3-6 不器用な雨宿り
——ガラッ。
その時の私は、自分でもびっくりするくらい何も考えていなかった。
いつの間にか花屋の扉を開けて、店の中に立っていて。他にお客さんはいない。もう店じまいをする時間なのだ。レジ締めをしていた桜庭は気だるげに「いらっしゃいませ」と声を上げ、私に気づいて目を丸くした。
「水川!?」
屋根の下に入って雨に打たれていないせいか、さっき転んですりむいた膝がじわじわと熱くなってきて、血がすねを伝って流れていくのを感じた。
「ちょっ、なんだよその怪我! 今救急箱とってくるからちょっと待ってて!」
「いい!」
急に大きな声を出したからか、桜庭は驚いて肩をびくつかせる。わけが分からないと、そう言いたげだ。私の望みはたった一つで、
——今……一人にしないで。
ただそれだけなのに。
「別に……助けてもらうために来たわけじゃない」
どうして私はこんな風にしか言えないのだろう。さすがの桜庭もムッと顔をしかめ、私から目をそらして言った。
「またそれかよ。じゃあ何? なんで来たんだよ。まさか僕に文句つけるためにわざわざそんなカッコで来たってわけ? ああそうだよ、水川が停学になったのは僕のせいかもしれないんだもんな。お人好し、お節介、いい迷惑って言いたいんだろ。もう分かったよ、君が何をしてようが僕は関わらない、そうすれば満足なんだろ」
そうじゃない。そうじゃないんだ。
でも私は自分が彼に何を伝えたいのか、何を伝えたかったのか……上手く言葉にできなかった。何か、話さなきゃ——店内を見ていると、頭の中にふとあの花の名前が浮かんだ。
「……カーネーション」
「え?」
「ここ、花屋なんでしょ。カーネーションを買いに来たの」
自分でも何言っているんだろうと思う。格好悪い。いっそ、私の頭の中をそのまま見せられたらいいのに。言葉にしない限りはここへ来た本当の理由など伝わるわけもなく——いや、理由なんてそもそも無いようなものだから——桜庭は不思議そうに首を
「何でカーネーション? うちみたいな小さい花屋にはもう時期外れだから置いてないよ」
「そっか……そうだよね……」
声が沈黙の中に消えていく。
お母さんにも、私にも、かかっている小さな呪い。
お母さんがいくらお父さんに責め立てられても文句ひとつ言えなかったように——私はどんなに辛くたって、「助けて」のたった一言すら口に出すことはできないんだ。
それが、強くなるための条件だったから。
「……邪魔してごめん。帰る」
「あ、おい、待てよ!!」
——ピシャッ!
後ろ手で店の扉を強く締める。桜庭の声は途切れ、追いかけてくる様子はない。
嫌われ……ちゃったかな。
なんて、今さらそんなことを考えるのもどうかしてる。誰にどう思われようと関係ない、お母さんと二人で生きていくために不要なものは切り捨てる、それが「水川雪乃」のはずだったのに。
「このままずっと……雨降っててくれないかなぁ」
つい、そんな独り言が漏れた。
さっきからポケットの中に入れていたスマートフォンがブルブルと震えている。その画面を見る気にはならなかった。私は痛む足を引きずって、雨に晒されながら病院へと戻った。
その日の深夜、お母さんは静かに息を引き取った。
私が病院に駆けつけてからずっと意識が戻らなくて、結局最期まで言葉を交わすことなくあの世へ旅立ってしまった。
誰も喋らない病室で、定期的に鳴る医療機器の音と、窓の外から微かに聞こえる雨音だけが響く。真っ白なベッドの上で、呼吸器を外されたお母さんの顔はいつもより白く、でもいつもよりずっと穏やかだった。
ひどいなぁ。私はこんなに苦しいのに、気持ちよく寝ているみたいな死に顔で。
泣いている暇なんて無かった。朝になるまで私はとにかくたくさんの計算をした。連絡をする人の数、お葬式の日時、段取り、お葬式にかかる費用のことも考えなきゃいけないし、死亡届に火葬許可証……ああ、口座が停止される前に銀行の手続きも済ませなくちゃ。
何かをしている時間は、自分でも恐ろしいほどに冷静だった。こういう時、何もできずにただ泣き喚いているのが十代の娘としての普通なんだろうけど、私はどうにもそうなれそうにない。入居している施設から駆けつけてくれたおばあちゃんに「少しは寝なさい」と言われたけれど、目も頭もすっかり冴えてしまっていて、横になる気すら起きなかった。
「雪乃、遅くなってすまない……」
夜明け前、お父さんが隣の県からタクシーに乗って、お母さんの遺体を運んだ柳田葬祭場にやってきた。その頃には雨はすっかり止んでいて、私は一人葬祭場の玄関で、お父さんを置いて帰って行くタクシーとどこかへ消えてしまった雨雲に向かって舌打ちをした。
「なんであんたがいるのよ」
「お
おばあちゃん……お父さんには連絡しなくていいって言っておいたのに。
お葬式の準備はもうだいたい終わっていた。何かあった時用にってお母さんが書き残したメモがあったのだ。それ通りに進めていたら、あっけなく終わってしまった。
「あんたがここでできることなんて何もない。帰って」
お父さんの表情が一瞬苦々しげに歪む。でも首を横に振って、喪服の内ポケットから切手の貼られた茶封筒を一つ取り出した。表面には柔らかいペン字で「
「前に病院で会っただろう。あの日は
「嘘だ」
「嘘じゃない。読んでみなさい。これから家族三人でどうしたいかって書いてある」
お父さんが手紙を私に向かって差し出してくる。
——パシッ。
私はそれを弾いた。封筒はゆらゆらとふらつきながら地面に落ち、まだそこに残る雨水が染みて、お母さんの字が滲んでいく。お父さんがため息を吐きながらそれを拾う。私はその音で心臓が不規則に波打つのを感じた。
知ってる。
この後に続くのは、突き放すような呆れ顔に、冷たい眼差し、えぐる言葉。もう遠い昔のことだと思っていたのに、鮮やかにフラッシュバックして、昨日の夜から何も食べていないのに胃がむせ返りそうになった。
「雪乃、どうした?」
目の前にいるお父さんは、心配そうに私の肩を支える。東京に住んでいた頃とはすっかり顔つきも体型も違っていて、同じ人間かどうか一瞬疑いたくなるほどだ。
でも……あのため息の音だけは、同じで。
「お願いだから……お願いだから、帰って……!」
私はそれだけ伝えて、お父さんに背を向けた。
お葬式は近くに住んでいるお母さんの親戚と、職場の人たちだけを呼んで、ひっそりと開かれた。
お母さんが勤めていた介護施設からは、施設長と中年の女性が一人だけ参列。この人はお母さんが病院に運ばれた時に私に連絡をくれた人だ。正直、他に来なくて良かったと思う。身体も心もそこまで頑丈じゃないお母さんを限界まで働かせた人たち——そう思うと、私は冷静でいられるか自信がなかった。
私を踏みとどまらせたのは何よりも……お母さんに一番無理をさせたのは自分じゃないかという罪悪感だった。
「……佳苗さんはとても優しい方でした。仕事がしんどい時はいつも声をかけてくれて、自分も大変なのに代わってくれて……」
「……小さい頃から佳苗ちゃんは親戚の中でも一番の優等生だった。おばあちゃんに言われなくても家事のお手伝いをして、お父さんたちのタバコのおつかいに行くのもいつもあの子で……」
「……佳苗さんはそこにいらっしゃるだけでも場が和むような、そんな人でした。だからこんな若くに亡くなってしまうのは惜しくて……」
参列した人たちが口々に色んなことを言っていたけれど、ほとんどの言葉は頭に入ってこなかった。
葬祭場のスタッフの人が棺のふたを開けて、対面できるのはこれが最後ですと言う。化粧をしてもらったからお母さんの頬は病院で息を引き取った時よりもほんのり赤くて、まるで眠っているみたいだった。参列した人たちが一輪一輪会場に飾られていた花をお母さんの棺の中へ入れていく。
「佳苗……綺麗だなぁ」
お父さんは瞳に涙を溜めながらそう呟いた。早くこの場から居なくなってほしかったけれど、誰に向けられたわけでもない言葉に、私は頭の中でこっそり頷いておく。まるで昔お母さんが読み聞かせてくれた童話の中の眠り姫みたいだって、私もそう思ったから。
火葬まで時間があるらしい。親戚たちは会場に残ってお互いに話をしていたりしたけど、実のところほとんど顔を合わせたこともない人たちで、その場にいると息が詰まりそうだった。
私は葬祭場の外に出ることにした。今のうちに店長にこれからのシフトのこととか相談しておかなくちゃ。お父さんが追ってくる。
無視して店長の電話番号にコールしようとして顔を上げた時……目の前には息を切らした桜庭がいた。
「桜庭……なんでここにいるの? もう私のことは放っておくって言ったくせに」
だいたい学校の人は呼んでないし、今普通に授業中のはずだし。何で来たの。意味が分からない。
どうしてそんなに汗だくになってまで、そこに立っているの……?
「……ずかわ……その……」
「は?」
よっぽど慌てて来たらしい。息は途切れ途切れで、うまく声になってなかった。私は電話の画面を切った。
かっこわる。本当に……お人好しの、大バカだ。
聞かせてよ。あんたに何ができるのか、教えてよ。きっと後悔するんだから。私なんかに関わらなきゃよかったって、絶対そう思うんだから。お父さんもお母さんも、二人だったら幸せだったのかもしれない。本当は離婚したくなかったのかもしれない。二人を別れさせたのは私の幼稚なワガママだったんだよ。私が、私自身が不幸の理由だったかもしれないんだよ。
乾いた唇を強く噛む。
ねぇ早く喋ってよ。陳腐な言葉で呆れさせてよ。期待なんかさせないでよ。そうじゃないと、もう——
「出棺のお時間になりました」
葬祭場のスタッフの落ち着いた声で現実に引き戻される。時間切れだ。私はお母さんの眠る白い棺を乗せた台車の側へと向かう。
最後まで、ちゃんとしなくっちゃ。
これからは一人で生きていけるって、お母さんに見せなくちゃ。
「それでは……最後のお別れです」
火葬炉の重い扉が開く。暗くて、無機質な箱。生きものが入るような場所じゃ——ない。その時になって私はようやく気づいたんだ。でも、もう遅かった。
——バタンッ!
一瞬で視界がにじむ。身体が熱い。息が苦しい。あの炉の中に、私の体力も一緒に放り込まれてしまったみたいに、全身から力が抜けた。
「う……あぁ……うわあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ————ッ!」
お母さんは、もういない。
私が強く生きなきゃいけない理由は、もう……どこにもないんだ。
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