3-7 私が前に進むために
気づいたら私は火葬場の前から離れていて、
人の涙の量には、きっと限界がある。
だんだん涙が出なくなってきて、最初は過呼吸みたいになっていた息も落ち着いてきて、頭はまだズキズキ痛むけれど、私の身体はすっかり泣き止んでしまったかのようだった。
私は私の、こういうところが、大嫌い。
「お母さん……過労死だって」
もう、赤と緑が分からなくなった信号みたいだ。
私はそのまま、今まで誰にも話さなかったお母さんや自分の家のことを、ぼろぼろと話し始めていた。私が言葉を発している間、桜庭はただ黙って聞く。それが、もどかしくて。でも……心地良くて。
「どうしよう……ねぇ、どうしよう桜庭……! 私まだお母さんと喧嘩したままだよ……! お父さんとやり直すからバイト辞めろって言われて、お母さんにひどいこと言っちゃった……裏切り者、って……そんなこと思ってもいなかったのに……! 私を頼ってくれなかったことが悲しかった! 結局離婚したのだって、お母さんの意思じゃなくて私のワガママのせいだったんじゃないかって思ったら、怖くて……!」
ずるいなぁ、私は。
桜庭がお人好しって分かってて、わざとこんなことを言っているんだ。自分で答えを見つけなきゃいけないことなのに。ぐしゃぐしゃの格好つかない泣き顔なんて見せつけて。
困った顔で笑って、水川は悪くないよなんて浅い
どうしよう……どうしたらいいの? もう分からないよ。考えるのに疲れたんだ。私が桜庭に伝えたいのは、ただ一言で——
桜庭の表情を仰ぎ見る。その場しのぎの笑顔なんて浮かべていない。少しグレーがかった瞳が、まっすぐ私の奥を見て……ぎゅっと強く抱き締められた。
「水川……僕に、
桜庭の声が、背中の方から聞こえる。
「花、はぶ……?」
「遺灰を花に変える儀式のことだよ。僕にはこれくらいしかできることはないけど……力になりたいんだ」
桜庭が
違うんだね。桜庭だから……できることなんだね。
窓の方からコンコンと音がする。スズメの鳴き声が微かに聞こえてきた。鳥飼のスズメだろうか。桜庭もそれに気づいて、ゆっくりと腕の力を緩めて身体を離す。
「ごめん、ちょっと行ってくる」
桜庭が部屋から出て行った後で私は目を閉じてみた。そうしていると、まだ温もりに包まれているような気がしたから。
——温かかったな。
桜庭の胸元のシャツのしわとか、ほんのり香ったよく晴れた日の芝生みたいな匂いとか……そんなことを思い出していたら、いつの間にか眠りに落ちていた。
***
「雪乃」
お母、さん……?
「かわいい、かわいい、私の娘」
違うよ。意地っ張りで、強がりで、全然素直じゃない。そういうところが、本当はすっごく嫌なの。でも、こんな風にしかなれなくって……。
「ふふふ。だから、あなたはかわいいのに」
——へ?
「勘違いしてるわね。お母さんはね……実はとっても強いのよ!」
はは……そんなの嘘だ……。だって私を置いていっちゃうくせに。なんでそんなに得意げなのよ。
「こらこら。お母さんを舐めちゃいけないわ。私はね、あなたがスカートをくるぶしまで伸ばして、髪の毛をギシギシ傷んだ金色にして、眉毛全部抜いて、男言葉で話すようになって……たとえそうなったとしても、あなたのこと『かわいい』って言える自信があるんだから」
なにそれ、意味わかんない……。
そっか、これはきっと、夢だもんね。
夢の中のお母さんは、輪郭がぼやけた表情で、たぶん……笑った。
「信じてね雪乃。かわいい、かわいい、私の娘……」
***
肩を揺すられ、ハッとする。とても長い時間眠っていたんじゃないかってくらい、深いところに意識が落ちていたらしい。だから一瞬、私を起こしたのが桜庭だとは気づかなかった。自分がぼうっとしていたのもあったし、服装がさっきまでと全然違っていたから。
「桜庭……? 何その格好」
目をこすってみたけど景色は変わらない。桜庭は夏のお祭りで見るような藍染の和装に、桃色の
よく似合ってる。
白黒で統一されたお葬式の場ではなかなか見ない色合いのはずなのに、なぜだか私はそう思った。
「花咲師の衣装だよ。火葬、終わったって」
「そっか……」
私の着ている制服のポケットには番号札のついた鍵が入っている。あんまり覚えていないけれど、確かお母さんの棺を火葬炉に入れた後で渡されたんだっけ。
もう一度あの扉を開くということ。
それは……もう二度とお母さんに会えないという事実を、確認すること。
——ちゃんと、向き合えますように。
私はそんな祈りを込めるつもりで、小さな鍵を強く握った。
「行こう」
桜庭は黙って頷き、火葬場へ向かう私の後ろについてきた。
親戚たちが再び集まって見守る中、係員の人は丁寧にお母さんの遺灰と骨を
正直分かんないや。もし違う人の骨を見せられていても、お母さんのものだって思い込んでしまうかもしれない。死人に口無しというけれど、まさにその通りだなって思う。だってこの姿になってしまったら、言葉を発するための喉すらないのだから。
そう思うと、また虚しさがこみ上げてくるようで、私は唇を噛んでやり過ごす。
係員の人がお骨上げを案内しようとした時、桜庭はすっと前に出た。それまで終始落ち着いた対応をしていた係員の人は、彼を見て目を丸くする。
「15代目花咲師、桜庭灰慈です。突然で申し訳ありませんが、水川佳苗さんの花葬りをさせてもらいます」
周りに集まっていた親戚たちがざわついた。突然現れた桜庭のことを知らないのはもちろん、彼が花咲師と名乗ったことにも疑問の声が聞こえて来る。でも桜庭の背中は揺るがなかった。私の思いも変わらない。
だから、今度こそ、ちゃんと伝えるんだ。
「……お願いします」
誰かにお願いすることなんて、一体いつ以来なんだろう。喉が震えて、蚊の鳴くような声になってしまった。でも、桜庭は縦に頷いて言った。
「——それでは、花葬りを執り行います」
桜庭が口上を述べる。よく通るその声は、聞いていて心地が良かった。まるで人の身体に触れるかのように、ゆっくりと灰の上を手のひらでなぞる。霊的なものとか、オカルトとかに興味のない私でも分かる——今の桜庭は、私たちには絶対に
口上が途切れ、彼は右手を振り上げたかと思うと、勢いよく灰の中にその手を落とした。そして灰を握りしめ、
「"いざ——花となり
そう言って、私たちの頭の上に思い切り灰を撒いた。綺麗だった。光に反射して灰の粒がキラキラと輝いて。
「——あ」
思わず声が漏れていた。小さな灰の粒は上空で集まっていって、少しずつ、さも当たり前かのようにその姿を変えていったのだ。
それは——あの日私が渡せなかった花。
思わず手を伸ばす。ゆっくりと落ちてくる。指先に触れる柔らかい花弁。白い、白い、雪のようなカーネーション。
「……お母さん……お母さん……! ごめんね……私、お母さんにひどいこと言っちゃった……! 裏切り者なんて、そんなことちっとも思ってなかったのに……私のこと認めてほしかっただけなの……大好きだった……お母さんのこと、大好きだったから……。本当に伝えたかったのは、ありがとうって気持ちだけだったのに……」
カーネーションが降ってくる……そんな空間の中にいると、まるでお母さんの腕に包み込まれているような、そんな気がした。温かくて、優しい。桜庭の口上を思い出す。「灰とは故人の落としもの」——それなら、きっと。
「……水川。お母さんからの贈り物だよ」
桜庭に一枚の紙を渡された。何かの写しみたいだ。しわくちゃになっていて、少しだけよれている。桜庭がずっとポケットか何かに入れていたのだろう。私は破いてしまわないよう慎重に紙を開き——そこに書いてあった内容を見て、息を飲んだ。
これはフラワーギフトの注文書。
「依頼主」は水川佳苗。「お届け先」は水川雪乃。「お届け日」は……私の誕生日。西暦のところには、数字じゃなくて「毎年」ってお母さんの筆跡で書かれていた。
「僕はお母さんから特別注文を受けてたんだ。毎年水川の誕生日に花が届くように、って。この先どんなに喧嘩しても、いつか離れて暮らすことになっても、自分の身に万が一のことがあっても、いつでも
「こんな……こんなのずるい……」
また涙がこみ上げそうになった。それを吹き飛ばすかのように、桜庭がすっと息を吸って、口上の時みたいな大きな声を張り上げる。
「いいか! だからこれから、どんなに拒否されようと僕は意地でもお前んとこに花を届けに行くから! うざいとか、お人好しとか、そういうの言われたって無視するからな! 僕は水川のお母さんとの約束を守るよ。だから水川も——お母さんが望んだみたいに、自分のために生きろよ」
そう言いきった後、桜庭は少しだけ恥ずかしそうに顔を赤らめた。
——お母さんは、強いや。
ずっと自分がお母さんを守っているつもりで……本当に守られていたのは、私の方だったんだね。
「うん……ありがとう、桜庭」
頬が緩む。胸が軽い。こんなの久しぶりだ。自然と笑顔がこみ上げてくる。
ありがとう、お母さん。
ありがとう、桜庭。
私……きっと前に進める。一人ぼっちじゃ無理だったけど、お母さんの思いがずっと側にあるように、桜庭が花を届けに来てくれる。それなら……こんな私でも、大丈夫な気がするから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます