5
次の日も、やはり放課後に音楽が聞こえた。今までと同じ、『真夏の夜の夢』。たぶん放送室では、部長である末島尚吾が苦虫をかみつぶしたような顔をしているのだろう。
アキは何度もその音源を特定しようとしてみたが、うまくはいかなかった。どう聞いても、校内スピーカーから放送されているようにしか思えないのだ。別の音源が存在しているとは考えにくかった。
とはいえ生徒たちのほうでは、もうすっかりその曲に慣れてしまっている様子だった。アキが廊下を歩いている今も、音楽のことを気にする生徒はどこにもいない。軽く口笛をあわせている生徒もいた。
(……でも、問題はどうしてそんなことが起きているのか、なんだけど)
そんなことを思いながら、アキは大廊下に向かっている。もちろん、例のポスターを調査するためだった。
登校時をはじめとして休憩時間ごとに調べたところでは、絵の位置は変わっていない。絵が動くとしたら、それは放課後なのかもしれなかった。犯人(がいるとすれば)は、授業終了後に何らかの細工を行っているのだろう。
そうしてアキが渡り廊下に到着してみると、そこにはすでに誰かがいて、問題のポスターをのぞきこんでいた。少し待とうかと思って立ちどまったとき、アキはふと、それが葛村貴史だということに気づいている。
葛村は、今日は弓道衣を着ていない。一人で、あたりには誰もいなかった。この少年は熱心というよりは、どこかぼんやりした表情でそれを眺めていた。水底に沈んだ、透明なガラス玉でも探すような具合に。
ちょっと迷ってから、アキは結局声をかけてみることにした。もしかしたら、二つめの奇跡について何か知っているのかもしれない。
「――こんにちは、葛村先輩」
と、アキは呼びかける。
葛村は驚くでもなく、ゆっくりと顔を向けた。そしてアキのことを視認すると、「ああ」という表情を浮かべる。誰だか気づいたのだろう。
「水奈瀬さん、だっけ。鹿野と同じクラスの」
「はい――先輩はそんなところで、何をしてるんですか?」
アキはポスターのほうに視線を移して訊いた。見たところ、絵が動いたかどうかは判別できない。
「いや、この絵が動いているとかいう噂を聞いてな」
相変わらずのさっぱりとした態度で、葛村は言った。やましいところがあるようには見えない。
「それを確認しに?」
「なんだけど、こうやって見ても元の絵を知らないからな……」
苦笑しながら、葛村は前回のアキと同じことを言った。
「水奈瀬も、同じことを調べに来たのか?」
「はい」
「でも今日は腕章はしてないんだな。取材じゃないのか」
「ポスターのことは、もう昨日調べてあるんです」
「仕事が早いんだな……で、今日はその代わりに何を持ってるんだ?」
アキが肩に担いでいるものを指さして、葛村は訊いた。
「これはヴァイオリンです。文化祭で伴奏を頼まれて、これから練習なんです」
「なるほど」
そうしてあらためて、葛村はポスターを見つめた。
「けど、妙なものだな。本当に去年と同じようなことが起きるだなんて」
アキは葛村の表情をそっとうかがいながら、訊いてみた。
「――犯人がいるとしたら、同じ人物と動機によるものだと思いますか?」
「どうかな」
葛村は特に動揺することもなく言っている。
「あの時、葛村先輩は言いましたよね。これは魔法なのかもしれない、って」
「言ったな、確か」
「あれは、どういう意味だったんですか?」
訊かれて、葛村は困ったような表情をする。
「たいした意味はない、ってのはあの時も言ったよな。まあ同じだよ。ただの思いつきだ」
「でもどうして魔法なんです? ほかにいくらでも言いようはあったはずなのに……」
葛村は腕を組んで、黙って考えこんだ。
「そうだな、俺もちょっと不思議に思ってるよ。どうしてあの時、急に魔法だなんて言いだしたのか。でもどうしてだか、それが心に浮かんだんだ。トランプのカードをめくって確かめるみたいに、不意に」
まるで他人の記憶でも語るような調子で、葛村は言った。
「…………」
アキには葛村貴史が何かをごまかしているようには見えなかった。彼は本当に、自分でもどうしてそんなことを言ったのか、わからないのだろう。
それでもアキには、この先輩が何かを知っているのは確かなように思えた。葛村貴史だけでなく、今までに話を聞いたうちの何人かも。でもそれが何なのかは、誰も教えてはくれない。
(いったい、何が起きているんだろう)
と、アキは考えてみる。
あるいは――
何が起きたのだろう、と。
葛村が行ってしまうと、アキはメジャーを取りだしてポスターの絵を調べてみた。計測してみると、二人のあいだは確かに数センチだけ縮まっているようだった。このままのペースでいけば、文化祭当日にはちょうどその距離はゼロになるだろう。例え悲劇に終わるとしても、その瞬間だけは二人とも幸福でいられるはずだった。
アキはどうにも思案のまとまらない顔で、小さくため息をついた。
中等部三年の美乃原
「――ちょっと頼まれたことがあるんだけど」
と、新聞部の部長である小菅清重に声をかけられたのは、先週末のことだった。ちょうど放課後に音楽が鳴りはじめた、二日目のことである。
小菅と美乃原は家が近所で、学年は違うが古くからの知りあいだという。文化祭でピアノ演奏をすることになっていた美乃原咲夜は、小菅を通してアキに伴奏を依頼した、ということだった。
子供の頃から習っているとはいえ、アキはヴァイオリンの腕前にそれほどの自信があるわけではない。少なくとも、コンクールに出場するほどの十分な練習は積んでいない。
けれどこんな機会は滅多にないのだから、見過ごしてしまう手はなかった。ある意味では単純に、アキはそう思っている。それに曲目は比較的簡単なものだった。
アキは指定されたとおりに、第二音楽室に向かっている。本番前の顔あわせと、演奏の打ちあわせのためだった。
音楽室に近づくと、ピアノの音が小さく聞こえている。特別棟のこのあたりに人はほとんどいなくて、廊下は眠ったようにしんとしていた。
演奏されているのはおそらく、ショパンのエチュードのようだった。複雑な、けれどどこまでも優雅で気品にあふれた旋律である。誰もいない廊下に響くその音は、まるで古い鉱石の結晶みたいに聞こえた。世界のはじまりからずっと、そうだったというように。その音はきっと、どうやっても壊すことはできない。
音楽室に着くと扉は開いていて、中をのぞくことができた。室内に人影はなくて、ピアノの前に一人だけ誰かが座っていた。
たぶん彼女が、美乃原咲夜なのだろう。
「――――」
アキはできるだけ邪魔にならないようにそっと、部屋の中に入った。ピアノの音はまだしばらく続いて、やがて雨あがりの虹みたいにふっと消えてしまう。鍵盤から重さのない動きで指を離すと、彼女はアキのことを見た。
美乃原咲夜は上品なたたずまいをした、大人びた雰囲気の少女だった。セミロング程度の、ふわっとした黒い髪をしている。手折ったばかりの花みたいな口元に、絹で織ったような繊細な顎の線をしていた。星の光をたくさん集めてきれいな箱に入れたらそうなるかもしれない、という感じの少女だった。
彼女は窓ガラスでほんの少し光が屈折するように首を傾げ、微笑しながら言った。
「水奈瀬陽さん、よね?」
その声は、さっき消えていった音の続きみたいにも聞こえる。
「あ――はい、そうです」
アキは何だかぼんやりして、返事が遅れてしまう。耳を澄ますと、まだどこかでピアノの音が鳴っているような気がした。
「私が美乃原咲夜です。よろしくね、水奈瀬さん――」
そんなアキには構わず笑顔でそう言うと、咲夜は手を差しだした。自然な動作で、アキはつい誘われるようにその手を握る。何だかそれは、手の平で蝶を摑んでしまったような感触だった。
(まるで、ピアノの音がそのまま指になってるみたいだな……)
と、アキはそんなことを思っている。
「――急にこんなことを頼んだりして、ごめんなさい。迷惑じゃなかったかしら?」
手を離すと、咲夜は礼儀正しく質問した。
「いえ、そんなことないです」
アキはまるで、こちらが弁解するように慌てて言った。
「わたしなんかでお役に立てるのかな、とは思いますけど……」
「大丈夫よ、それは」
咲夜はふっと、目だけで笑ってみせた。
「あなたは何となく、私に似ている気がするから」
「……似てる?」
とてもそんなふうには、アキには思えなかった。彼女ほど演奏も上手くなければ、美人でもない。
アキの考えていることが何となくわかったのだろう、咲夜は軽く微笑んでみせた。
「普通の意味で似ているというわけじゃなくて、何ていうか……気持ちとか、見ているものとか……そういうものが、かな。それにヴァイオリンの演奏が気に入ったと、いうのもあるし。よく晴れた日の空みたいな、いい弾きかただった」
誉められると、アキは何となく赤くなってしまう。何しろ、あの演奏を聞かされたあとなのだから。それにアキにはやはり、自分に彼女との共通点があるようには思えなかった。
一通りの自己紹介がすんでしまうと、二人でちょっと演奏をしてみよう、ということになった。アキは持ってきたヴァイオリンの蓋を開けて、準備をする。標準より小型の、子供用のものだったが、こちらのほうが使い慣れていた。最近では、少し体にあわなくなりはじめてはいたけれど。
「曲は、何を――?」
楽器を肩のところに当て、アキはそう訊いた。
「じゃあ、バッハのメヌエットを」
「……バッハの?」
「本当は違う人のものだったって言われてるけど」
咲夜はそう言って、その旋律を軽くピアノで弾いてみせた。
それは、手の平で丸い毬を転がすような曲だった。フランス舞曲と呼ばれる、小節ごとに強い音を重ねていく形式。聞いていると、空気に軽く色が着いてしまいそうだった。
「メヌエットでいいんですか?」
曲としては、ごくごく簡単なものだ。
「パガニーニがよければ、それでも構わないけど」
「……バッハでお願いします」
ヴィルトゥオーソなんて、言葉だけ知っていれば十分だった。
「一応、スコアも用意してあるけど、いるかしら?」
おそらく音楽室の備品だろう。咲夜はピアノの上に置いてあったヴァイオリン用の楽譜を手に取った。
「大丈夫です」
軽く弦の具合を確かめながら、アキは答える。
「――覚えてる?」
「忘れてるところは、適当にごまかして弾きますから」
その言葉に、咲夜はちょっと間をとってから、笑って言った。
「大変、よろしい――」
それから鍵盤に指を乗せると、咲夜はアキに向かって声をかける。
「……それじゃあ、水奈瀬さんが好きなように弾いてみて。私はそれにあわせるから」
アキはちょっとうかがうように、咲夜のほうを見た。
「いいんですか、それで? メインはピアノのほうなんじゃ……」
「水奈瀬さんが私にあわせてくれる?」
いたずらっぽく、咲夜は言った。
「……あわせてもらうほうがいいです」
「じゃあそういうことで、やってみようか」
「…………」
――アキは一呼吸置いてから、弦に弓を置いた。
それから空中に浮いた風船に手をのばすみたいにして、最初の一音を奏でる。左手を動かして、次の音を弓で引きだす。曲が流れはじめると、体は覚えたとおりの滑らかな動きで演奏を続けた。
ヴァイオリンの音に、いつのまにかピアノが加わる。籠の中から零れ落ちてしまったものをそっと拾いあげていくような、そんな感じだった。あわせてくれているというより、部屋に明かりをつけてあたりを見えやすくしている、というふうでもある。
(何だか、すごい――)
もちろんアキは、レッスンでピアノの伴奏をしてもらうことはあったが、それとはまるで違う種類の経験だった。音を直したり良くしたりするのではなくて、自分の出す音が一つ増えたという感じである。
――それは世界が少しだけ、組み変わってしまうことに似ていた。
短い演奏が終わると、二人とも顔を見あわせて笑った。申しぶんのない合奏だった。咲夜の言うとおり、不思議と相性は悪くないらしい。
二人はついでに本番の曲も何度かあわせてみたが、細かいところをのぞけば何の問題もないようだった。
「これなら、あとは練習しなくても大丈夫そうね」
咲夜がごく気軽な口調で言って、演奏は終了した。
そのあと、アキはヴァイオリンを楽器ケースにしまいながら、
「――あ、そうだ。先輩は〝四つの奇跡〟って、知ってますか?」
と、何気ない調子で訊いてみた。機会があるごとに、アキは同じ質問をすべての人間に繰り返している。
「……去年の文化祭のことね」
「そうです、何か知りませんか?」
咲夜はぽん、と鍵盤の一つを叩く。
「さあ、どれも噂みたいなものだし」
「でも校内新聞にも残ってますし、今年も同じようなことが起きてますよ」
「…………」
それには答えず、咲夜は不意に別のことを訊いた。
「もしも願いが叶うとしたら、水奈瀬さんは何をお願いしたいかしら?」
「願い、ですか?」
急に話題が変わって、アキはきょとんとした。
「――そう、あまり大げさなやつじゃなくて、ちょっとしたこと。明日は天気にして欲しいとか、誰かと話をするのにちょっとしたきっかけが欲しいとか」
「ずいぶんささやかなんですね」
「本来はね」
彼女は少し奇妙な言いかたをした。
「一つだけですか?」
「本当はいくつでもいいんだけど、そうね、今は一つだけにしておこうかしら――それから、このことは神坂先生には内緒で」
「……?」
どうしてここで、神坂柊一郎の名前が出てくるのだろう。
けれど冗談めいた笑顔を受かべるこの少女にそれを訊いても、まともには答えてくれそうになかった。
「…………」
とりあえず、アキは考えてみた。できるだけ真剣に。彼女が何を考えているのかはわからなかったが、ただの気まぐれでこんな質問をしているわけではないのだろう。
「わたしは――」
だからアキは、ずっと心に思っていたその願いを口にしてみた。
けれどその言葉を口にしても、アキは本当に自分がそのことを望んでいるのかどうか、自信が持てなかった。それは本当にささやかな願いではあったけれど、たぶん叶うことはないだろう。
「――なるほど」
咲夜はそんなアキのことを知ってか知らずか、一人で納得したようにつぶやいている。
「やっぱり、あなたは私に似ている」
「……先輩は」
と、アキは何故か自分だけがそれを言わされたことが不公平な気がして、逆に質問した。
「先輩は、どうなんですか? もしも願いが叶うとしたら」
「私だったら、か」
美乃原咲夜は、冷たく澄んだ泉にでも手をひたすようにして言った。
「――私の願いは、もう夢の中に消えてしまったから」
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