四つめの奇跡
1
その少年はずっと、透明なものになりたいと思っていた。
できるだけ透明なまま、世界にありたいと――
少年がそんな願いを持つようになったのがいつなのかは、正確にはわからない。
それは、一番最初に夢を見たときかもしれない。はじめて星の名前を覚えたときかもしれない。夕陽が沈むのをじっと眺めていたときかもしれない。隣の家の庭で小さな女の子が葉っぱの裏側を熱心にのぞいているのを見つけたときかもしれない――
いずれにせよ、少年は世界をガラス玉みたいにきれいな場所だと思った。そしてその場所を、透明なまま眺めていたい、と。
たぶん――
天使みたいなものになりたかったのだ、彼は。
あるいはそれは、母親から聞かされた話のせいだったのかもしれない。
いつだったかずっと子供の頃、少年はこんなことを母親に訊いたことがある。どんな子供でも一度は考えるような、素朴な疑問。どんな親でも一度はぶつけられるような、複雑な疑問。
「……どうして、ぼくは生まれたの?」
その問いに母親が何と答えたか、少年は正確には覚えていない。ただ彼女は、こんなふうに言ったはずだった。
「人はね、生まれるときに空から落ちてくるの。そこは何もない透明な場所だったから、みんなのいる地面に降りて来たくて。そうして人はみんな、心に空のきれいな欠片を持って生まれてくる。その欠片を持ってるから、世界はきれいな場所に見えるんだよ――」
その時の少年が、母親の言葉をどれくらい理解していたのかはわからない。遠くにある星の光みたいなその言葉を理解するだけの精度を、彼はまだ持っていなかったから。少年はただ、その言葉を一粒の種みたいに受けとっただけだった。
「じゃあ、ぼくは天使みたいなものなんだね」
嬉しそうに笑って、少年は言った。
その頃にはすでに病院のベッドで寝起きすることが多くなっていた母親は、彼の頭をそっとなでてやる。
「――そうかもしれないね」
でも、本当はそうじゃないと少年が知るのに、それほどの時間はかからなかった。
世界には不幸や不信や不安が満ちていて、それはたぶん、空の上にはないものだった。人はいつのまにか、自分たちが空の上にいたことを忘れてしまったらしい。
少年はそんないくつもの光景を瞳に映しながら、それでも一粒の種を捨てようとはしなかった。
この世界で、その種は決して芽を出すことはないのかもしれない――
この世界に、その種が育つべき場所はどこにもないのかもしれない――
そう思いながらも、決して。
――少年の母親が亡くなったのは、彼が中学に入った頃のことだった。
結局、彼女が楽しみにしていたその姿を見せることはできないでいた。その頃には、彼女の意識が戻ることはなかったし、その目が開くこともなかったから。
少年にできるのはただ、母親が少しずつ死に向かっていくのを眺めているだけだった。天使みたいに、透明に。
母親が死んで、少年は父親との二人だけの生活がはじまった。父親は前みたいに笑わないし、つまらない冗談も口にしなかった。看病や仕事やこれからのことで、たぶん疲れてしまったのだろう。
けれど――
本当はそれは、きっと父親が幸福というものを知っていたせいだった。
幸福というのがどういうことなのかを知っていて――
そして何より、それを失ってしまったことを知っていたから。
自分が存在するかぎり、父親はそのことを忘れないだろうな、と少年は思った。少年の存在そのものが、彼女の不在を突きつけるからだ。それは恐ろしく、不幸なことなのかもしれない。
失ったものは失われ続け、悲しみは悲しまれ続ける。ただきれいで何もなかった空の上に戻ることは、もう二度とない。
きっと、世界というのはそういう場所なのだ。
この世界で生きるということは、そういうことなのだ。
――そう、少年は思おうとした。
けれど少年には、何故だかそれができなかった。すべてを過去にして諦めてしまうことも、世界が不幸を許す場所なのだと受け入れてしまうことも。泣いたり、怒ったり、忘れたりしてしまうことを――そして何より、神様に祈ることを。
少年は誰よりも、守りたかったのだ。幸福を、空のきれいな欠片が形になったものを。誰よりも、それを守りたかった。
たぶんその時、一粒の種が少年の中で芽を出したのだろう。
それはもう、誰にもどうすることもできないものだった。どんな批評も、どんな判決も受けつけたりはしない。種はずっと、その時を待っていたのだから。そのためにこそ、その種は少年に与えられたのだから。
少年は両手でそっと、生まれたばかりのその芽を包んでやった。
――僕はこの小さな幸福を守らなくちゃいけない。
と、少年は思った。
そうしなければ――
世界を憎んでしまいそうだったから。
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