3-5 すれ違いのまま



 お母さんは予定通り週末には退院して家に帰ってきた。早速職場に持って行く快気祝いのお花なんか用意して張り切っている。無事戻ってきてくれたことは嬉しかったけど……病院で喧嘩してからというもの、私はお母さんと目が合わせられなかった。会話も生活に必要最低限なやり取りだけ。お母さんも気まずさを感じているのか、あの話を続きをしようとはしてこなかった。


「雪乃、どこへ行くの?」


 夕方出かけようとしていた時、お母さんがそんなことを聞いてきた。


「……バイト」


「最近シフト多くなってない? 前は休日には入れてなかったでしょう」


「バイト先増やしたから」


「あの駅前のファーストフード店だけじゃなくて?」


「うん。浴衣カフェってとこ」


「浴衣……? ねぇ、大丈夫なのそこ……? お母さん、バイトをすること自体には反対してこなかったけど、そういう……その、水商売みたいなことはダメよ。あくまで社会勉強とか、バイト先でお友達作ることが目的ならと思って」


「行ってきます」


「雪乃!」


 私はお母さんを振り切って玄関を出る。


 自分で自分が分からない。どんな言葉が欲しいのか、答えが出ない。


 冷静になって考えてもみたんだ。本当に家族三人でもう一度やり直せるのか、って。


 今までなら絶対にあり得ないと思ってた。でも——本当は直感で気づいてた。すっかり昔の面影がなくなったお父さんを見て、私の頭の奥底で親子三人がこののんびりした街で過ごす、そんな絵が浮かんでしまったこと。


 わずかでも期待を持っていた自分が許せなかった。お母さんを裏切り者なんてののしったくせに、私の本心は一体何を望んでるというのだろう。


 自分がちぐはぐで……気持ち悪い。




 浴衣カフェに顔を出すなり、女性店員たちが私に駆け寄ってきた。皆嬉しそうに顔をほころばせている。あのホスト男が店に来なくなったんだそうだ。「雪乃ちゃんがガツンと言ってくれたんでしょ」と言われ、私は適当に相槌を打つ。本当は桜庭のおかげだ。あの男が以前から問題のある客だったと知ったのはこの時だった。


——お礼、ちゃんと言わなきゃ。


 今振り返れば、あの時は色々とパニックになってしまっていたのだと思う。いつものヘラヘラしているのとは違う桜庭のことが、ちょっとだけ怖かったりもした。だから男が逃げた後に、彼が腰が抜けたように座り込んだのを見て、正直ほっとしたんだ。だけど、バイトのことをただ否定されたのが気に食わなくて、お礼も言えずにあの場を後にしてしまった。


 次に会ったら、ちゃんと話そう。桜庭のおかげでみんな助かってるってことと、私がバイトしてる理由を。




 そう思っていたけど、週が明けてすぐに私は停学処分をくらった。


 バイトをしているのが学校にバレたのだ。誰かの密告があったという。桜庭と鳥飼ではないだろう。桜庭が密告するならもっと前にしていただろうし、面倒くさがりな鳥飼がそんな労力を払うとは思えない。そうなるとあのホスト男の仕返しってとこだろうか。私はそれを機に浴衣カフェをやめて、停学になっている間ファーストフード店の方のシフトを増やすことにした。


 お母さんには余計な心配をかけたくなくて、いつも学校に行く時間に制服を着て家を出るようにした。相変わらずお互いに触れることはない。お母さんは私から話すのを待っているようだったけど、私の中ではまだ答えはまとまっていなくて。




 ずっと、ぎくしゃくしたまま迎えてしまった。


 雨の激しく降っていた——お母さんの最期の日。






 お母さんの勤め先の施設から連絡があって、私はバイト先からすぐに病院に駆けつけた。医者から告げられた、くも膜下出血という単語。高校生だってそれくらい知っている。だけど、現実として受け入れられるかはまた別の話だ。今夜が峠だと言われ——私は訳も分からず病院を飛び出していた。




「っ!? 痛……」




 いつの間にかたどり着いていた商店街の道路のタイルで足を滑らせて転んだ。思い切りぶつけた膝がズキズキと痛い。じんわりと広がる熱。血が出てるかもしれない。でもそんなこと、今はどうだっていい。


 当然傘なんて持たずにただ走ってきたから、服も靴もじわじわと雨水にひたされていく。




「ふっ……ふふ……あはははは! 何してるんだろう、本っ当に……」




 自分の馬鹿さ加減に、呆れて、絶望して、涙なんかより先に笑いが込み上げてきた。


 あそこにいたって私には何もできない。そのことを思い知らされるのが怖くて、何かできることを探すつもりで、いやそれは建前で、とにかく逃げ出したかったのだ。




——どうすれば助かるかなんて、分からないのに。




 足を止めると目から涙が溢れ出てきてしまいそうだった。痛む方の足を引きずりながら、雨が降る夜、誰もいない商店街の通りを歩く。



(誰か、誰か、誰か……)



 雨なのか自分の涙なのか分からない雫が乱れた髪を伝って落ちてくる。わずらわしい。水滴を払うように、首を横に振る。今、私は何を考えた? 誰か、なんて言っちゃいけなかったのに。私も、お母さんも、甘えてはいけなかったのに。




——二人で生きていくって、そう誓ったのに。




 ほとんどがすでに店じまいをしている商店街の中で、一軒だけまだ明かりがついている店があった。その奥から聞こえる談笑。民家と隣接してるんだろうか。幸せそうな家族。もし今私の手元にナイフがあったのなら、飛び込んで行って全員の胸に突き刺してしまいたいくらい、憎い。そんなことをするほどの気力も今はがれてしまっているのだけど。


 そんなことを思って、私はふとその店の看板を見た。




「確か、ここって……」





 桜庭花店。


 私のお母さんに似てお人好しの、大バカの家。




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