学園には大きなグラウンドが全部で三つあって、それぞれ陸上、野球、サッカーを主として使われている。ほかにテニスコートや弓道場が、屋外施設として存在していた。

 そのうち校舎の北にある野球用の第二グラウンドとテニスコートの境界付近に、アキは立っていた。

 文化祭で忙しいのか、どちらにも生徒の姿はない。空っぽのグラウンドには、よく整備された黒い土が広がっていた。今年の野球部は、夏の大会で地区予選準優勝のはずだった。惜しくも甲子園には届かなかったが、大健闘には違いない。アキ自身、先輩に連れられてそれを取材していたので、よく覚えていた。試合会場の陽射し、スタンドの声援、金属バットが硬球を打つ乾いた音――

 そんな夏の記憶も、今は面影さえ残ってはいない。誰もいないグラウンドは、収穫後の小麦畑みたいに寂莫としていた。

「ふむ……」

 アキは腰に手をあてて、小さくうなった。

 おそらく一年前の今頃も、ここはこんな景色だったのだろう。文化祭のあいだに使用されるのは、主に陸上用の第一グラウンドだった。そちらのほうが、校門から近い。

 アキはコピーして持ってきた記事を、もう一度確認する。モノクロでわかりにくくはあったが、そこには現に目の前にしているのと同じ光景を写した写真が載せられていた。

 ある意味では死者の大地みたいなこの場所に、消えない虹がかかったのだ。

 文化祭の三日前、この付近にある屋外消火栓に亀裂が入り、内部から水が漏出した。噴霧状の水流に太陽の光が反射して、虹を作る。どういうわけか、故障は文化祭終了まで放置され、そのあいだはずっとグラウンドの上に虹がかかっていた。

 アキが問題の消火栓を探してみると、テニスコートの端にそれらしいものが確認できた。

 破損した消火栓は撤去され、新しいものと取り替えられている。そこにあるのは記事にあるのと同型の物だが、もちろん亀裂など入ってはいない。叩くと、鐘のような金属音がした。さすがに頑丈そうである。

 小菅部長の記事によれば、消火栓は比較的新しいタイプのもので、設置されてまだ日も浅かったと書かれていた。前回の点検時にも、異常は見られなかったという。

(だとすると、誰かがわざと壊した……?)

 と、アキは思考を巡らせてみた。

 あたりに人影はなく、大がかりな工具を使ったとしても見咎められる心配はなさそうだった。もしも犯人がいたとすれば、犯行はそれほど苦労せずに可能だったかもしれない。

 けれど――

 いったい誰が、何のためにそんなことをしたのだろう?

 記事によれば、亀裂は何らかの劣化作用によるものとされ、詳しい原因は不明と書かれていた。人為的な痕跡は認められなかった、ということだろう。

「ふむ……」

 何か適当な推理を考えてみようとするが、アキには何も思いつかなかった。

 空を見あげても、そこには透明な秋の空が広がるばかりで、虹の痕跡などどこにも見あたらない。それは空の青さの中に、もうすっかり溶けてしまったのだろう。


 次にアキが向かったのは、校舎の中央にある階段だった。

 中央階段は教室棟の、ちょうど中等部と高等部を結ぶあいだに作られている。ほかのものより若干大きめで、格が一つ上という感じだった。玄関から一番近いこともあって、学年を問わず利用率は高い。

 一階にある玄関前のピロティでは、たくさんの生徒が文化祭の準備を行っていた。何となく、でき損ないの遊園地みたいな賑やかさである。そんな光景を見ていると、ここが学校だということをつい忘れてしまいそうだった。

「…………」

 アキはその脇を通りぬけて、中央階段へと向かう。その前に立つと、例の記事を広げてみた。

 掲載された写真によると、そこに現れたペイントというのは段差部分に施されていたらしい。階段下から見ると一枚の画面として構成されていて、角度が変わるとブラインドみたいに隙間ができる、ということだった。

 モノクロの写真では色彩まではわからなかったが、相当カラフルなものだったようである。段差部分の全体に着色され、ほとんど塗り残し部分はない。絵というよりはポップアートに近いもので、ちょっとおしゃれなポスターという感じだった。リズム感があって、音楽的な雰囲気が漂っている。

 アキは近づいて、段差部分を仔細に眺めてみた。階段を利用する生徒が不可解そうな顔をするが、アキは気にしないことにする。

 その時のペイントは、もうどこにも残ってはいない。文化祭後に、上から塗りつぶす形で消されてしまったからだ。表面を削ればそれが見られるのかもしれなかったが、さすがにアキもそこまでする勇気はない。

 記事によれば、ペイントが出現したのは昼休憩中のことだった。

 中央階段にはほとんど常に人がいるため、ペイントの実行が可能だったのは授業中だけだったということになる。とはいえ五十分のあいだに、五階まである階段のすべてに色を塗るなどということが、はたして可能といえるかどうか。

(うーん……)

 アキはゆっくりと、階段を昇ってみる。踊り場の向こうはガラス張りになっていて、中庭から秋の澄んだ陽射しが注いでいた。

 その踊り場までにある段差は、十四。つまり五階分で百四十段の段差面にペイントをした、ということだった。よほど用意周到に準備しなければ、時間内にその作業を終わらせることは不可能だろう。人数も必要だし、着色剤だって大量に消費することになる。

 ――ところが、この階段ペイントを誰が行ったのかはわかっていないのだ。

 記事によると、その時間に授業中にいなくなった生徒はいなかったし、欠席者は少数の上に全員が関与を否定している。教師による実行も同じく否定された。部外者によるものだというのも、かなり考えにくい。

 つまりは、犯人不在ということだった。靴作りの妖精レプラホーンよろしく、見えない誰かが人知れず階段に色を塗った、としか考えられない。

 アキは五階までやって来ると、そこでちょっと立ちどまってから、またゆっくりと階段を降りはじめた。

 消火栓同様に、この階段のことも奇妙な話だった。誰かがやったとは思えないが、誰かがやったとしか考えられない。

(もしかしたら、ペイントはもうされていたのかな……?)

 と、アキはふと想像してみた。

 別の時間にペイントをして、その上にシールのようなものを貼りつけて表面を隠しておく。問題の時間になれば、そのシールをいっぺんに剥がしてしまえばよい。これならペイントにかかる時間は無視することができるし、作業自体も短時間で終わらせることができる。

 とはいえ、本当にそんなことが可能なのかどうか、アキにはわからなかった。

 もしそうでないとすれば、やはり――

(……奇跡、なのかな)

 アキはどこか納得のいかない気持ちで、そう考えていた。

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