2
三つめの奇跡が起きたのは、次の日の朝のことだった。
ポスターの絵が少しずつ近づいていくのとは違って、それはひどく目立つものだったから、生徒の中で見落としたものはいなかっただろう。正門を入ってすぐに見えるその光景は、確かに奇跡というにはふさわしいものだったかもしれない。
「――すごいね、これは」
正門から玄関に向かう途中で、鹿野ひのりはため息をつくようにして言った。
「うん、そうだね」
隣でアキも、素直にうなずいてしまう。確かにそれは、たいした光景だった。
かなりの数の生徒たちが、二人と同じように足をとめて、その光景を眺めていた。教室の窓に身をよせて、校舎の中から見物している生徒の姿もある。何人かの先生も、生徒たちから少し離れた場所で物珍しそうにそれを眺望していた。
全員の視線の先には、ほぼ満開になった一本の桜の樹がある。
朗々と咲き誇る桜の花々は、空気にうっすらと色が滲んでしまいそうな薄い淡紅色をしていた。花弁は樹の全体を覆って、枝に残った緑の葉もほとんどが隠されてしまっている。いわゆる、狂い咲きというやつだった。
「私、初めて見たよ、こんなの」
半分くらい呆然としながら、ひのりは言う。
「満開だね」
アキも大きく息をついた。これも奇跡だとすると、さすがにため息をつくしかない。
「……昨日までは何ともなかったよね?」
ひのりの言葉に、アキはうなずく。
「一晩で花が咲いちゃったみたい」
「私たちの知らないうちに春が来たのかな? 探せば、その辺をツバメが飛んでるかも」
「まだ、ちゃんとした秋にもなってないけど」
二人が眺めているあいだにも、あとからやって来た生徒たちが足をとめたりしている。
「でも、きれいだね」
「――うん」
ひのりに言われ、アキはもう一度うなずく。
「文化祭の当日まで、このまま咲いてるかな?」
今日を含めれば、あと三日ほどの時間がある。
「どうかな、さすがにすぐ散っちゃうような気もするけど」
「私は文化祭が終わるまでは咲いてると思うけどな」
何故か笑顔を浮かべて、ひのりは言った。
そうこうするうちに人も多くなってきたので、二人は玄関へと向かうことにした。桜の樹は依然として、霞を集めたような花びらを身にまとっている。
歩いている途中で、アキは大きくあくびをした。
「どうしたの、寝不足? あんまり大きな口を開けてると、魂が抜けちゃうよ」
言われて、アキは目に涙を滲ませながら返事をする。
「――昨日、ちょっといろいろあってね」
昼休みの時間になって食事を終えてしまうと、アキは一人で桜のある正門付近へ向かった。
朝からずっと騒がれていたこともあって、この時間になるとさすがに話題性を失ってしまったのだろう。桜の周囲に人影はなくて、校舎から顔をのぞかせる者もいない。そこにはただ、季節外れの桜が静かに咲いているだけだった。
道の途中に一本だけ、桜の樹は生えている。それなりに立派なものだったが、樹齢を気にするほどのものではない。春の入学式の時にも、この桜はきれいに花を咲かせていたはずだった。
「…………」
アキは近くまで歩いていって、じっくりと桜を観察してみる。
それはごく普通のソメイヨシノで、五つの花片と萼が小さくまとまって一つの花を作っていた。その完全花はあまりにささやかで、生命の細工物というよりは、ただの色の塊か何かが接着されているようにしか見えなかった。手で触れてしまえば、すっとどこかに溶けてしまいそうに思える。
花の影に隠れるようにして、緑の葉がのぞいていた。昨日まで、この桜にはその枝葉しかついていなかったはずだった。いったい何を間違えて、花を咲かせたりしたのだろうか。
植物も勘違いすることはあるんだろうな、と思いながらアキは樹のまわりをぐるりと一周してみた。
とりあえずのところ、樹木自体におかしなところは見つけられない。樹皮に異常があるわけでも、枝ぶりや根元がおかしなわけでもなかった。地面だって、何の変わりもないようである。そっとその幹に触れてみても、固くて温かな感触があるだけで何もわかることはなかった。もちろん専門家なら、そのかぎりではなかったのかもしれないけれど。
アキがそうしていると、不意にシャッター音が聞こえている。
「――?」
音のほうを振りむくと、誰かがカメラを構えて立っていた。小動物的な体格で、中等部女子の制服を着ている。頭にはヘッドフォンを装着していた。
写真部三年の、和佐葵である。この風貌で見間違えるはずがない。
(……桜が咲いているのを撮りにきたのかな)
特におかしなことではなかった。写真部の人間としては、ごく自然な行為に思える。アキは桜のそばを離れると、葵のほうに近づいていった。
「写真ですか?」
見ればわかることではあったけれど、一応の礼儀として訊いておく。
「そう」
相変わらずのぶつ切り加減で、葵は答えた。
「季節外れでちょっと変ですけど、きれいですよね」
「あなたは、取材?」
訊かれて、アキは首を振る。興味などなさそうに見えたが、彼女は一応アキのことを覚えているようだった。
「どちらかというとただの野次馬です。奇跡といっても、これじゃ調べようがなくて」
「…………」
葵は風に揺れる色をとらえるように、ファインダーをのぞいてシャッターを切る。
ポケットサイズのデジタルカメラとは違う、重量感のある本格的な一眼レフだった。この少女の手の中にあると、それは精巧な写真機というよりも、もっと別の目的のために作られた特殊な機械装置みたいにも見える。
「それ、アナログですよね?」
アキはふと、前から気になっていたことを訊いた。初めて会ったときに部室で化学実験のようなフィルムの現像をしていたのは、もちろんフィルム式のアナログカメラを使っているからだろう。
「そう」
と、葵は簡単に答える。
「どうしてデジタルにしないんですか?」
素人としては、そのほうがずっと簡単な気がする。
「たいした理由はない」
「本格的な写真を撮るには、やっぱりそのほうがいいから……?」
うるさく思ったわけでもないのだろうが、葵はカメラから手を離してアキのほうを向いた。
「アナログだと、見えないものが見えるから」
「……見えないもの?」
「プリントしてみるまで、何が撮れてるかわからない。だから、そこにいたときに見てなかったものが見える」
「でも、その場で確認できたほうが便利じゃないですか?」
「それは、私が見たものでしかない」
葵はどんな構図にするかを考えるように、桜のほうに目をやった。
「私は、私以外の人がどんなふうに世界を見てるのかを知りたい」
「アナログだと、見れるんですか?」
「手続きとしては」
「そうすれば、自分の見たものとは違うものが写るから……?」
こくん、と葵はうなずく。
「……でもそれは、葵さんが見たものそのままでもいいような気が」
「私は、違うから」
何故か、葵はすばやく否定した。
「私が見ているものは、みんなと違う」
「違う?」
「――アリマキ」
聞きなれない言葉に、アキは首を傾げた。
「アブラムシのこと。よく葉っぱの裏側や茎にくっついてる」
いわゆる、蟻牧のことだった。よく知られているとおり、この虫は甘い露を貢納して蟻に身を守ってもらう。蟻の畜牧、あるいは蟻が集まることで、蟻巻とも呼ばれる。植物に群生している姿は、あまり審美的とは言えない。
「そのアブラムシが、どうかしたんですか?」
言われてみれば何度か見たことのあるその光景を思い出しながら、アキは訊いてみた。
「子供の頃、よく見てた」
「アブラムシを……?」
葵はうなずく。とはいえ、子供が喜んで観察対象に選ぶようなものでもない。
「アリマキは卵胎生の単為生殖でどんどん増えていく。ほとんど移動はしなくて、いつも群生しているのはそのため」
「それであんなにいっぱいいるんですね」
「でも数が多いだけで、アリマキは脆弱な虫。いろんなものに食べられる。ヒラタアブとかクサカゲロウ、テントウムシの幼虫や成虫。まるで抵抗もせずに、ただただ食べられていく。まるでそんなこと、たいしたことじゃないみたいに」
「…………」
「私はそのアリマキたちが何を考えているのかわからなくて、よく見てた。ただ食べられるためだけみたいに、どんどん増えていく。じっとして、抗いもせず。そこに、どんな意味があるんだろうと思って」
葵は不意に、アキのことを見る。半分眠ったようなその瞳の奥で、けれど何かが揺れているようでもあった。
「私がそうやってじっとしていると、みんなが私のことをおかしいと言った。何を見てるんだって。何が面白いんだって。でも私はそう言われて、みんなのほうこそ何を見ているんだろうと思って、それから、理解した。みんなの見ているものと、私の見ているものは違うんだ、って――」
そう言うと、葵は何か大切なものにでも触れるみたいにしてカメラを抱えた。
つまるところそれは、彼女にとって世界に小さな穴を開けるための道具、なのだろう。他人を、他人の見ているものを理解するのに必要な道具――そうすれば、自分もその仲間になれるんじゃないのか、と。
「…………」
アキは何を言っていいのかわからなくて、ただ黙っていた。
「――水奈瀬さん?」
と、そこに声がかけられている。
アキが振りむくと、後ろには生徒会副会長である古賀唯依の姿があった。相変わらずの和やかで、信頼感のある雰囲気をしている。
「古賀さん、どうしたんですか?」
ちょっと意外そうな顔で、アキは訊いた。
「生徒会のほうの宣伝で、この桜のことが何か使えないかと思って」
古賀は満開の桜に目をやりながら、彼女らしい落ち着いた様子で答える。
「――ああ、なるほど」
「水奈瀬さんこそ、新聞部の取材か何か?」
「えと、わたしのほうはそういうわけじゃなくて……」
葵にも似たようなことを訊かれたな、と思いながら答えようとしたとき、アキはふと妙なことに気づいた。
さっきから、葵がじっと古賀のことを見ている。その視線は、ただ相手のことを見るだけにしてはひどく真剣な種類のものだった。まるで、星の軌跡を撮るために露光したカメラみたいに――
「……葵さん?」
アキは不思議に思って、声をかけてみた。
「――!」
すると葵は、クラッチをつなぎそこなった車みたいなぎこちなさではっとした。何故だか、その頬はかすかに紅潮しているようでもある。
「――私、もう行く」
唐突にそれだけを言うと、葵はとてとてと小走りで校舎のほうに行ってしまった。まるで何かを隠すみたいに、慌てた様子で。
「どうかしたの、彼女?」
古賀は驚いた様子の顔で訊く。いきなり声をかけたせいで、何かまずいことでもあったのかと思ったのだ。
「えーと、何でもないとは思いますけど……」
言ったところで、アキにだってわかりはしない。逆に質問してみた。
「古賀さんと葵さん、知りあいなんですか?」
「いえ、そんなことはないと思うけど――」
言いながら、古賀は首をひねっている。確かに、そんなことはないはずだった。ないはずなのだが、しかし――
「……桜も葵さんも、よくわからないですね」
アキは渋面を浮かべて、腕を組んだ。
古賀は桜を見て、「確かに、そうね――」とつぶやく。
「普通、狂い咲きって台風なんかで葉っぱが落ちちゃったときになるものなんだけど」
「そうなんですか?」
「うん、ホルモンのバランスの問題。次の春まで花が咲かないように、葉から休眠ホルモンが出るんだけど、それが十分じゃないと、こうやって秋のよく似た気温の時に咲いてしまうんだって」
聞いて、アキは目をぱちくりする。
「じゃあホルモンバランスの調節さえできれば、人工的に花を咲かせることはできるんですか?」
「まあ原理的には、そういうことになるんじゃないかな」
多少自信のなさげな様子で、古賀は言った。
「…………」
アキはもう一度、桜の樹を見た。だとしたら、この奇跡もやはり人為的に演出されたものなんだろうか?
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