3-3 大バカなアイツとクラス委員




「おお、来たか水川」


 放課後。


 職員室に入ってすぐ手前のシマに黒柳の席はあった。彼は私に気づき、手招きする。机の上には大量の添削待ちの日本史のプリントが積んである。三年生のクラスの課題らしい。受験……か。まだ二年先のこととはいえ、自分が大学に入るために机に向かって分厚い参考書を開いている姿がさっぱり浮かばない。


桜庭さくらばは?」


「まだ教室。鳥飼とりかいと話してる」


「そうか。まぁすぐに来るだろ。そこの席空いてるから座って待っててくれ」


 黒柳は隣の教員の席に座るように促してきたけれど断った。長居する気はなかったから。


「クラス委員なんて無理」


 私の言葉に、黒柳は頭をかきながら「やっぱそう来るよなぁ」とため息を吐いた。きょろきょろと周囲を確認すると、黒柳は私にしか聞こえないくらい声を落とす。


「……まぁぶっちゃけると、これは形だけのものなんだ。学校のルールで、五月に入っても部活に入ってない生徒には担任が何かしら課外活動の案内をしなきゃならなくってな。水川は家の事情もあるだろうし、とりあえずうんと言ってくれれば普通に帰っていいからさ」


「ふうん、そういうことなんだ。くっだらない制度」


「まぁそう言うなよ……七組の場合は強制的に部活に入れさせたらしい。それに比べれば俺は良心的だろ?」


 肯定も否定もしない。黒柳は確かに他の教師に比べればずいぶん生徒目線で親しみやすさはあったが、学校の制度とかそういう面倒なことには首を突っ込まない男だ。争いごとはなるべく避ける、世渡りが上手なタイプ。そんな彼のしたたかさが目に見えて、私はそれ以上話す気にはならなかった。




——ガラッ。




 職員室の扉が開く音がした。ピンク頭が現れると、教員の何人かが顔をしかめる。桜庭だ。彼はこちらを見るとハッとしたような顔をして小走りにやってきた。私は来ないものとでも思っていたのだろうか。


 黒柳が「今ちょうど話してたんだが……」と口を開きかけたけど、桜庭はそれに気づかずに言った。


「クラス委員って具体的に何やるんですか? もしかしてもう説明終わっちゃった?」


 思わず黒柳と目が合う。全く、どれだけお人好しなんだろう。彼の脳内には断るという選択肢は少しもよぎらなかったのだろうか。


「あのな、桜庭。俺も別に無理いする気は無いんだ。お前たちに声をかけたのは形式上ってのもあって」


 思いのほか桜庭がやる気になっているせいで、予定が狂いしどろもどろになる黒柳。その様子は余計に桜庭の正義感に火をつけたらしく、


「僕らが断ってもどうせ他の誰かがやることになるんでしょ? じゃあやるよ。家帰っても店の手伝いしてるだけだし」


 せめて"ら”で括らないでほしい……。


 呆れて言葉が出なかった。黒柳も桜庭がその気ならこれ幸いと、いらない書類がまとめてあるらしい職員室に隣接する印刷室に桜庭を案内する。私が無理だと言ったのはすっかりはぐらかされたようだ。


「おーい、水川もこっち来て手伝ってくれよ!」


 ああ、こんなつもりじゃなかったのに。


 ため息がこぼれるけど、桜庭の呼びかけを無視することはしなかった。だって、彼のこういうところがお母さんにそっくりで、なんだか目を離しちゃいけない気がしたから。






 クラス委員をやるようになって、一週間くらい経っただろうか。


 私は退屈しのぎにちょっとしたイタズラをした。桜庭にバイトをしていることを打ち明けてみたのだ。先生に言いつけられたって別に良い。彼がどういう反応をするのか、ただ見てみたかっただけなのだ。


 でも、未だに何の動きもない。それどころか、腫れ物には触れまいとしているかのようだ。つまらない——そんな腹いせもありつつ、お母さんが倒れた分シフトを増やすために、この日は元々バイトしていたファーストフード店の他に、コンセプトカフェというものの面接を入れていた。




「なぁ、手伝わないなら先帰ってもいいよ。先生には言わないでおくからさ」




 一人重い書類の山を抱えながら、桜庭はそんなことを言ってきた。私が教師の顔色を気にしてあんたのゴミ運びに付き合っていたとでも? 何を勘違いしているのだろう。そんなことを言いながらも、風が吹いてスカートがめくれた時にちゃっかり下着を見てきた桜庭に、私の苛立ちは頂点に達した。


「私はただ、どこまでもつのか見てみたいだけ……あんたのその、お人好しをね」




——その後、まさか自分がそのお人好しに助けられてしまうなど、思いもせずに。






 新しく面接を受けたコンセプトカフェは、ガールズバーとの線引きがだいぶ曖昧な印象だった。従業員の女子は皆浴衣ゆかた姿というコンセプトなのだけど、その浴衣の丈が女子高生のスカートよりも短いくらい。店のルール上はお触り厳禁とはいえ、この様子じゃ客の善意次第ってとこだろう。


 よほど人が足りていないのか面接を受けてその日から体験入店できると言われ、私はとりあえずやってみることにした。本当に怪しい感じだったら次以降を断ればいいのだから。


 実際のところ、は何も問題なかった。ジロジロと足を見てくる客は多かったけど、直接触れようとしてくることはなかった。一度でもルールを破った客はここら一帯の店すべて出禁になるらしく、皆慎重になっているのだ。


 でも、一人だけは異質な雰囲気だった。ジェルで固めた金髪に、耳を所狭しと飾り立てるいかついピアス、派手な赤色のシャツを内側に着た黒スーツの男。


 彼は物理的な距離こそ縮めてこなかったものの、どこに住んでいるのかとか、家族はどうしているのかとか、プライベートなことを執拗に聞いてきた。もちろん全部嘘をついて受け流したけど、店員の目があっても悪びれるそぶりもなく、どこか不気味な感じがした。


 彼がやっと帰って、私のシフトも終わった頃だった。最後にゴミ出しを頼まれて、店の裏口から出た時——その男が待ち伏せしていた。




「なぁ、いいじゃん少しぐらい。金に困ってるんだろ? そうだ、いくら欲しいんだ? 払ってやるから言ってみな」



「ちょっ、汚い手で触んな! うちの店じゃそういうのないって言ってるでしょ!」




 絶対常習犯だ。強い力で人通りの無い路地裏に引っ張られ、私はそう確信した。


 後から他のバイトの子に聞いて知ったのだけど、この男は系列店のホストクラブのナンバーワンであることを盾に、カフェの女の子にしょっちゅう手を出していたらしい。事情を深く知らなかった私はまんまと標的にされたということなのだ。


 もがこうにも男の手の力は強く、路地裏の壁に押しつけられる。男女でこんなに力の差があるなんて。お父さんはよく怒る人だったけど暴力は振るわなかったから、こういう場合どうやったら逃げ出せるのか分からない。


 ああ、私本当に何をしているんだろう——男が無理やり私の浴衣の襟の隙間に手を入れようとしてきた時だった。


「水川!?」


 桜庭と鳥飼の声がした。何で二人がここにいるのか最初は理解できなかったけど、スズメの鳴き声が聞こえて察した。確か鳥飼はスズメと会話できる御伽術師おとぎじゅつしなんだっけ。


 私を押さえつけていた男は、二人を見て薄ら笑いを浮かべて言った。


「なに、キミたちこの子の知り合い? じゃあ一緒に加わりなよ。姉ちゃんだってこんな薄っぺらい服着て、本当はみんなに見て欲しいんだろ? ……プライドなんて捨てちゃえよ。お前どうせ、ここにいる時点で負け組なんだからさ」



——



 違う。違う……! 


 負け組なんかじゃない。


 私も、お母さんも……負けたんじゃない、逃げたわけじゃない。自分たちなりの生き方を見つけるために、立ち向かったんだ。だから後悔してない、この道を選んで良かったと思ってる……! なのに、なのに……!




 どうして涙が止まってくれないの……?




——ガッ。




 気がついたら、桜庭が男の腕を掴んでいた。いくらお人好しだからってそこまでするなんて無謀すぎる。桜庭が男に返り討ちにされる絵が浮かんで、私は目をつむりたくなった。


 だけど——彼は強かった。


 私を簡単に抑え込んだあの男が、桜庭の腕力に叶わないなんて。一瞬信じられなかったけど、男の顔がだんだんと青ざめていく様子で証明されていた。桜庭は口を一文字に結んで、男の腕を外側にひねる。男は情けない悲鳴をあげ、それまでの威勢は嘘かのように尻尾を巻いて路地裏から出て行ってしまった。


「桜庭、強いんだね」


 目の前で起きたことが現実離れしすぎていて、頭の中で浮かべたことがそのまま言葉になってしまった。桜庭は照れたように笑う……けど、直視できなかった。私は結局、自力であの男を退しりぞけることはできなかったのだ。徐々に頭が正常に動き始めて余計に自分の気持ちが分からない。ほっとしているのか、哀しいのか、悔しいのか……




「水川……そんな格好、似合わないよ」




 この時の私には、桜庭のその言葉は少しだけ重かった。




「なんで私を助けたりしたの?」


「そりゃ困ってそうだったから」



「頼んでない」


 頭の中で警鐘の音がする。でももう無理だ。言葉に出してしまったから。



「バカにしないでよね。私は一人で生きていける。生きていくしかないの」



 唖然とするクラスメート二人を横目に、私は路地裏を抜け出す。




——ゴメン、桜庭。




 私、今最低なこと言っているよね。さすがにそれは分かる。あんた運が悪いよ。もっと素直な女の子のヒーローになればいいのに。残念だけど私は……こういう生き方を選んでしまった。そうじゃないと、大切な人を守れないから。だから、あんたが手を差し伸べてくれたって、もう……引き返せないんだ。



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