1-4 花咲師の衣装



——夜。


 商店街の近くの公園で納涼祭は開催された。


 老若男女様々に集まった人々の喧騒。屋台からは香ばしいソースの匂いが鼻をかすめる。地元の子供達が必死に練習してきた祭囃子まつりばやしが夏虫の鳴き声と響きあう。誰もが日頃の不安や悩みを忘れて心を浮き立たせていた。


「久しぶりね、こういう感じ」


 高砂ユリは誰に話しかけるでもなく、ぼそりとそう呟いた。彼女の大きな瞳には公園中に張り巡らされた提灯の橙色の光が灯り、爽やかな白地の浴衣に合わせて結いあげられた髪の下から覗くすらりとしたうなじに、さすがの僕も「美しい」以外の表現方法が浮かばなかった。


 実行委員たちは公園の中央にしつらえたやぐらの裏に控えている。このあと僕がここに登って、祭りの開始の合図に灰を花に変える予定だ。


 彼女に渡された衣装を着ると、不思議と僕の気持ちも昂ぶってきた。花咲師はなさかしの出番には大事な意味があるのだと、そう教えてくれるようで。何よりこの衣装を着た後から平賀が僕のことを直視しなくなったというのも少しだけ優越感だった。


 しかし出番が近づくにつれ、僕は手が震えるのを感じた。手のひらから嫌な汗がにじみ出てくる。そういえばこんな人前で力を使うなんて初めてのことだ。人並みに緊張してるっていうのか? 笑える——


「桜庭くん、いよいよね」


「ん? ああ……」


 なんだか腹が冷える。今はあまり誰とも会話したくなかった。だがその思いとは裏腹に、高砂ユリは手に持っていた小さな木箱を僕に差し出した。


「これが、燃えてしまったかつてのお祭り道具の灰よ」


 彼女がその木箱の蓋を開け、その中に収められた白い灰が目に入る——その瞬間、僕の胃はまるでひっくり返ってしまったかのように、中のものが一気にせり上がってきて、僕はその場で思い切り吐いた。


「ど、どうしたの!?」


 彼女の手がしゃがみこんだ僕の背中をさする。全身冷や汗が吹き出て、せっかくの衣装がぴったりと肌に張り付いていく感じがした。


「やっぱり……僕にこの役目は無理だ……」


 涙で視界がにじむ中、恐る恐る震える手のひらを見つめる。




——嗚呼、まだ黒い。




「どういうこと? 今になって無理だなんて」


「……君たちには分からないだろうな」


「ふざけるな桜庭!」


 激昂した平賀が僕に向かって拳を振り上げる。


「やめて平賀! こんな時に!」


 高砂ユリが間に入ったことで彼はすんでのところで手を止めた。だが鼻息は荒く、いつでも殴りかかってくる勢いだ。


「平賀、あんたが言った通りだよ。僕の手はけがれてる。僕は……人の死が何なのかわからない」


「え……」


「戦争中にたくさんの遺灰を花に変えてきたんだ。知ってるだろ? たくさんの人が死ねばたくさんの遺体が出る。だが当時は一人一人丁寧に火葬する余裕なんてなかった。だから引き取り手のない遺体にはまとめて火をつけて、邪魔になった灰は花咲師が全部ヒガンバナに変えてきたんだ」


 高砂ユリも、平賀も、何も言わずに唾を飲み込む。当時僕らは幼かった。普通の子どもだったなら、むごいものから目を背けるよう誰かが目隠しをしてくれるんだろう? ——だが僕は違う。


「最初は死体を見るのが怖かったよ。でもだんだん何も考えられなくなっていったんだ。怖いとか、悲しいとか、そういう気持ちは全部抜け落ちてしまって、むごい焼死体を前にしても表情一つ変えずに向き合えるようになってしまった。……僕はそんな自分が恐ろしい。人ではなく鬼になってしまった気分だ」


「そんな、鬼だなんて」


「君みたいな人を見ていると、余計に実感させられるんだよ! 初めから断ればよかった! こんな穢れた手をした人間が祭りの舞台に立つなんて、あってはいけないんだよ……!」


 僕はもう一度地面に向かって吐いた。吐瀉物としゃぶつが手にかかる。全く、お似合いなことだ。彼女も相当呆れただろう。やはり初めから無理だった。自分が晴れ舞台に立てるなど、期待してはいけなかったのだ。調子に乗った僕が馬鹿だったのだ。


 僕は強気で自分にそう言い聞かせる。目に溢れる雫をさっさと引っ込めてしまいたかったから。




 だけど彼女——高砂ユリは、何のためらいもなく汚れた僕の手をとって言った。




「ごめんなさい。桜庭くんがそういう悩みを抱えていたのはなんとなく知っていたの」


「なんだって……?」


「だからこそお願いしたの。戦争の痛みにたくさん触れてきたあなただからこそ、この灰を昇華させてくれると思った。辛い思いをさせてしまったわね……私のことはどれだけ恨んでもらっても構わない。謝罪で済むのならなんだっていくらでもするわ。……でも、あなたのためにもやってほしい。鬼なんかじゃない、桜庭くんは優しい人だよ。そうじゃなきゃ、こんなに苦しんだりしない」



——彼女の温もりが、僕の身体を包み込む。



 その肩越しに、祭りの会場に集まった人々の姿が見えた。皆笑顔で今か今かとやぐらの上を見ている。だけどどこか……人と人との間に小さな隙間があるような気がした。誰かのために開けている隙間。そう、分かったんだ。親のいない子、夫のいない妻、子を亡くした親——みんな痛みを抱えている。




「僕だけじゃ、ないんだな……」




 思わずそんな言葉がこぼれた。


 彼女の温もりは、僕を覆った冷たい殻をぽろぽろと剥がしていくかのようだった。吐き気が少しずつ収まっていって、呼吸が落ち着いてくる。しゃがむ足に力が入った。もう一度、立ち上がりたい。本当はそう思っていたんだ。なくしたものを取り戻すことは難しくっても、早くここから抜け出したいって。


 祭囃子が少しずつ静かになり、いよいよ出番が訪れる。


「……ごめん、もう一度機会をくれないか。やってみたいんだ。君の言う、再生の儀式ってやつを」


 高砂ユリは自分の着ている浴衣の裾で僕の手を拭うと、少しだけ瞳の端に涙を浮かべながら穏やかに微笑んで言った。


「行ってらっしゃい、あなたの晴れ舞台へ。14代目花咲師・桜庭灰ノ助——」






***





 当時から60年以上経った平成の世。花咲師が執り行う遺灰を花に変える儀式「花葬はなはぶり」では、当時の衣装が今もなお使われている。


 なぜケガレの場にハレの衣装を着るのか。そのことに疑問を持つ人間すら少ない時代だが、たとえ疑問を持っていたとしても、その儀式を目にすればきっと意味が分かることだろう——。







〜番外編1 晴れ着の理由 終わり〜



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