6
「咲夜とはもう会ってみた?」
と、訊かれたのは、アキが新聞部で古い記事を漁っているときのことだった。
机から顔をあげてみると、部長である小菅清重が隣に立っている。彼女は執筆の進捗状況でも確認するような口調をしていた。癖になっているのかもしれない。
「会いました」
アキはバインダーを繰る手をとめて、簡潔に答えた。
「……どうだった?」
「いっしょに演奏してみました。美乃原さん、すごく上手でした。想像していたより、ずっと」
「うん――」
うなずきながら、小菅はイスを引いてアキの隣に座る。
「問題はなかったわけだ」
「はい、とりあえずは」
「あの子、ちょっと変わってるでしょ」
「そうですか?」
アキが疑問符つきで返すと、小菅はくすりと笑うような目つきでアキのことを見た。
「あんたも変わってるから、気づかなかったのかもね」
「わたしはごく普通ですよ」
傷つけられれた名誉に対するささやかな抗議は、完全に黙殺されたようだった。
「――さあは、あの子はどんな感じだった?」
小菅は机の固さでも確かめるようにして、その表面をとんとんと指で叩きながら言った。抗議のことはいったん置いて、アキは答える。
「すごく落ち着いてて、大人っぽい感じでしたよ。気品があって、物腰が柔らかで――」
「何か妙なことは言ってなかった?」
訊かれて、アキは例の「願いごと」の話を思い出したが、小菅には黙っていた。何となく、彼女はそれを人にしゃべって欲しいとは思っていないような気がした。
「……親切に優しくはしてくれましたけど」
アキがそう言うと、小菅はひどく深刻そうな顔をしている。
「部長?」
「あたしとさあは、幼なじみみたいなものだったんだけど――」
と、小菅は急に話しはじめた。火のついたロウソクが融けていくのを眺めるみたいな、ゆっくりとした口調で。
「あの子、ちょっと変わった子だったんだよね。人とあまりつきあいたがらなくて、どうしてだかいつも何かに怯えてるみたいな感じだった。エドガー・アラン・ポーの怪奇小説に、いつも生き埋めにされることを怖がってる人が出てくるのがあるでしょ? あんな感じかな。いつひどいことが起こるかはわからない。そしてそれは、決してよくなったりはしない」
ほとんど独り言でも口にするような調子で、小菅は続けた。
「さあは七夕とか、クリスマスみたいなイベントが大嫌いみたいだった。というか、嫌いとかいうレベルじゃなかった。例え一分一秒でも、そんなことは早く終わってしまえばいいのにっていう感じだったから。あたしはどうせ願いごとなんて信じてなかったから、特にそれがおかしいなんて思ったりはしなかった。でもそのせいで、さあのまわりにはいつも人が少なかった。星の光が、見かけよりずっと遠くにあるみたいに。あの子はあの頃、ピアノばかり弾いていたような気がする」
「…………」
「中学に入ってしばらくすると、さあは変わった。前より明るくなったし、新しい友達もできたみたいだった。秤の片方にだけ積んでた重りが、すっと消えてなくなるみたいに。子供の頃からあの子を見てきたあたしとしては、それは本当に喜ばしいことだったんだけどね――」
小菅はまるで時間の重みでも量るみたいにして、言葉を切った。そして砂時計を引っくりかえすように、話を続ける。
「でもね、二年になった頃、さあはまた変わった。いや……前よりひどくなったわけでも、元に戻ったわけでもない。むしろずっと落ち着いて、よくなってた。人とも普通に接してて。でもあたしには何だか、それが見かけ通りのことじゃないような気がしてた。あの子は、ずっと守ってきた大切なものをすっかり諦めてしまったんじゃないかって、そんな気が。まるで誰かに、魔法でもかけられたみたいに」
小菅はそう言って、話を終えた。時間の重量が、ゆっくり元に戻っていくような感じがした。
「美乃原さんに、何かあったんですか?」
時間がいつも通りに落ち着くのを待ってから、アキは言った。
「わからない。少なくともあたしは、何も気づかなかった。その頃には、高等部にあがっていたし」
力なく首を振る小菅を見ながら、アキはふと美乃原咲夜のことを思い出していた。
あの典雅で落ち着いた身ごなしや、相手のことを常に配慮する態度、奥の深いピアノの響き。それは何かを手離してしまった、諦めのようなものだったのだろうか――
「ごめんね、急にこんな長話なんてしたりして」
急に謝られて、アキは慌ててしまった。
「いえ、そんなことないです。わたしも気になりますから」
「……人なんて時間がくれば変わっていくんだから、こんなのはあたしの愚痴みたいなものかもしれないね。たださあにそのままでいて欲しいっていう、歪んだ願望なのかも」
アキはその言葉に、何も答えられなかった。
「――ところで」
と、小菅はアキの手元にあるバインダーをのぞきながら言った。
「例の〝四つの奇跡〟について、何か進展はあった?」
アキは首を振って、答える。
「全然です。何が起きてるのかさっぱりで」
「でも本当に今年も妙なことが起きてるから、何かあるのかもしれないね」
「音楽とポスターのことについて、部長は何か知りませんか?」
「さあ? あたしは全部、水奈瀬に任せたから」
新聞部部長は無責任に笑った。
「元々の記事を書いたのは部長ですよ」
冗談のつもりで抗議すると、小菅は、「そうか――」とつぶやいて、何故か急に真剣な顔をして立ちあがった。
どうするのかとアキが見ていると、小菅は棚の引き出しから何かを持って来ている。机の上に置かれたのは、部の備品であるフラッシュメモリだった。
「何ですか、これ?」
「その中にちょっと変わった記録が入ってる」
「変わった記録?」
「そう――〝幸福クラブ〟っていう、グループについてのね」
言われて、アキは意味もなくフラッシュメモリを見つめてしまう。もちろん透視能力があったとしても、その中身を知ることなどできはしない。
「何ですか、それ?」
と、アキは当然の質問をする。
「慈善団体というか、非営利組織というか、よくわからない正体不明のグループ。二年くらい前に現れてね、活動してたんだ。今はもう解散してるみたいだけど」
「そのクラブって、何をしてたんですか?」
「人を幸福にする活動、というところからな。学校のサーバーにスペースを作って、校内のパソコンからしか利用できないような掲示板を設置したの。で、何か困りごとや悩みごとのある人間がそのことを書きこむと、事情や経緯を聞いたうえでそれを解決してくれる、というわけだ」
「どこかの印籠を持ったお爺さんみたいですね……」
アキは言葉に困ったように嘆息した。
「実際、それに助けられた生徒も多かったみたい。溺れる者は藁をもすがるけど、これは当世風かもね」
「部長も経験があるんですか?」
「まさか、あたしは星に願いごとを捧げるようなタイプじゃないよ。そんなことするくらいなら、自分で何とかすればいいんだから」
身も蓋もない真理ではある。
「けど、その〝幸福クラブ〟と〝四つの奇跡〟に何か関係があるんですか?」
アキはメモリを指先でいじりながら訊いてみた。
「それはなんとも言えないけど、時期的には重なってるんだよね。クラブが消滅したのは、例の奇跡が起きてからしばらくしてのことだった。裏づけも何もありはしないんだけど、当時から気になってはいたんだ」
少なくとも方針の一つとしてはその線もあり、ということだろう。
「わかりました」
「――それと、もう一つ。こっちはさすがに関連があるとも思えないけど、その頃に起こった事件という点でだけは共通してることだから」
そう言って、小菅は置いてあったバインダーの記事をめくった。
「ほら、ここ。一年前、当時うちに通ってた男子生徒の一人が行方不明になってる。二年三組の出席番号三十一、
記事には少年の身元や情報募集についての報知が載せられ、写真も小さく添えられていた。サイズのせいでよくはわからなかったが、空の切れ端でも身にまとっているような、儚げな雰囲気の少年である。
「部長は、本当はこのことを自分で調べたいと思ってるんじゃないんですか――?」
メモリとバインダーの記事を見ながら、アキは何となく訊いてみた。
「……何度か言ったけど、あたしは願いごとっていうのがあんまり好きじゃないんだ」
「わかります」
アキは素直に同意している。小菅清重というのは、そういうタイプの人間だった。
「でもね、そういうことを差し引いても、何だか釈然としないものが残るんだ。変な言いかたかもしれないけど、あたしはそこに非難みたいなものを感じるんだよね。非難というのが言いすぎなら、泣きじゃくって抗議している子供の姿みたいなものを。どこかの誰かに、この世界がひどく間違った場所だって、主張されてる気がして――」
だから正直なところ、この件には深く関わりたくないんだ、と小菅は言った。
「…………」
この部長の言うことが、アキには何となくわかる気がした。時々、世界というのはそういう場所になってしまう。大切なものは失われ、それが回復することは二度とない。
(世界はどうしようもなく、不完全になってしまう――)
アキはいつかの冬に見た出来事を、そっと手ですくうみたいにして思い出していた。
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