7
アキが一人でグラウンドを通って旧校舎へ向かうと、まるで水底にでも沈むみたいに物音が小さくなっていった。歩いていると、少しずつ世界から切り離されていくようにも思える。
旧校舎の中に入ってみると、そこは相変わらずしんとしていた。人影はなく、文化祭の賑わいも遠い。何だかそれは、たった一つの物語だけを抱えて、扉を閉じてしまった世界に似ていた。
アキはできるだけその物語を壊さないように、ゆっくりと階段を昇った。その物語は、一年も前にもうすっかり終わってしまっていたのだけれど。
三階の廊下を歩いているところで、アキはふと足をとめた。グラウンドに大勢の人が集まって、空を見あげている。
そこからは、大きな熱気球が降りてことようとしていた。
時々、ゴンドラのところで火力を調整しているのが見える。タンポポの綿毛か何かみたいに、その気球はゆっくりと地面に向かっていた。浮力を得るための球体部分には、星座をデザインしたイラストが描かれている。
――星が、降ってきたのだ。
アキは葛村貴史と初めて会ったときのことを思い出す。確か、彼がそんなことを言っていたはずだった。気球はおそらく、風向きの都合か何かでグラウンドに避難してきたのだろう。でもそんな理由はともかく、これは彼の〝願い〟だった。
夢が覚めるみたいに気球が地面に触れるのを確認して、アキは廊下の先へと進んだ。そこには「音楽室」と書かれた、古いピアノの置かれた部屋がある。
扉は開いていた。美乃原咲夜は、すでにそこにいるのだろう。
「…………」
アキが入口のところに立つと、中では咲夜がノートを手に持って眺めていた。もちろんそれは、例のノートだ。杜野透彦が書き残していった日記。
「今、四つめの奇跡が起こりました」
とアキは伝えた。
「……そう」
時計の針でもあわせるように、咲夜はゆっくりと顔をあげた。
「そのノートが何なのか、先輩にはわかりますよね?」
「いいえ」
と、咲夜は首を振った。
「私はこんなもののことなんて知らないし、ここに書かれていることについても知らない」
アキは窓際まで歩いていった。かつてクラブのメンバーだった五人が、よくそうして集まっていた場所に。
「そのノートには、すべてが書かれていたわけじゃありません」
アキはその場所で、まっすぐ咲夜のほうに体を向けた。咲夜はノートを持ったまま、ピアノのそばに立っている。
「ノートを読んでわたしにわかったのは、杜野透彦がどんなふうに世界を眺めていたのか、ということだけです。そこにはただ、日常としての毎日が書かれていました。魔法なんて登場しません。本当はそんなものは必要ないって、杜野さんにはわかっていたのかもしれません」
「…………」
「杜野さんがどうしてそれを願い、それを叶えてしまったのか、本当のところはわたしにもわかりません。ただその願いや、思いに、ほんの少しだけ見覚えがあるような気がするだけです。行ったことも触れたこともない遠くの月を、それでも眺めているみたいに」
咲夜はため息でもつくように首を振った。
「さっきから何を言っているのかしら、あなたは?」
「――これがもう終わってしまった物語だということはわかっています」
アキはまるで気にしたふうもなく、続けた。
「それでもわたしには、そのままにしておけないんです。きっと、何とかする方法があるはずだから……」
それでもやはり、咲夜は首を振るだけだった。
「何を言っているのか、わからないわね」
「いいえ、先輩は知っているはずです」
「…………」
「美乃原先輩――」
と、アキは星の光をそっとつかむようにして言った。
「あなただったんですよね、魔法使いは」
「…………」
美乃原咲夜はどういう反応もなく、ただ黙っていた。アキもじっと、口を開こうとはしない。時間の動く音が聞こえてきそうだった。
「――何の話かしら、それ?」
やがて咲夜が、あくまで見当もつかないといった様子で言う。
「魔法使い? いったい何のことかしら?」
「人が言葉を覚えて、忘れてしまった力。かつての完全世界にあったもの――それが、魔法です」
いつか教えてもらったことを、アキは口にした。
「本気で言ってるの?」
咲夜は憐れむような目つきをする。あるいはそれは、自分に向けられたものなのかもしれかったけれど。
「――そうです」
アキは迷うこともなく、うなずいた。
「私が魔法使い?」
「はい」
「箒に乗って空を飛んだり、嫌いな人間をカエルに変えたりするのかしら」
「もしかしたら、できるかもしれません」
「……面白いわね」
咲夜は口に手を当てて、典雅な感じに笑った。
「いったいどういう理由で、私が魔法使いだなんて言うのかしら?」
アキはここに来るまでのあいだに考えておいたとおりに、話しはじめた。
「――まず、先輩は神坂先生と知りあいですよね?」
「同じ学校の生徒と先生だもの。そうだとしても、別におかしなことはないと思うけど。あの先生は三年の担当でもあるしね」
「知りあいといっても、もっと個人的なものです」
「…………」
「さっきの演奏会、先輩はどうして神坂先生に伝言を頼んだんですか?」
「ほかに誰に頼めばいいのかしら?」
「誰でもよかったはずです」
アキは即座に否定した。
「――前に、先生はこんなことを言ってました。演劇部の部員には『俺がいなくても大丈夫なように指導してある』って。もしかしたら先生は、舞台袖にいるつもりはなかったんじゃないでしょうか。観客席で、劇の出来ばえを確かめるつもりだったのかも」
「頼めば、伝言くらいのことはしてくれるでしょう?」
「かもしれません。でももう一度言うと、それは誰でもよかったはずです。先生である必要はありません」
咲夜は少し黙った。
「それと少し前、わたしが図書室で調べものをしていると先生が話に来ました。どうしてだか、先生はわたしが〝幸福クラブ〟について調べていることを知っているみたいでした。でもそれは、おかしなことです。わたしが暗号に気づいて、残ったメンバーの四人に話を聞いたのは、その一日前のことでした。噂が広まって先生の耳に入るには、いくらなんでも短すぎます」
「だから、四人の中の誰かが先生にそのことを教えたんだろう、と?」
訊かれて、アキはうなずいた。
「だとしてもそれが私とは限らないし、第一、先生と知りあいだからどうだということにはならないでしょう?」
「先生は魔法使いです」
咲夜は、今度は笑わなかった。
「……確証はないですけど、たぶん間違いないです」
あの時――
舞台練習中に話を聞いていたとき、神坂柊一郎から感じた揺れのようなもの。あれは確かに、魔法によるものだった。
「ずいぶん突飛な話みたいだけど」
咲夜はそう言って、ノートをそっとピアノの上に戻した。
「でもそれだって、私には何の関係もない話だわ」
「確かにそうです」
アキは逆らわなかった。
「先輩は先生と個人的な知りあいかもしれない。先生は魔法使いかもしれない。それだけの話です……ではここで、少し話を整理してみましょう」
アキは一度言葉を切って、それから続けた。
「まず、二年前のことです。学園に、〝幸福クラブ〟という秘密の団体が作られました。その目的は、生徒の願いを聞いて、それを叶えることです。それから一年たって、クラブは解散しました。理由はわかりません。そして同じ時期に、学園の生徒が一人行方不明になった……杜野透彦のことです」
「…………」
「その少し前にあった文化祭で、〝四つの奇跡〟は起こりました。消えない虹がかかり、空から飴が降ってきて、階段に一瞬で絵が描かれ、象が迷いこんできた。そしてまた一年後、今年も同じように〝四つの奇跡〟は起きました。まるで、誰かがそうしているみたいに」
「魔法でそうした、とでも言いたいの?」
「――いえ」
アキはあまり自信はなさそうに首を振った。
「そのことは、わたしにはよくわかりませんでした。わたしには、それが魔法によるものだと思えなかったんです。あの〝揺らぎ〟のようなものが感じられなかったから。もしあれが魔法だとしても、それはきっと偽物の魔法なんだと思います。もしくは、ずっと前にもう使われてしまった、魔法の名残りみたいなものなんじゃないかと」
「…………」
アキは話を続けた。
「でも〝幸福クラブ〟と文化祭の〝四つの奇跡〟に何か関係があるのかは、わかりませんでした。まったく無関係なのかもしれない。だからここではまず、関係があるとして話を進めます」
「その仮定が正しいという根拠はあるのかしら?」
「わたしの勘です」
アキは冗談でもなさそうに笑った。
「それはともかく、〝幸福クラブ〟について話をしましょう。彼らがいったい、何者だったのか」
「いつだったか、私のところにも質問に来たわね」
それはちょうど、一昨日の同じこの場所でのことだった。
「――そうです。わたしはクラブの掲示板を調べていて、あることに気づきました。ハンドルネームから、本人の学籍番号をたどれる、ということについてです」
アキはメモ帳を開いて、咲夜に示してみせた。
「それを調べれば、メンバーの五人が誰なのかがわかります。葛村貴史、和佐葵、古賀唯依、杜野透彦、そして美乃原咲夜」
「残念だけど――」
と、咲夜は落ち着いた声で言った。
「私にはそんな覚えはないわね。例え私の名前があったとしても、何かの偶然か間違いじゃないかしら」
「でも先輩は、杜野透彦について知っていますよね?」
確信的なその口ぶりに、咲夜はわずかに怯んだ。
「――いいえ、知らないわ。あの時もそう言ったはずだけど」
「そんなはずはないです」と、アキは首を振った。「わたしもずっと気づかなかったですけど、あの時先輩が何て答えたか覚えてますか?」
「……?」
「先輩はこう言いました。『そんな生徒のことは聞いたこともない』って。でもあの時、わたしは一言も杜野透彦が学園の生徒だなんて言ってはいないんですよ……」
咲夜が口を閉ざしたのを見て、アキはにっこりと笑った。
「これでちょっとだけ、つながりが見えてきたと思いませんか?」
「そうかしら」
咲夜はあくまで、その態度を崩そうとはしない。ババ抜きでジョーカーを引いて、それでも隠しとおすみたいに。
「――わたしのそもそもの疑問は、だいぶ前に遡ります」
と、アキはそれには構わずに言った。
「先輩がわたしにピアノの伴奏を頼んできたときです。実はそのことが、最初から少しおかしかったんです」
「別におかしくはないはずだけど」
「いいえ、実はおかしいんです」
アキの強い口調に、咲夜は再び口を閉ざした。
「あの時、わたしが伴奏を頼まれたのはかなり急なことでした。それ自体は、とりあえず良しとします。曲は一つだけだし、ちょっとしたおまけみたいな役目でした。そのことには、無理はありません」
「…………」
「でも先輩はどうして、小菅部長を通してわたしに頼んだんですか? まさか、わたしが新聞部の人間だと知っていたわけではないですよね。先輩は校内で吹奏楽部に頼まれて演奏したわたしを見ただけのはずです。だったら、頼むのは吹奏学部を通してのはずです」
咲夜は黙ったまま、アキの話を聞いている。
「おそらく先輩は、何らかの理由で小菅部長から直接わたしのことを聞いたんだと思います。もしかしたらそれは、ちょっとした世間話みたいなものだったのかもしれません。新聞部の後輩で、文化祭のことについて調べてる人間がいる。その子は前に校内演奏でヴァイオリンを弾いたことがある――そんなふうに。そして気になった先輩は、わたしに会うために小菅部長を通して伴奏を依頼した」
アキは、黙ったままの咲夜に向かって言った。そっと、崩れやすいバランスの上に重りを乗せるように。あるいは、地面の上に繋ぎとめるように。
「これで、つながりが増えましたよね? 〝幸福クラブ〟、杜野透彦、文化祭――」
「そのようね」
咲夜は否定しなかった。
「じゃあ最後に、魔法のことについて考えてみましょう」
アキは話を核心部分に移すことにした。
その話をするのは、ずっと見ないようにしてきたものに触れるようで、アキにも少し怖かったけれど。
「〝幸福クラブ〟の活動が、魔法によって行われていたものだと仮定します」
「……また、仮定なのね」
咲夜の皮肉は、けれどあまり反論めいたものではなかった。
「確かに、あくまで仮定ですが、そう考えたほうが自然です。たぶんメンバーだったに違いない四人がみんな、そのことを覚えてないと言ってるんです。そのうちの三人は、どうやら本当にそうみたいですし――」
「…………」
「記憶の改竄はともかくとして、ここではそれがどんな魔法だったかを考えてみます」
アキは話を戻すようにして言った。
「わたしははじめ、それを単純に〝人の願いを叶える〟魔法なんだろうと思いました。これは、クラブの活動としてはぴったりです。たぶん、具体的な方法さえ決めてしまえば、その魔法は発動することができるんでしょう。掲示板で相談して、それを決めていた。でもその場合、誰が魔法使いだったんでしょう? メンバーの誰かだとして――さすがにそうじゃないと、五人でクラブを作ったりはしないですよね――それは、誰なのか。もしかしたら、五人全員がそうだという可能性だってあります」
咲夜は特に何も言おうとはしない。
「よくは知らないんですが、魔法には一般型と特殊型というのがあるそうです。特殊型というのは、人によって違う魔法です。〝人の願いを叶える〟魔法が特殊型なら、魔法使いは一人だった可能性が高いです」
これも仮定だったが、咲夜は口を挟もうとはしなかった。
「――でも、その時ふと思ったんです。もしも〝人の願いを叶える〟魔法が、〝自分以外の人の願いを叶える〟魔法だったとしたら? もしも自分の願いを叶えられるなら、ただ人の幸福を願えばいいだけの話です。サンタクロースみたいに、わざわざ靴下を用意してもらって願いごとを聞く必要なんてないんじゃないでしょうか」
「…………」
「文化祭の〝四つの奇跡〟が魔法で行われていたとしたら、それは何故四つなんでしょうか? それは五人のメンバーのうち、一人だけが本物の魔法使いだからです。その人物だけが、自分の願いを叶えられないんです。そして杜野透彦のノートでの言及と、今までの出来事を勘案すると、一人だけその願いを叶えられていない人物がいます」
アキはそう言って、美乃原咲夜のことをまっすぐに見つめた。
「その人物は、一年前に杜野透彦の願いを叶えました。〝世界から透明な存在でありたい〟という彼の願いを。それは叶えられました。クラブは解散し、記憶は失われ、彼は行方不明になった。その願いは、今でも続いています」
そして最後に、アキは小さなガラスの欠片を水中に落とすようにして言った。
「――先輩がこの部屋の扉をいつも開けたままにしているのは、みんなを待っているからですか?」
その問いかけに、美乃原咲夜は小さく答えた。
「そうかもしれないわね……」
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