〝それにしても、僕は今までに恋をしたなんて言えるだろうか? いや、違う。本当の美しさを見るのは今夜が初めてなのだから〟


 舞台上で、ロミオ役の男子生徒が胸の思いを語っていた。

 場面はちょうど、キュピレット家の広間で舞踏会が開かれているところである。ロミオはここで初めてジュリエットの姿を見て、〝宿命的〟な恋に落ちる。約束された悲劇へ向かうための恋だった。

 アキは舞台袖から、その光景を眺めていた。演劇部の生徒たちはみな堂々とした演技で、練習の成果を遺憾なく発揮している。夢の中の出来事を、そのまま外科手術でもして取りだして来たみたいにも思えた。

 やがて二人は例のポスターのように、庭園のテラスで手をあわせることになる。劇中で、もっともよく知られているであろう場面の一つだった。

「――そんなところで何をしている?」

 と声をかけられたのは、その時だった。

 アキが振りむくと、そこには神坂柊一郎が立っている。舞台袖には必要最低限の照明しかなかったが、それでもそれくらいはすぐにわかった。

「舞台を見てるんですよ」

 アキはむしろ、ほかに何をしているように見えるのかと質問しているような言いかたをした。

「ここが観客席になったなんて話を、俺は聞いてないんだがな」

 神坂は負けず劣らずのシニカルな口調で言った。二人はもちろん、舞台進行に支障のないようにごく小さな声でしゃべっている。

「次が出番なものですから――」

 と、アキは悪びれもせずに答えた。

「せっかくだから、ここで見てようかと思って」

「大人しく控え室で待機していろ」

 神坂は迷惑そうな顔をした。責任者としては、当然ではあったが。

「だって、それじゃあ劇が見れないじゃないですか」

 さも当然のことのように、アキは言っている。

 軽く脱力したように、神坂はふっと息をはいた。これ以上議論しても仕方がない、と思ったのだろう。それに、この場所にいたところで舞台進行に特別の問題があるというわけでもない。

「先生こそ、どうしてここにいるんですか?」

「……俺がここにいないほうが、不自然だという発想はないのか?」


〝でも、名前がどうだというのだろう? 私たちが薔薇と呼んでいるあの花のことを、例え別の名前で呼んだとしても、その香りに違いはないはずなのに〟


 そうしているあいだにも場面は変わって、〝ああ、あなたは何故ロミオなの……?〟という有名な独白シーンに変わっていた。ロミオが蔦を伝ってテラスに現れる、見せ場の一つである。

「よく知られたセリフだが」

 と、神坂は独り言のようにして言った。

「別の人間に言わせると、〝バラがアザミとかキャベツなんて名前だったら、とても同じように香るとは思えない〟ということになるがな」

「……一理ありますね」

 アキはしばし黙考したのち、同意した。

 舞台では、生徒たちがかなりの長広舌をよどみなく口にしていた。相当の練習量を感じさせる演技である。

「そういえば、美乃原から伝言を頼まれている」

 と、神坂は不意に言った。

「……伝言ですか?」

「ああ、少し遅刻すると言っていた。ぎりぎりまで姿を見せなくても心配するな、ということだ」

 アキはちょっと首を傾げている。

「どうして先生が、そんなことを頼まれるんですか?」

「俺のほかに誰がいる? プログラムの順番からいえば、当然のことだろう」

「……それもそうですね」

 いつかと同じように何か釈然としないものを覚えたが、アキは黙っていた。

 場面はまた変わって、僧院で二人が結婚の誓いを交わすところだった。いつぞやアキが練習中にのぞいた場面である。〝この神聖なる結婚に神の祝福のあらんことを。そして後日にいたり、悲しみを下して我らを責められることなきよう!〟

 ここからは、月が欠けるようにして悲劇的な展開がはじまることになる。

「――そういえば、いつか宮藤晴という少年のことについて訊いたな」

 と、神坂は何の前触れもなくいきなり言った。

「?」

 アキが見ると、この数学教師はまっすぐ舞台のほうを見つめている。

「訊きましたけど、それが何か?」

「何故、そんなことを訊いたのかと思ってな」

「……深い意味はないです」

 と、アキはごまかした。

「それより、先生こそどうして急にそんなことを訊くんですか?」

 神坂は訊かれても、視線を動かそうとはしない。ただ、その口元はほんの少しだけおかしそうに笑っていた。

「――喜劇である『夏の夜の夢』が最後にどうなるか、知っているか?」

 何故か、神坂は急にそんな話しをした。

「ちょっとした手違いで行き場を失った四人の男女の恋路は、結局は同じ妖精の働きによってハッピーエンドに終わる。すべては夏の夜の夢のごとし、というわけだ」

「…………」

「そのための機械神デウス・エクス・マキナとしての役割を担うのが、妖精王のオベロンだ」

 神坂はそこではじめて、アキのほうを見た。

「――さて、この文化祭にオベロンはいるかな?」

 舞台上では、四百年以上も続く少年と少女の悲劇が、今日もまた繰り返されていた。


 演劇が終わって休憩時間になったとき、美乃原咲夜はようやく姿を見せていた。

 厚い緞帳の下りた舞台には、すでにピアノが用意されている。悲劇は塵一つ残さずに片づけられてしまって、今は照明があたりを明るくしていた。見えない客席からは、不規則な雨音みたいにざわめきが聞こえている。

 咲夜はピアノの前に座って、調子を試すように軽く鍵を叩いていた。まるで、母親が子供を寝かしつけるような具合に――

「……間にあわないかと思って、かなり不安でしたよ」

 と、そんな彼女の様子を眺めながら、アキは言った。

「大丈夫だって言ったでしょ?」

 意に介したふうもなく、咲夜は答える。

「でも、万が一ってことはありますから――」

「その時は水奈瀬さんのソロコンサートを開けばいいだけだから、問題ないわね」

 もちろん、大問題だった。

 やがて時間が来て、開演を告げるブザーが響く。緞帳が音もなくあがって、暗い観客席が出現した。舞台上では、ピアノだけが光の下で大人しく待機している。

 アキが舞台袖からそっとのぞくと、客席にはかなりの人数がいるようだった。そういう気配の密度のようなものが、伝わってくる。舞台の側から見ると、その場所は夜の海みたいに不気味な感じがした。

「――それじゃあ、行ってくるから」

 咲夜は言って、舞台の中央へと向かった。彼女の様子はその辺の草むらにちょっと花でも摘みに出かける、といった風情で、あまり緊張しているようには見えない。

 実際、咲夜はピアノの前に座ると、ひどく落ち着いた感じで上演を開始した。

 まずマイクを使って自己紹介をすませると、これから演奏する曲についての短い解説を行う。ピアノだけでなく、司会進行までこなしている格好だった。たいしたものだというしかない。

 やがて鍵盤の上に指を置いて、美乃原咲夜は演奏をはじめる。それは聴衆の耳を自然とひきつけるような、特別な音色を持っていた。正しくカットされた宝石が、普通よりもずっと強い輝きを放つみたいに――

 演奏する曲目は、ブラームスの『愛の夢』やリストの『愛のワルツ』などだった。大部の編成曲はなく、どれも小品で、聴いていると気の利いたプレゼントでも贈られたような気分になる。足を運んで聴くだけの価値はあった。

 アキは最後の曲になってから、ヴァイオリンを持って舞台に登場する。

 立ち位置の関係上、アキがピアノの前に出て客席の正面に立たなくてはならない。暗闇の中に沈む観客席は、ピノキオが飲みこまれた巨大な鯨の口蓋でも見るようで、ひどく心もとない感じがした。アキは急に、心臓の音が気になりはじめている。

『この曲は、特別にヴァイオリンの伴奏をお願いしました……』

 と、咲夜がマイクを使って説明をはじめる。アキのことを紹介し、曲の解説を加えた。それが終わってしまえば、アキは演奏をはじめなければならない。

(今さら、やめるなんてできないよね――)

 さすがに、アキは緊張した。ある程度は想像していたとはいえ、こんな役引き受けなければよかったのに、と思ってしまう。どこかにつかまっていないと、目が回ってしまいそうだった。服の襟やスカートの襞が、やけに気になる。お昼を食べたのはいつ頃だったっけ――

 けれど時計の針はきちんと動いていて、咲夜は口上を終えてマイクを置く。そうして、アキに向かって目で合図をした。

「――――」

 それまでの緊張も、余計な思考も捨てて、アキは集中する。自分でも驚くくらいの落ち着いた動作で、ヴァイオリンを肩に当てた。震えは消えて、音のイメージだけが頭に広がる。

 アキはこくりと、うなずいた。

 そして最初の一音が、ゆるやかに空気を震わせる。弦の振動が、柔らかに音楽を紡いでいった。

 エドワード・エルガーの『愛の挨拶』――

 それは威風堂々で知られる作曲家が、婚約の際に妻に贈った一曲だった。たおやかな、花の蕾を両手でそっと包んだような旋律。眠りの中で幸福な夢を見るような、それは静かで穏やかな音楽だった。

 アキは思い出の品を大切に扱うような気持ちで、弓を弾き、弦を押さえた。できるだけ世界を、優しく、柔らかくするように――

 短い演奏が終わると、講堂には温かな拍手が響いていた。アキはその時になってようやく、曲が終わったことに気づいたみたいにして咲夜のほうを見る。彼女はあらためてそれを告げるように、うなずいてやった。夜が明けたばかりの太陽に似た笑顔を浮かべて。

 二人がお辞儀をして舞台袖に下がったあとも、客席からの拍手はしばらく鳴り続けていた。



 舞台袖に戻ってくると、アキは大きく深呼吸をした。体の中にあった重い塊が、音もなく解けていくような気がした。

「――お疲れさま」

 と、咲夜が声をかける。アキは何とか笑ってみせた。

「いい演奏だった。やっぱり、一人で弾くのとは違うものね。お客さんの反応もよかったし」

 咲夜は満足そうな表情を浮かべる。

「だといいんですけど……」

 アキには聴衆の反応を確かめる余裕などなかったし、あの拍手のほとんどは咲夜に向けられたものだろうと思っている。

「とにかく、ありがとう。無理なお願いを聞いてもらって」

 咲夜は労うように笑顔を浮かべた。

「…………」

 ちょっと黙ってから、アキは言った。

「わたしも、一つお願いをしてもいいですか?」

「何?」

「このあと、先輩と旧校舎で話がしたいんです」

「――どうしてかしら?」

 美乃原咲夜の問いに対して、アキは再び深呼吸をしてから答えた。

「もう終わってしまった物語を、

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