匹の架空の生命体を茫然と見つめた。プリウスは着ぐるみの中で口を半開きにして、目を丸く開いた。ムーミンとほとんど同じような表情だった。

「先生すみません、今度の地域のふれあい教室の出し物で、この子と朝錬をしていたんです。すぐ片付けて戻ります。行きましょう」

 言うが早いか、フローレンは短く太い手で、プリウスの手を取って引っ張った。物凄い力だった。

 教師が声をかける暇もなく、フローレンは後ろ手に教室の入り口扉をぴしゃりと閉め、プリウスの手を引いてずんずんと廊下を歩きだした。

 通り過ぎて行く窓の向こうから、教室内の生徒たちが、歩いて行くフローレンとムーミンの姿を何事かと目で追っているのが分かった。

 プリウスは、自分の手を引っ張って真っ直ぐに歩いて行く、フローレンのたくましい背中と巨大な後頭部を見つめた。何が何だか全く分からなかった。何かを考えたり理解したりするより前に、握られた手の力を感じながら、彼女だ、とプリウスは思った。

 はぐれメタルだ。

 声色を変えているが、プリウスにはそれが分かった。握られた手の力、ずんぐりむっくりの着ぐるみに身を包んでいても分かる動きの鋭さ、間違いなく彼女だった。

 二匹は渡り廊下までやってきた。各教室でホームルームが始まっていて、辺りには誰もいない。光に覆われた通路の真ん中で、フローレンはムーミンの手を離して、急に立ち止まった。プリウスは目の前の背中にぶつかりそうになりながら何とか堪えた。態勢を立て直して顔を上げると、フローレンは数歩とことこ歩いて離れた。背を向けたままだった。

「何やってんの、こんなとこで」

 さっきとほとんど同じセリフだったが、声色は全く違って、張り詰めていた。その声の方がプリウスの聞き慣れた声だった。

「あと5秒で、明日から街を歩けなくなるところだった。何しに来たの?」

 フローレンの背中からは、怒りの波動が感じられた。

 その分厚い黄色の肌の向こうに、はぐれメタルの背中が透けて見える気がした。真っ直ぐ伸びた細い背中は、一昨日、自転車で追いかけた時や、爆発する前の灯台の上で見た時と同じように、生命力に満ち溢れていた。

 何しに来たの?

 君に会いに来た、とプリウスは思った。

 しかしそんな当たり前のことを言っても仕方がない。自分はこうしてここにいるのだから、その事実を言葉で辿ったところで何の意味もない。会ってどうしたかったのか、その目的を告げなくては。

 絵を返してもらうため? スカイ・フル・オブ・スターズを返すため? それともタカハシとポカリから盗んだものを返してもらうためだろうか?

 違う、とプリウスは思った。自分がここに来たのは、そんなことよりも、もっと別の理由のためだ。

 それが何なのか分からなかった。何を言えばいいのか分からず、プリウスは結局黙っていた。

 はぐれメタルは振り向いた。

 二匹の着ぐるみが、渡り廊下の真ん中で、無言で向かい合った。フローレンの丸い瞳が、真っ直ぐムーミンを捉えていた。その眼差しは、着ぐるみを貫いてプリウスの目を射抜いてきた。

「私のことを思い出せないんでしょう?」

 乾いた声だった。

 プリウスは、頷きたくなかった。もう少しで思い出せそうなんだ、とか、ヒントを教えてほしい、と言いたかった。

 だができなかった。全く思い出せる気配など無かったし、本当はヒントなど欲しくもなかった。ただ、頭と胸の中がもやもやしてもどかしいだけだった。

 プリウスは頷いた。頷いたまま、垂れた頭が持ち上がらなかった。

 やがて、フローレンの巨大な頭がゆっくりと横に振られた。

「もう二度と会いたくない」とはぐれメタルは言った。

 プリウスはうな垂れたままだった。全身から力が抜け、言葉も、絵も、意味も、体の中に一つも見つからなかった。着ぐるみの中で、自分の吐く息が鬱陶しくまとわりつき、顔がぐしゃぐしゃに湿り、息苦しかった。

 プリウスが顔を上げた時、そこに既にフローレンの姿は無かった。渡り廊下にいるのは水色の着ぐるみを纏ったプリウス唯一人だった。

 プリウスは深いため息をついた。

 ひとしきり立ちつくした後、とぼとぼと歩いて演劇部の部室まで戻った。ムーミンの頭を取り外し、分厚いスーツから抜け出すと、全身が汗でびしょぬれだった。カバンから学生服を取り出して着替え、スニーカーを履いて部屋の外に出ると、着ぐるみを着ていた時と同じようにとぼとぼとタタラ場の廊下を音もなく歩いた。

 廊下を歩いている途中、朝礼が終わり、授業に向かう男性教師とすれ違った。教師とプリウスは互いに無言だった。完全に通り過ぎた後、教師が何度か瞬きをしながら振り向くと、プリウスは既にそこにいなかった。教師は首をかしげ、幻でも見たかと思った。男子高校生とすれ違った気がしたが、存在感が恐ろしく希薄だった。

 プリウスはただ普通に歩いているだけで、誰にも見つからずに、タタラ場を正門から出た。辺りには誰もいなかった。マウンテンも、タカハシも、ポカリも、どこにもいなかった。マウンテンがぶち破った植栽の真下に立つと、周囲は静寂に包まれていた。プリウスは再びため息をつき、その後は振り返りもせず、心もち俯いたまま、女子生徒たちがゴッサムシティと呼ぶ自分の高校に向かって歩き続けた。よく晴れた日差しが照りつけ、風の音と船の汽笛と鳥の鳴き声が混ざって、プリウスの頭の中で反響し続けた。

 橋を渡り、校門をくぐり、下足ロッカーで上履きに履き替え、教室に辿りつくと、とっくに一時限目の授業が始まっていた。音もなく扉を開け、音もなく自分の席に着席するまでの間、誰もプリウスに振り向かなかった。

 タカハシも、ポカリも、マウンテンも席にいなかった。プリウスは英語教師のポール(ポール・マッカートニーに恐ろしく良く似ていた)の口がぱくぱく開閉するのをぼんやり眺めていた。何の音も耳に入らなかった。

 授業が終わっても、プリウスは身じろぎもせず黒板を眺めていた。頭の中で、思考にならない思考が、言葉にならない言葉が、静かに渦を巻いていた。プリウスはそれをじっと見つめていた。

 駄目だ、とプリウスは唐突に思った。

 このままでは駄目だ。

 その言葉が体の中で静かに響いた。

 三人を探さなくては。

 プリウスはそう思い、立ち上がろうとした。だがその瞬間、彼の肩に手がそっと置かれた。担任教師のグレイの手だった。

 プリウスが見上げると、グレイはその尖った眼でプリウスを冷たく見下ろしていた。

「お前、今朝、登校前にどこにいた?」

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