3-4 そういえば今日は


 柳田市総合病院。バイトを上がった後、気づいたら私はここに来ていた。今ならまだ面会時間に間に合う。お母さんは今週末には退院予定で、忙しいなら来なくていいと言われていたけど……無性に会いたくなってしまった。


 受付を済ませて病室に向かう。誰もがそうだとは思うけど、病院は好きじゃない。充満する消毒液のにおいとか、廊下に響く咳の音とか……ここにいるだけで、病気に呑まれてしまいそうな気になる。


 水川佳苗かなえと書かれたプレートのかかった部屋。中から話し声が聞こえる。誰だろう、お母さんの職場の人だろうか。扉を開けて——私は目を疑った。




「は? なんであんたがここにいるの……!?」




 お母さんのベッドの脇の丸椅子に座っていたのは、もう何年も会ってないはずのお父さんだった。


 でももしこんなところではなく、街の雑踏とかですれ違っていたのならきっと気づかなかったかもしれない。それくらいお父さんの見た目は変わっていた。豊富にあった黒髪はいつの間にかだいぶ薄く、白髪もまばらに生えていて、ありふれた水色のシャツが形作る背中は私が知っているものより一回り小さい。


 離婚してから何かあったのだろうか……一瞬同情のようなものが湧きかけたけど、ぐっとその思いを抑え込む。呑まれちゃダメだ。私がしっかりしなきゃ。


「一体何しに来たのよ! 私たちとはもう会わないって決めたでしょ」


 お父さんは何も答えず、ただ苦々しい表情を浮かべた。反省してるとでも言うつもり? 今さら遅いよ。私たちが受けた苦しみはもう取り返しのつかないものなのに——




「私が呼んだのよ」


「え……?」




 お母さんはベッドから上体を起こして、病室の入り口で立ち尽くす私に向かって手招きをする。


「こっちへ来て、雪乃。話があるから」


「話ってなに? この男と話すことなんて何もない」


 お母さんはふうと小さなため息をついて、落ち着いた声で言った。




「お父さんとね、もう一度やり直そうと思っているのよ」




——もう一度、やり直す?


——やり直すって、何を?


 お母さんの言葉が、鼓膜にこびりついてうまく頭の中に入ってこない。


「今回の入院で、私ももう若い頃みたいに無茶がきく身体ではないなって分かったの」


 違うよお母さん。私が聞きたいのは、そんな言葉じゃない。


「お父さんともう一度やり直せたら、あなたも無理してバイトする必要なくなるでしょう? 大事な高校生活だもの……勉強だって、部活だって、好きなことにもっと時間を使わせてあげたいの」


 信じられない。お母さんは平気だっていうの? お父さんと一緒に住んでいた時、あんなに傷ついてたのに。絶対に治らない傷だと思っていたのに。


「だから考えてみてくれないかしら? お父さんにも今日話したばかりだし、すぐにというわけではないけど——」



 私の頭の中はもう、ぐちゃぐちゃだ。



「……裏切り者」




「雪乃!」


 お父さんが私の肩を掴んできたけど、私はその手を払った。父親づらして入ってくるな。お母さんの瞳が小さく揺れて、こっちを見ている。その表情に、余計に突き放されたような気がして、息苦しい。


 私が守ろうとしてきたものって……一体なんだったんだろう。


「二人で生きてくって約束してたじゃん……! なんで勝手に決めちゃうのよ……! お母さんは裏切り者だよ……! 私は……私は……!」


 耐えきれなくなって、病室を飛び出した。お母さんが「雪乃!」と叫ぶ声が聞こえる。お父さんの声も。でも振り返らない。振り返るのが怖い。二人が並んで、私の名前を呼ぶ……もう絶対にありえないって思っていた光景がそこにあるのが、怖くて。




 下を向いて走っていたから、病院の廊下の曲がり角で危うく向こう側から来た小学生くらいの男の子とぶつかりそうになった。


「っ! ごめん……」


 驚いたその子が床に落としたもの——おそらくお見舞いの品——を見て、私はハッとした。赤いカーネーションの花束。そう言えば今日は母の日だったんだ。




「何やってるんだろ、ほんと……」




 自分に呆れて、思わず笑いが込み上げる。花束を拾って手渡すと男の子は不思議そうに首をかしげ「お姉ちゃん、どうしたの?」と聞いてきた。私はもう一度「ごめんね」とだけ謝って、病院を後にした。



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