「――――」

 最後のページまで読んでしまうと、アキは時計の針をとめるようにして、そっとノートを閉じた。

 長い文章をいっぺんに読んだせいで、首筋や眉間のあたりが少し痛んだ。頭の中には、ぼんやりとした疲労感みたいなものがある。世界の輪郭が少しだけずれているようでもあった。アキは腕をのばして、大きくのびをした。

 そうして、たった今読み終えたばかりのノートについて考えてみる。

 ノートの中身は連綿と自己の心情を綴った、というようなものではない。そこには主に、〝幸福クラブ〟でのことが書かれていた。日付はなく、ほかの人物については名前が伏せられている。具体的な説明が意図的に省かれている箇所もあって、ちょっと読んだだけでは実際のことかどうなのかは判断できない。

 日記調の文体で書かれてはいたが、文章は読みやすく、丁寧に仕上げられていた。きちんと考えられているのに、書くことに迷ったような感じは見られない。きっと、書くべきことが胸の中にちゃんと収まっていたせいだろう。自分の意見や感想について述べていることは少なく、ただ透明な視点で世界を眺めている、という感じだった。

 それは何だか、砂浜に指で文字を書くのに似ていた。

 ――アキは閉じたノートの上に、そっと手を置く。

 おそらく杜野透彦が書いたのだろうそのノートは、世界をただきれいな場所として記述しようとしているようでもあった。世界は幸福な場所でなければいけない、と。世界に必要なのはそれだけなんだ、と。

 そこには澄んだ優しさと、柔らかな明るさがあった。杜野透彦という少年は、世界に対してそれを望んでいたのだろう。例え現実が、どれだけ不完全だとしても。

 けれど――

 それはもう、終わってしまった物語だった。

「――読み終わった?」

 アキがぼんやりしていると、不意に声がかけられている。

 そこには、牧葉澄花がいた。アキがノートを読み終えるのを、彼女はそこでずっと待っていてくれたのである。

「あの、すみません。こんなに長いことお邪魔しちゃって――」

 アキが時計を見ると、ここに来てから二時間以上が過ぎていた。読んでいるあいだは気づかなかったが、よほど集中していたらしい。

「……明日が、文化祭だっていうのに」

「別に大丈夫だよ。もう準備は終わってるしね」

 澄花は何の屈託もなさそうに言う。実際、アキがノートを読みふけっているあいだに、ほかの部員が姿を見せるようなことはなかった。

「それに私のほうもずっと本を読んでたから、待ってたってわけでもないし」

 言って、澄花は軽く笑う。

 部屋の中では、二時間で世界がどれくらい変わったのかはわからなかった。おそらく学校のいたるところで、文化祭の準備がまだ続けられているのだろう。

 アキはノートに手を置いたまま、つぶやくように口を開いた。

「……澄花さんの言ってた意味が、ちょっとわかったような気がします。残酷なくらい、優しいっていうことの意味が」

「うん――」

 澄花は風に揺れるみたいに、小さくうなずいてみせる。

「どうして杜野さんは、世界に対してそんなことを望んだんですか? そんなことをしても、きっと――」

「きっと?」

 少しうつむいて、アキは言った。

「傷つくだけです」

 澄花は何かの重みを量ろうとするみたいに、そっと目をつむった。

「そうだね、そうかもしれないね」

「……だったら、どうして」

 訊きながら、けれどアキにはわかっていた。人が、それを望んでしまうのだということが。どうしても、願わずにはいられないのだということが。

「杜野くんがどうしてを願ったのかは、私にもわからない」

 と、澄花は何もない空の音にでも耳を澄ますようにして言った。

「私に――私たちにわかるのは、それがどんな願いだったか、ということだけ。私たちにそれを非難することはできない。どうしたって、人は完全世界を望むものだから」

 そうしてちょっと悲しそうに、澄花は微笑んだ。

「たぶん杜野くんは、天使みたいなものになりたかったんだよ。見えないところからそっとみんなを見守る、そんなものに」

「…………」

 アキはじっと、何も書かれていない表紙を見つめる。だったらこのノートは、その羽の一枚一枚だということになるのだろうか。

「――そのノート、水奈瀬さんが持っててくれないかな?」

 と、不意に澄花が言った。

「わたしがですか?」

 アキはためらうような顔で、澄花のほうを見る。澄花はうなずいてみせた。

「そのほうが、ふさわしいような気がして」

「でもこれって、文芸部のものなんじゃ……」

「――どうかな? ロッカーの鍵を開けたのは水奈瀬さんなわけだし、鍵を開けた人が持つのが正しい気がする。それにもう、いつまでも杜野くんの私物を置いておくわけにもいかないしね。今のところ、ここは杜野くんの正しい居場所じゃないよ」

 アキはノートを手に持って、少し考えてみる。

「……そうかもしれません。じゃあ、このノートはわたしが預かっておきます」

「そうしてくれると助かるかな」

 澄花は朗らかに言った。

「ありがとうございます。澄花さんがいてくれたおかげで、いろんなことがわかりました」

「――それはどういたしまして」

 そうして部屋を出て行こうとして、けれどアキはふと立ちどまって訊いた。

「ところで、もう一つだけ聞いてもいいですか?」

「……何?」

「どうしてあの時、澄花さんは美乃原さんがにいるってわかったんですか?」

 澄花はじっと、アキの目を見た。彼女の表情は、あくまで変わらない。

「――どういう意味かな?」

「澄花さんはあの時、美乃原さんがピアノの練習を口実にクラスを抜けだしたって、言いましたよね?」

 アキはその時のことを苦労して思い出すようにしながら言う。

「でもピアノの練習をするなら普通、音楽室に行ったと思うはずです。実際、旧校舎では美乃原さんがピアノを弾いていた形跡はありませんでした。あそこのピアノは調律にも問題があるみたいですし。だからピアノの練習と聞いただけでは、美乃原さんが旧校舎に行っただなんてことはわからないはずです」

「…………」

 澄花はずっとアキの視線から目をそらさなかったが、不意にくすりと笑った。

「なかなか鋭いんだね、水奈瀬さんは」

 いたずらが見つかった子供みたいな、そんな表情を浮かべる。

「うん、本当は知ってたよ。彼女がよく旧校舎に行ってたってことは。あの時も、だからそうだと思った。説明するのが面倒だから、そうは言わなかったけど」

「親しいんですか、美乃原さんとは?」

「そこそこには、かな」

 それだけのことを聞いてしまうと、アキはとりあえず納得したような顔をする。そうしてお礼を言うと、アキはノートを胸に抱えて行ってしまった。

「…………」

 澄花はしばらのあいだ入口から手を振っていたが、やがて小さなため息をついている。

「本当に、なかなか鋭い子だな、水奈瀬陽、さん――」

 おかしそうに笑いながら、そっとつぶやく。

 するとほどなくして、ずっと待っていたかのように一人の人物が姿を現していた。図書室の二階からアキの様子をうかがっていた、例の人物である。

「――どうだった、水奈瀬陽は?」

 その人物は、牧葉澄花と知りあいであるかのように口をきいた。

「いい子みたいですね、とても」

 澄花はからかうように笑っている。

「俺は冗談を聞きに来たわけじゃないぞ」

「わかってますよ、神坂先生――」

 言われて、神坂柊一郎は不機嫌そうな表情を浮かべた。廊下には、二人のほかには誰もいない。いれば、この奇異な取りあわせにはさすがに不審を覚えただろう。

「わかっているなら、彼女と何を話したのか教えてもらおうか」

「――たいしたことじゃないですよ」

 澄花は入口近くの壁に、ちょっともたれかかっている。

「杜野くんのノートを渡してあげただけです」

は今、水奈瀬が持っているのか?」

「ええ……そのほうがいいような気がして」

 神坂はそれに対して、何も言わない。

「勝手なことをして怒ってますか、先生?」

「いや、それくらいなら構わないだろう」

「……それは先生の〈精神研究ジョーカー・タッチ〉で調ですか?」

 と澄花は冗談ぽく質問した。が、神坂柊一郎はあくまでまじめな顔をしている。

「違うが、水奈瀬陽はどう見ても白だよ。あいつはあの五人のこと以外は、何もわかっちゃいない」

 神坂の言葉に、澄花は軽く肩をすくめるだけだった。

「でもいいんですか、このまま放っておいて? あの子、きっと私たちのことも何か気づいてますよ」

「あいつは魔法委員会の関係者じゃない。放っておいても問題はないだろう」

「本当にそうですかね」

 澄花はおかしそうに言う。水奈瀬陽はもうずいぶん、いろんなことを知ってしまっているようにも思えた。

「……いずれにせよ、杜野透彦が現れることはもう二度とない。願いが叶えられた以上は、そういうことになる。魔法使いは、もうここにはいない」

「…………」

 確かに、それはそうだった。この学校で、もう一度あの魔法が使われることはない。

「それに十五歳を迎えれば、完全魔法は失われてしまう。奇跡を起こせたとしても、もうそれは世界を変えるほどのものにはならない。そうすれば、どちらにせよ俺たちがこの件に関わる必要もなくなる」

「――ですね」

 澄花は小さくうなずく。それが、あの少年の願いでもあったのだから。

「いずれにせよ、これはもう終わったことだ。まがいの奇跡がいくら起こったところで、俺たちにできることはもう何もない」

 神坂柊一郎のそのセリフは誰に聞かれるわけでもなく、放課後の廊下にゆっくりと消えていった。


 アキはノートを持ったまま、旧校舎の音楽室に向かっていた。

 杜野透彦のノートによれば、〝幸福クラブ〟の会合が行われていたのは、その場所のはずだった。掲示板上ではできないような相談があれば、彼らはそこに集まっていたのだ。

 アキは玄関から上がると、前と同じように校舎の三階に向かった。階段はやはり、どこかで油の切れたブリキ製の木こりみたいな音がしている。

 三階の廊下からは、文化祭用に垂れ幕が下がったり、目立つ装飾の施された新校舎を見ることができた。それに比べると、何の変化もないこの旧校舎は、もう死んでしまっているようにも思える。世界はゆっくり、こんな場所のことから忘れてしまうのだ。

 アキが音楽室の前に立つと、そこの扉は両方ともが閉まっていた。今日は、美乃原咲夜はいないのだろう。彼女だけではなく、葛村貴史も、和佐葵も、古賀唯依も。そしてもちろん、杜野透彦も――

 扉を開けると、中は無人だった。もう、クラブの五人が集まることはないだろう。ここにはやはり、終わった物語しか存在していない――

 アキはピアノのそばに立つと、黒漆のような表面にそっと手を触れた。このピアノだけが、今も変わらずに存在している。ずっと五人のことを見続けてきたはずのピアノが。

(どうして――)

 と、アキはノートを強く持ちながら思う。

 どうしてこの人は、そんなことを願ってしまったのだろう――?

 ノートを読みながら、アキが感じたこと。

 選ばれなかった文字、ページの隅に零れ落ちたような思い、鉛筆で書かれた字のほんのかすかなためらい。

 そんな形にならないものが語りかけてくる、一つのこと。

 ノートの存在そのものが教えてくれる、一つのこと。

(どうして――)

 と、アキは思う。

 いや、正確には違う。杜野透彦はそれを願ったわけではない。必ずしもそれは、この少年の本心ではなかった。

 ただ――

 そう願わざるをえなかった、それだけのことだ。

 アキにはそれが、よくわかっていた。ずっと以前に、それと同じものを見たことがあるから。人はそれを失ったとき、諦めることを忘れてしまうのだ。

 ――例え、魔法の力に頼ったとしても。

 抱えていたノートを、アキはそっと譜面台のところに立てかけた。何となく、そこが一番このノートにふさわしいような気がして。杜野透彦がいれば、きっと同じことを望むだろう。

「……どうしてなんだろう」

 アキは鍵盤の蓋を開け、白鍵の一つを叩いてみた。

 もしもこのピアノに生命があれば、ここであったことのすべてを語ってくれるはずなのに――

 そんなことを、思いながら。

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