秋の深まりを感じさせるような、少し肌寒い一日だった。

 その日、食事の席にはアキと母親の二人しかいない。父親は予定通り出張で、弟はまだ眠っていた。休日らしく、音量をいつもの半分にしたような静かな朝だった。

 テレビの天気予報では、終日晴天が続いて、昼頃には気温も平年並みに上昇するだろうと伝えていた。日向にいれば、まだ夏の落し物みたいな暑さを感じられる程度だろう。

 ごはんに味噌汁、それから母親が誰かからもらってきたという芝漬けを口にしながら、アキはぼんやりとしている。まだ体のネジがうまくしまっていない、というふうに。

「どうしたの、文化祭の当日だっていうのに?」

 母親の幸美が不思議そうに訪ねた。

「――ん、ちょっと」

 アキは歯切れの悪い答えかたをする。

「ここのところ、ずっとそんな感じね」

 幸美は冗談ぽく言った。

「恋煩いかしら……?」

 味噌汁をすすりながら、アキはただ苦笑するだけだった。あまり母親の気まぐれな取り越し苦労につきあっている余裕はない。

 もう食事が終わってしまいそうになってから、アキはふと思いついたみたいにして訊いた。

「もしも、なんだけど――」

「うん?」

「――もしも、わたしが世界からいなくなったら、お母さんはどうする?」

 幸美はじっと、いつのまにか十三歳になった自分の娘を見つめた。

「そうね、悲しむでしょうね」

 と、彼女は静かに言った。

「……それだけ?」

「少しくらいは、泣くかも」

 そう言って、幸美は少し笑う。

「……悲しんで、泣いて、それだけ?」

 アキがなおも訊くと、幸美はその質問を手の平の上で転がして確かめるように答えた。

「悲しんで、泣いて、それだけ」

 言って、彼女は冗談ぽくつけ加える。

「あとは知りあいを呼んで、お葬式をして、それくらいかな」

「……わたしがでそんなふうにしたとしても?」

 幸美はちょっと考えてから、けれど、

「やっぱり、そうするでしょうね」

 アキは少しうつむくようにして、訊いた。

「何かに怒ったり、理不尽だと思ったり、絶望したり――世界を、憎んだりはしないの?」

 幸美は首を振った。

「しない、と思うわ」

「……どうして?」

「だって――」

 と幸美はほとんど何の間もなく答えた。

「それが、私だから」

 アキはあらためて、自分の母親のことをまっすぐに見つめる。

 水奈瀬幸美はまるで何の迷いもないような顔で、アキのことを見ていた。

「……本当に?」

「本当に――ああ、でも一つだけ嘘をついたかな」

「?」

「少しくらいじゃなくて、きっとたくさん泣くと思う。ちょっとした砂漠なら、緑に変えられるくらいに」

 アキはくすりと笑ってしまう。確かに、この人にはかなわないな、という気がした。

 それから、幸美は逆に質問する。

「私のほうからも訊くけど、私がいなくなったら、アキはどうする?」

「うん――たぶん、泣くと思う」

「じゃあ、それがアキってことね」

 そう言って、幸美は笑った。

 食事が終わってしまうと、アキは食器を流しまで運んだ。それから、

「ひのりちゃんと待ちあわせしてるから、そろそろ行くね」

 と出かける準備をする。といっても、今日は持っていくものなどなかったけれど。玄関で靴をはくと、「――いってらっしゃい」と母親が手を振った。

 アキはとんとん、と靴のつま先をそろえながら言う。

「いってきます」


 バス停まで歩いていると、ほんの少しだけ冷たい風が吹いてきた。遠慮がちに体温を奪っていく、そんな風である。まるで季節が、世界の様子を調べているようでもあった。アキは空気の固さでも確かめるみたいに、左手を前に出して動かしてみた。カバンを持っていないせいで、ちょっと不安になるくらい体が軽い。

 休日の朝早くとあって、バス停に人の姿はなかった。誰もいないベンチに腰かけていると、バスが気づかずにそのまま行ってしまいそうな気分になる。

 けれど、ほどなくバスはやって来て、アキはいつものように席に座った。

 いくつめかの停留所で、ひのりが姿を見せる。アキは手を振って、二人は並んで座った。バスにはいつもの半分も人は乗っていない。心なしか、その動きはいつもより身軽な感じがした。

「さて、今日はどうなりますやら」

 挨拶のあとで、ひのりはそんなふうにおどけてみせた。何といっても、今日が文化祭の初日なのだ。

「……そうだね」

 対してアキは、どことなくぼんやりとしている。ひのりは少しだけ、首を傾げた。

 いつもに比べるとまだ眠っているような街を、バスは通り抜けていく。どこか密度の薄れた風景が、窓の外を流れていった。

「もしも――」

 と、それからしばらくして、アキは口を開こうとした。

 けれどその言葉は体のどこかで引っかかってしまったみたいに、外に出てくることはなかった。

 ひのりは、怪訝な顔をする。

「――もしも?」

「ううん、やっぱりいいよ」

 アキはごまかすように、少し笑った。「……何でもない」

 またしばらく、何事もなく風景が流れていった。街もバスの中も、ひどく静かである。

「ねえ、アキちゃん」

 と、ひのりが不意に言った。沈黙がそのまま形になったみたいに。

「初めて会ったときのこと、覚えてる?」

「……わたしとひのりちゃんが?」

「うん」

 言われて、アキはその時のことを思い出してみた。

「確か、塾で何かのクラスがあったときのことだよね。休憩時間、だったかな。みんなまだ教室の雰囲気に慣れてなくて、ぎくしゃくしてた」

 ひのりはこくりとうなずく。

「私ね、わりと人見知りするほうだったから、その時誰にも話しかけられなかったんだ。本当はおしゃべりしたかったんだけど、緊張してて」

 そう言われると、アキはそんな気もした。

「でね、その時教室の誰かれなく話しかけてて、私にも声をかけてくれた人がいたんだ」

 ひのりは言って、アキのことを見つめる。

「――それが、アキちゃん」

「だったっけ?」

 アキのほうは、あまり覚えていなかった。覚えているのはただ、ひのりに話しかけて、きっとこの子とは友達になれそうだな、と思ったことだけである。

 首を傾げるアキを見て、それも無理はないな、という感じでひのりは笑う。

「私ね、アキちゃんが話しかけて来てくれて、すごく嬉しかった。だって、私も話しかけたかったから。話しかけたくて、でもできなかった。それでね、私は聞いたんだよ。『どうしてそんなふうに、知らない人に話しかけられるの』って。それで、アキちゃんが何て答えたか覚えてる?」

 アキは首を振った。覚えていない。

「……アキちゃんはね、こう言ったんだよ。『だって、そうしたいと思ったから』って」

「――――」

「私は今でも、そのことに感謝してるんだよ。アキちゃんがアキちゃんでいてくれたことに」

 そんなことを真顔で言われると、アキは少し赤くなってうつむいてしまう。けれど――

「でも、わたしは……」

「〝万有引力とは、ひき合う孤独の力である〟」

「?」

 アキは思わず、顔をあげる。ひのりは笑って言った。

「これも、いつか言ったのと同じ人の詩……よくわからないけど、たぶんアキちゃんはアキちゃんの好きなことをすればいいんだよ。きっとそれで、誰かが救われたりもするんだから」

 それが当然のことみたいに、鹿野ひのりは何の衒いもなく言っている。

「…………」

 アキは今朝見た夢と同じように、心がほんの少しだけ温められるような気がした。

 きっと感謝するのは、わたしのほうだ――

 そう、思いながら。

 バスは休日の街を、いつもと同じように走っていく。


 朝のHRでは、文化祭に関する最終確認が行われた。実行委員による段取りの説明のあと、クラス展示の当番が決められる。見学者に解説をしたり、問題が起こったときその処理にあたる役目だった。

 各班ごとのくじ引きで、アキは一番最初のローテーションにまわされる。そのあとは自由になれるので、このほうがアキにとっては好都合だった。

 最後に担任教師から儀礼的な訓示が下されると、開祭式のために講堂へと移動することになる。全校生徒が例の折りたたみ式のシートについてからも、さすがにお祭り前だけあって、なかなかざわめきは収まらなかった。

 壇上で校長先生による演説が終わると、生徒会長である末島賢道によって予定通りに衣織祭の開催が宣言される。

 何だかそれは、すでに演劇がはじまっているような雰囲気だった。

 同時に、予定にはない音楽がスピーカーから流れていく。

 ――『真夏の夜の夢』

 一部の困った顔をしている人のことを思い浮かべて、アキはくすりと笑ってしまう。結局、奇跡をとめることは誰にもできなかったわけだった。

(それとも――)

 と、アキはけれど、考えてみる。

 これは悲しむべきことなんだろうか、と。

 いずれにせよ、文化祭ははじまる。


 ――最後の奇跡が起きるのを、待ちながら。

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