その日の放課後、アキが図書室にあった桜についての本を読んでいると、確かに古賀唯依の言ったとおりのことが書かれていた。

 桜は花が散ったあとに葉をつけはじめ、夏頃には来年に咲く花芽が用意される。そのあいだ、葉からはアブジシン酸と呼ばれる休眠ホルモンが分泌され、花芽が活動することはない。葉を落とし、冬の冷たい気温にさらされたのちに春を迎えると、桜は目を覚まして開花する。

 ところが、何らかの理由でこの休眠ホルモンの不足と気温の変化が起きると、桜はそのメカニズムにしたがって花を咲かせる。これがいわゆる、狂い咲きというやつだった。休眠ホルモンの不足は、例えば台風や虫害で葉量が十分でない時に生じる。

「……ふむ」

 と、アキは一通りのことを読んでしまうと頬杖をついた。

 その本にはほかに、冬に咲く種類の桜や、ジベレリンなどの開花促進剤、ヒマラヤ原産の桜が本来は秋に咲くものだったという考察についてなどが載せられていた。

 とはいえ校庭の桜はありふれたソメイヨシノの樹で、枝についた葉もほとんど落ちてはいない。薬で開花を促進するにしても、限度というものがある。

(まったく別の理由、なんだろうか……)

 アキはぱらぱらとページをめくってみた。世の中には、実にたくさんの種類の桜が存在しているようだった。

 最後のページをめくってぱたんと本を閉じると、図書室用の管理バーコードが貼られた裏表紙だった。黒い線と数字が実務的に並んでいる。

 アキは本を戻しに行くために、立ちあがった。

 図書室はしんとして、荒野の雑草みたいにまばらにしか人がいない。文化祭前で、いろいろと忙しいせいだろう。吹き抜け二階建てになった図書室にはPCブースや視聴覚コーナーが設置され、生徒たちによる利用率は高かった。

 アキは自然科学系の棚に本を戻すと、そのまま本棚のあいだを歩いていった。頭の中では満開の桜や、演劇部のポスター、放課後の音楽について考えながら。

 ずらっと並んだ本のタイトルだけを目で追っていくと、こんなにもたくさんの本があることに、アキは少しだけ混乱してしまう。それぞれの本に、それぞれの内容があり、それぞれの著者がいるのだった。いっそすべてのことが書かれた一冊の本があればいいのに、とアキは思ってしまう。世界を一冊の本によって記述する――

 外国文学の前を通っているとき、アキはふと足をとめた。そこに『ほんものの魔法使い』という題名の本を見つけたからだ。例の掲示板に使われていたハンドルネームと同じものだった。

 アキは何気なく本を手にとって、開いてみる。それは手品師の都市に本物の魔法使いがやってくる、という筋書きだった。けれど彼のほうでは、のことを自分の使うのと同じようなだと思っている――

 いったん本を閉じて、アキは表紙や裏表紙を眺めてみた。あのクラブの一人は、この本から名前を借りたんだろうか。その人は、この著者のファンだったのかもしれない。

 そんなことを考えていると、アキの中で何かがほんのかすかな音を立てた。

(――?)

 それは、溶けたガラスの細い線が、ぷつんと切れるのに似ていた。その糸のつながっていた部分で、何かが起きたのだ。

 アキは苦労して、その糸をまたつなぎあわせてみる。金属線にわずかだけ通電するみたいに、糸が接触するたびに記憶のどこかが刺激されていた。

(……本……『ほんものの魔法使い』……ハンドルネーム……学年で変わった名前……裏表紙……バーコード――)

 ――そう、バーコードだった。

 本の裏表紙に貼られたバーコードの下五桁の数字「20331」。

 その数字には、どこかで見覚えがあった。

 アキは試験中でもそこまではしたことのない真剣さで、記憶の底まで深く潜りこむ。

 ――「20331」――二年三組三十一番。

(杜野透彦だ!)

 アキははっとした。

 あの行方不明の少年の学籍番号と、それは同じだった。アキが念のためにメモ帳を開いて確認すると、記事に書いてあったそれとバーコードの数字は、やはり一致していた。

(どういうことなんだろう……?)

 偶然、なのかもしれない。たまたまハンドルネームと同じ本があって、たまたまその本のバーコードが行方不明の生徒と関連する数字を示しただけなのかも。

 けれど――

 ここから、いくつかの仮説が成り立つのだった。

 まず、掲示板のハンドルネームは図書室の本と対応していた、という仮説。つまりあのハンドルネームは実在の本に対応していて、その本のバーコードは学籍番号に対応していた。順番を整理すると、クラブのメンバー、その学籍番号、バーコードの数字、図書室の本の題名、という順番でハンドルネームが決定されている。

 そして、ハンドルネームが変更されたのは、クラスが変わって対応するバーコードが使えなくなったためである、という仮説。

(本当に、そうだろうか……?)

 アキは疑ってみるが、これには確認する方法があった。

 実際に、調べてみればよいのだ。

 図書室の検索端末で、アキはメモしておいたハンドルネームを一つ一つ入力してみた。ヒットしたデータの中から、バーコードの数字を抜き出す。メンバーに二種類あるハンドルネームの、両方ともを。

 数字がわかれば、あとは学園の名簿をたどっていけばいい。学校関連のコーナーで名簿を見つけると、アキは去年と一昨年のものを調べてみた。

 結論からいえば、それは完全に一致していた。

 二種類のハンドルネームは、それぞれ同一人物を指している。確率的に考えれば、偶然ということはありえないだろう。メンバーはやはり五人で、中等部の同じ学年に所属していた。

(でも、これって――)

 アキはその五人の名前を見て、途方に暮れてしまう。何故だかそれは、全員がアキの知っている人物の名前だった。

 が〝幸福クラブ〟のメンバーだったとして、何のためにそんなものを作ったのだろうか。彼らはそこで、何をしていたのだろうか。

 去年、クラブを解散したのは何故か。どうしてメンバーの一人である杜野透彦は、行方不明になっているのか。

 そして、文化祭の〝四つの奇跡〟との関係は――?

(……やっぱり、わからないことは聞くしかないよね)

 アキはそう思って、けれど何故だか気が重かった。

 そこにはいつか見たのと同じ、この世界の不完全さに関わる出来事が待っているような気がして――

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