――その日、アキは夢を見た。

 目覚めたときには幸せの欠片が溶けていって、小さな痛みのような悲しみだけを残していく、いつもの夢だった。

 夢の中で、アキは誰かの隣を歩いている。

 その誰かのことをアキはよく知っているはずなのだが、顔も名前も思い出すことはできない。ただ、その隣にいると何だか気持ちが優しくなって、どんな場所にだって行けそうな気がしてくるのだった。幸福というのがどういう形をしているのか、手で触れて確かめられるくらい、はっきりと感じられる。

 アキはその人の隣をずっと歩いていたいと思うのだが、気づいたときにはその人はもういない。そしてアキの少し前を、その人は歩いている。

 それは、たいした距離ではないはずだった。ちょっと急ぎ足になれば、すぐに追いつけるはずだった。声をかければ、きっとその人は気づくはずだった。

 けれど、アキはどうしてだかそれをしない。ただ何もしないまま、何もできないまま、その人の後ろを歩いている。

 そして気づいたときには、その人はもういない。

 アキはそのことが悲しくて、つと立ちどまってしまう。胸が苦しくなって、涙があふれていく。さっきまで確かにあった幸福の形は、どうすることもできずにどんどん手の中から零れ落ちていく。

 ……いつもなら、そこで目が覚めるはずだった。そうしてあったはずの優しさはあっというまに薄れて、その影さえ残さずに、小さな胸の痛みだけがいつまでも心をしめつける。

 でもその日、立ちどまったアキの手を誰かがつかんでいた。

 ずっと会いたかった、誰かが。

「――――」

 朝になって目覚めたとき、アキはやはりそうした夢の細部を忘れてしまう。容器から流れ落ちた液体が、その形をすぐに失ってしまうみたいに。

 けれど――

 アキはベッドの上で膝を抱えたまま、自分の胸を押さえてみる。その場所は少しだけ、温かくなっているような気がした。

 誰かの手を思い出そうとするみたいに、アキはそっと目をつむった。夢の形が、これ以上壊れてしまわないように。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る