翌日の放課後、アキは写真部の部室を訪ねていた。

 写真部は新聞部と同じ棟の、二階部分に位置している。広さ的には、どの部室もほとんど変わりはない。

 アキは写真部と書かれたプレートの下の、ほかと同じようなドアをノックした。

 ――返事はない。

 三度目にも何の反応もなかったので、そっとドアノブをひねってみた。施錠されていなかったらしく、ドアは簡単に開く。「――失礼します」と言いながら、アキは遠慮がちにドアを開いた。

 誰もいないのかと思ったら、案に相違して中には一人だけ生徒の姿があった。頭に大きなヘッドフォンらしきものを装着していて、それでノックの音が聞こえなかったらしい。部屋の中央には新聞部と同じような長机が置かれ、生徒はその上で何か作業をしているところだった。

「――すみません」

 と、アキはできるだけ抑えた大声で言ってみる。「――すみません!」

 二度目で、その生徒はようやくアキのことに気づいて顔をあげた。

 どことなく、ケージの隅っこにでもいる兎を連想させる少女だった。ほかの仲間が餌をねだりにいっても、一人でもぐもぐと草を食んでいる。たぶんその雰囲気と、小さな体のせいだろう。半分閉じられたような目は眠たそうで、たった今目覚めたばかりのいばら姫、という感じでもあった。

 制服の胸元を飾っているリボンの色から、彼女が中等部の三年生だということがわかる。アキには意外だったが、その少女は先輩ということになるらしい。

「――――」

 ちょっと怪訝そうな様子で、彼女はアキのことを見た。が、すぐに新聞部の腕章に気づいたらしく、何か操作をしてからヘッドフォンを首元に移動させた。コードの類は見られなかったので、プレイヤーと一体になったタイプのようだった。

「すみません、新聞部の者です。ちょっとお聞きしたいことがあって来たんですが」

 と、アキはとりあえずそう言った。

 相手は反応の薄いまま、目だけで先をうながしている。アキは何故だか、電話機の前で音声ガイドに従ってボタンを押している場面が頭に浮かんだ。

「この記事の写真を撮った人を探しているんですけど……」

 言って、アキは例の記事を女子生徒に渡している。

 記事に載せられた写真は、写真部の手で撮られたものだった。とすれば、少なくとも撮影者が現場にいたはずである。現場にいたなら、何か気づいたことがあるかもしれない。

 それがアキの考えた、「わからないことは、人に聞けばいいんだよ」作戦だった。

「…………」

 少女は無言のまま、渡された記事を見つめている。月の裏側で落し物でも拾ったような、そんな感じの無表情さだった。

「これ――」

 と、彼女ははじめて口を開いている。

「撮ったの、私」

 それが癖なのか、彼女は素材の形がはっきりとわかる、野菜をぶつ切りにしたようなしゃべりかたをした。

「……じゃあ、あなたが和佐葵かずさあおいさんですか?」

 ちょっと首を傾げながら、アキは訊いた。写真の撮影者として、記事にはその名前が書かれている。

「そう」

 こくん、と葵はうなずいた。

(……案外、悪い人じゃなさそうだけど)

 アキは多少、苦笑するような気持ちで考えている。とはいえ、少し変わっていようが大きく変わっていようが、別に問題というわけでもない。

「実はわたし、去年の文化祭で起きた〝四つの奇跡〟について調べてるんです。それで、その時の話をちょっと聞かせてもらえたらと思って――」

 と、アキは丁寧に懇請した。

「構わない」

 相変わらずの鉈で割ったような口調である。それから、けど、と葵はつけ加えた。

「今、現像中だから、作業しながらにして欲しい」

 言われて、アキは机の上にある奇妙な箱のようなものを見た。

 横から手を入れる筒袋のようなものがついていて、バラエティ番組なんかによくある、中身のわからないものを触って当てる装置に似ていた。ほかには、薬品らしいボトルがいくつか並んでいる。

「忙しければ、作業が終わってからで構いませんけど……」

 とアキは遠慮した。

「現像だから」

 アキにはよくわからなかったが、大丈夫だ、ということなのだろう。葵にとってはもうそれで説明十分らしく、それ以上は何も言わない。

「――えと、それじゃあ、お聞きしますね」

 葵の隣に座って、アキは質問を開始した。

 そのあいだも、葵はごそごそと作業を続けている。暗箱の中に横から手を突っこんで、中で何かを動かしているようだった。ぐるぐると、何かを巻きつけるような動作をしている。

「まず、どうしてこの写真を撮ったんですか? 撮影したのは、頼まれたからじゃないんですよね」

「興味があったから」

 葵の答えは単純明快すぎて、かえってわかりにくかった。

「新聞部に写真を提供したのは、小菅さんに頼まれたからですか?」

「そう」

 何かを、鋏でちょきんと切る音が聞こえた。

「――記事の写真はどれもよく撮れてますけど、写真には詳しいんですか?」

「子供の頃から撮ってる」

 一段落したらしく、葵は箱から手を出して蓋を開けた。中からステンレス製の、細長い凸型をした容器を取りだす。

「……あの、聞いてもいいですか?」

「何?」

「さっきから、何をしてるんですか?」

「現像」

 その言葉を聞くのは、三度目だった。

「現像って、写真を焼くことじゃないんですか?」

「それはたぶん、引伸ばし」

「引伸ばし?」

「その前にフィルムを処理しないと、引伸ばしはできない」

「……それが、現像?」

 うなずいて、葵はボトルからビーカーに薬品を移し、それをさっき取りだした凸型容器に注ぎこむ。

「フィルムには感光剤として臭化銀が含まれていて、これに光線が当たると分解して銀になる。その銀の量を現像液で増やして、可視化する。放っておくと銀の結晶が増えすぎるから、停止液で反応をストップさせる。それから、定着液でもう必要なくなった感光剤を溶解する。そうしないと、フィルムをプリントすることができない」

 淡々と解説しながら、葵は作業を続けている。時計を見ながら、容器を横に振ったり、縦にひっくり返したりしていた。

「現像って、フィルムを処理することを言うんですか?」

「本当は」

 ふうん、とアキは感心した。結局のところよくはわかっていなかったが、一つ賢くなったような気がする。

 現像処理を進める葵を横目で見ながら、アキは質問に戻った。

「文化祭の時に撮った写真ですけど、何か変なものが写ったりはしなかったですか?」

「変なものが写真に写ることはない」

「いえ、その――普通とは違う、何か気になることとかは」

 質問に、葵はあっさりと首を振っている。

 ふむ、と腕を組んでから、アキは記事の写真をもう一度確認してみた。手で簡単に隠せるくらいの、ごく小さなものである。

「……この時の写真、実物を見せてもらっても構いませんか?」

 とアキは訊いた。紙面のために縮小されたものではなく、できれば大きなもので検証してみたかったのだ。

 葵は作業を中断すると、部屋にあった棚の一つからA4サイズ程度の封筒を取りだした。中の写真を何枚か確認してから、そのうちの数枚をアキの前に並べる。

 それは印画紙にプリントされた、モノクロの写真だった。

「――拝見します」

 と言って、アキはじっくりとその写真を観察させてもらった。

 それは確かに、記事に載せられているのと同じ写真だった。ただし画質はずっと鮮明で、実際的な迫力がある。モノクロなのがかえって、現実感を引き立てているようでもあった。色相のない濃淡だけで、これだけの表現力があるのだ。何か、かすかな声でも聞こえてきそうだった。時間の手触りまで写しとったようなその画面は、現実より現実らしくて、まるでその写真の世界こそ本物であるかのようだった。

 グラウンドにかかった銀色の虹――

 地面いっぱいに転がった、子供の夢から零れ落ちてきたみたいな飴玉――

 古代の壁画めいた階段のペイント――

 手品みたいに現れた小さな象――

 世界はその場所で、ほんの少しだけ変わってしまったようでもある。

 とはいえ――

 アキにはその写真を見ても不審なところは発見できなかった。アキにわかるのはただ、それがとてもシュールな、けれど現実の光景だった、ということだけである。

「撮影中、何か変わったことはありませんでしたか?」

 アキはあらためて、質問してみた。記録に残っていないのなら、記憶のほうを頼りにするしかない。

「さあ」

 容器に注いだ液体を回収し、葵はまた別の液体を容器に流しこむ。その光景は、何かの化学実験をしているようにしか見えなかった。

「何か、ほかの人と違った様子の人とか。ほら、犯人は現場に戻ってくるって、よく言うじゃないですか」

「犯人?」

 容器を振り回しながら、葵は乏しい表情で怪訝な顔をする。

「わたしはそうじゃないかと思ってるんです。これは誰かが周到に計画したことなんじゃないかって」

「…………」

 葵は何も言わなかった。見かたによっては、軽く肩をすくめたような気配がないでもない。

 そう都合よくはいかないものだな、とアキは心の中で嘆息した。人に聞けばわかるような、そんな簡単なことではないのかもしれない。アキは質問を終わりにして、帰ろうとした。

 けれど――

 その時ふと、アキは部屋に吊るしてあった写真に気づいている。洗濯物の要領で、五枚の写真が天井近くにかけられていた。何故だかアキには、それが和佐葵の撮ったものだという予感がしている。さっき見た写真と、同じような声が聞こえたからかもしれない。

「あれって、葵さんが撮ったものですよね?」

 アキは立ちあがって、その写真のほうへと近づいた。

 写真はどれもモノクロで、風景写真のようになっていた。校内のどこかを撮影したもののようだが、人は写っていない。どちらかというとそこには、本当はそこにいた人間が、金属から錆が落ちるように画面から剥離してしまった、という印象があった。

 そのうちの一枚には、ピアノが写っている。背景から見て音楽室ではなく、旧校舎の一室のようだった。ついさっきまで演奏が行われていたような雰囲気の中で、漆黒のピアノは静かに沈黙している。

「どれもうちの学校みたいですね」

 と、アキは訊いた。

「そう」

「写真部の部室もありますね」

 目の前の景色と同じだから、それだけはすぐにわかる。

「……それはどれも、失敗作」

 葵に言われて、アキはあらためてその写真に目をやった。

「どうしてですか? よく撮れてると思いますけど」

「何度プリントしても、思ったように仕上がらない」

 まるで、昔見た古い夢を思い出せないような、そんな口調で葵は言った。

「――私には、それが少し悲しい」


 アキは部屋を出ると、ドアを閉めた。

 結局、ここまで来てわかったのは、〝四つの奇跡〟が現実だったということと、おかしなことは何もなかった、ということだけだった。もちろんこんな情報では、何の役にも立ちはしない。

 アキは軽く、ため息をついてしまった。出だしからこんな具合では、先が思いやられる。大人しく諦めろ、ということなのだろうか。

(……でも、何かあるはず)

 アキにはどうしても、それがただの偶然だとは思えなかった。そんなことが、簡単に起こるはずはない。きっと、そこには何かがあるはずだった。ずっと昔にあったのと、同じような何かが――

 そんなことを考えながらアキが歩きだそうとした、その時だった。

 不意に、音楽が聞こえてきたのは。

 それはとても、小さな音だった。顕微鏡でも見るように耳を澄まさなければわからないくらいの、かすかな音の響き――

「……?」

 アキはきょろきょろとあたりを見まわすが、音源らしきものはどこにも確認できなかった。注意して聞いてみると、どうやらその音は校内放送用のスピーカーから聞こえてくるらしい。

 そのあいだにも、曲は進んでいる。

 夜のはじまりを思わせる導入部から、月の出を告げるような金管が鳴り響く。やがてヴァイオリンの弦が暗闇の気配を濃くしていき――

 そして、音楽が爆発した。

 妖精が踊りまわるような、騒々しい調子だった。賑やかな歌声や、陽気なステップ、月の光をきらめかせた透明な羽。ひどく祝祭的な音楽だった。

「これって……」

 アキは思わず、つぶやいている。

 聞き覚えのある曲だったが、名前までは思い出せなかった。クラシックの、何かの演劇につけられた曲のはずだった。

「――『真夏の夜の夢』」

 隣で、いきなり声がする。

 見ると、いつのまにか和佐葵がそこに立っていた。彼女も音楽が聞こえて、気になって出てきたのだろう。

「確か、メンデルスゾーンですよね」

 うろ覚えの記憶を引っぱりだして、アキは訊く。

「うん」

 葵は軽く、うなずいてみせた。

 校内スピーカーから放送されているなら、この音楽は全校舎に流されているのかもしれない。とすると、放送機器の点検か、文化祭に向けた準備の一環なのだろう。少なくともアキとしては、そう考えておくしかない。

 ――もちろん、アキにはわかるはずもなかった。

 それがまさしく、奇跡のはじまりを告げる曲なのだということが。使の手によって、もう一度〝四つの奇跡〟が再現されようとしているのだということが。

 今はまだ、彼女にわかるはずもなかった――

「――――」

 そうしているとアキは不意に、隣で和佐葵が泣いていることに気づいている。

「どうしたんですか……?」

 驚いて、アキは思わず葵の顔をのぞきこんでしまう。

 けれど彼女はまるで、車のワイパーが無造作に雨をはじくような具合にそれを拭うだけだった。

「何で、私は泣いてる?」

 不思議そうに、葵は言う。

「いや、わたしに聞かれても……」

 わかるはずなんてない、とアキは言うしかなかった。本当に、わかるはずなんてない。

 メンデルスゾーンが十七歳の時に作曲したという序曲は、そのあいだも鳴り続いていた。

 まるで世界そのものを、祝福するかのように――



「……俺たちのことを調べてるのがいるな」

 と、少年の一人が言った。

 そこは旧校舎の、ピアノが置かれた部屋である。

 五人の人間が、そこにはいた。少年が二人、少女が三人――

 新校舎完成後も、歴史的価値が高いということで残された旧校舎は、主に物置や特別授業の際に利用されていた。あまり人の出入りはなく、他人に気づかれないように会合をするには都合のいい場所だった。

「私も、そう思う」

 鉈でぶつ切りにされたような言葉で、少女の一人が答える。

「気づいているのかな、私たちのことに?」

 眼鏡をかけた少女が、心配そうに表情を曇らせた。

「――いや、そんな感じじゃないな」

 最初の少年が、すぐに否定する。その颯爽とした口ぶりには、妙な説得力があった。

「具体的に名指しできるほどにはわかってない、というところだろう」

「去年、少々派手にやりすぎたんでしょうね」

 ピアノに腰かけていた少女が、ぽつりと口にする。春の霞のようにふわりとした、長い黒髪をしていた。「あれで目をつけられたんじゃないかしら?」

「今年は大人しめにやれ、と。けど、んだぜ」

 少年は面倒そうに肩をすくめてみせた。

「……たぶん、大丈夫だよ」

 窓際にいたもう一人の少年が、穏やかに発言した。風がかすかに、その髪を揺らす。それだけでふっと消えてしまいそうな、そんな儚げな少年だった。

「今年も、去年と同じでいいと思う」

「でも、本当に?」

 眼鏡の少女が不安そうに訊く。

「――うん、きっとね」

 少年のそれだけの言葉で、ほかの四人はもう納得してしまったようだった。そういう暗黙の了解のようなものが、この五人には存在しているらしい。

「でも、こんなことして、何になる?」

 小柄な少女が、無機質そうな声で質問した。別に反論しているわけではないのだが、口調からそれを読みとるのは難しかった。

 窓際の少年は不愉快そうな様子もなく、答えた。少女とは長いつきあいがある。

「もちろん、何かにはなるよ」

 そう言って、少年は少しだけ笑った。

 もう一人の少年が、呆れたように首を振った。

「……お前って、時々すごく過激な発言するよな」

 その言葉に少年は何も答えず、ただ静かに微笑ってみせただけだった。

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