アキとハルは旧校舎をあとにして、グラウンドを歩いていた。

 杜野透彦やクラブの五人がこれからどうするのかは、わからなかった。行方不明になっていたことの説明や、三人の記憶が戻るのかといったことについては。

 けれど――

 それは、大丈夫だろう。新しい物語は、もう始まっているのだから。

 グラウンドには、空気の抜けた気球が巨大な包装紙みたいに広がっていた。風の具合が変わって空に戻ろうとしているのか、何人かがゴンドラの近くで動いている。文化祭に来た一般客や親子連れ、生徒たちがそれを見物していた。

 夕暮れの気配が近く、風はほんの少しだけ冷たく吹いていた。

「――どうして、ハル君がここにいるの?」

 校舎に向かって歩きながら、アキは訊いてみた。

「電話があったんだ」

 と、ハルは答えた。中学生になって、ハルの身長は少しのびたようだった。アキよりも拳一つぶんは高い。けれどその雰囲気は変わっていなくて、雨あがりの澄んだ空みたいなところがあった。

「電話……?」

 アキは首を傾げた。

「誰からかはわからないんだけど、この学園のことや魔法のことを説明されて――それから、アキのことについても知ってるみたいだった。もしかしたら、ぼくが力になれるんじゃないかって」

 ハルの話しかたは昔とまるで変わっていなかった。ゆっくりと、一言一言を丁寧に口にする。

「もしかしてその人、がどうとかって言ってなかった?」

 アキはどこか皮肉っぽいしゃべりかたをする、演劇部顧問を思い浮かべながら訊いた。

「オベロン? ううん、別に何も言わなかったけど」

「……そっか」

 たぶん、訊いても無駄だろう。あの先生がまともにとりあうとは思えなかった。

 二人はそんな話をするうち、校舎の端にたどり着いていた。気球はバーナーの熱で、ゆっくりとふくらみつつある。それはどこか、大きな花が開くのに似ていた。そんな光景を眺めながら、二人は足をとめる。

「本当のところはよくわからないけど、あれでよかったんだよね。電話の話と、途中から聞いてたアキの話で判断したけど……」

 ハルに訊かれて、アキは「うん」とうなずく。そしてそんな話をするこの少年に、アキはくすりと笑ってしまっていた。

「やっぱりすごいね、ハル君は。それだけで、あんなことをしちゃうんだから」

「アキだって、十分すごいと思うよ。一人であそこまで考えるなんて」

 言われて、けれどアキは首を振る。そうしてこの少女は大きくのびをして、冷たい空気を吸いこんだ。

「実のところ、わたしは全然なんてしてないんだよ」

「――どういうこと?」

「つまりね、わたしは全部を

 怪訝そうな顔のハルの前で、アキはふと地面に落ちているものに気づいた。

 それは、ロボットのおもちゃだった。昔流行った、スターチャイルドというアニメのものだろう。集まった見物人のうち、誰か子供が落としたものかもしれない。けれどみんな気球のほうに夢中になっていて、そのことには気づいていないようだった。

 アキは無言でそのおもちゃを拾いあげると、まるでスイッチでも押すような仕草でその頭に触れた。

 その瞬間、揺らぎが生じて世界は静かに組み変わってしまっている。

「……君の持ち主のところに行ってあげてね」

 と言って、アキはそのおもちゃを地面に置いた。

 おもちゃはしばらく自分の状況が理解できないようにじっとしていたが、やがてぎこちない足どりで歩きはじめている。携帯のカメラを構えた父親の隣にいた子供が、自分のほうに歩いてきたおもちゃに気づいて手の平に乗せた。

 子供はそんなことはたいして不思議なことだとは思っていないらしく、ただ大事なおもちゃが戻ってきたことを喜んでいるだけのようだった。隣にいる父親の袖をひっぱってそのことを伝えようとするが、父親のほうでは気球の撮影に気をとられてそれどころではないらしい。

「……今のは?」

 と、ハルは訊いた。

「わたしも最初は驚いたよ」

 と言うアキは、言葉のわりにはむしろ面白がっているようだった。

「何となく部屋のぬいぐるみがしゃべりたがってるような気がして、じゃあしゃべってみればって思ったら、本当に口をきくんだもの。青天の霹靂。ゼペットじいさんもびっくりだよね」

 それはいつかの、ひのりと時期外れの桜を見る前日のことだった。だからあの時、掲示板のチェックをする以上にアキは寝不足だったのである。

「だからね、わたしは聞いたんだ。。美乃原さんが魔法使いだってことも、クラブで何があったのかってことも。ほら、言うでしょ――」

 アキは言って、にっこりと笑った。

「わからないことは、人に聞けばいいんだって」

「つまり、アキは――」

「……うん」

 と、アキはうなずく。

 考えてみれば、それは当然のことではあったのである。魔法の揺らぎがわかるのは、魔法使いだけなのだから。

 つまり、水奈瀬陽は――

「……わたしね、魔法使いになっちゃったみたいなんだ」

 アキは秘密のことを教えるみたいに、人さし指を唇に当てながら言った。

 その時、気球をふくらませる作業が終わって、ゴンドラがふわりと宙に浮いている。気球は重力を忘れたように、地面からゆっくりと離れていった。

 星が本来いるべき、空の上を目指して――


 〝物体に生命を吹きこむ〟魔法。

 ――水奈瀬陽の〈生命時間ソウル・クロック〉は、そうして誕生したのだった。




 正門付近を、アキはハルの少しあとについて歩いている。

 広場からは人がいなくなって、仮設テントでは片づけと明日の準備が行われていた。一日の終わりと、来たるべき冬の気配をかすかに感じさせるような光景だった。手の平から、何かがそっと零れ落ちていくような――

 気がつくと、ほんの小さな魂の欠片みたいに、桜の花びらが一枚だけ舞っていた。アキは足をとめて、手をのばしてみる。けれど、その欠片をつかむことはできなかった。花片は秒速五十センチという、ゆっくり歩くくらいの速さで地面へと向かっていく。

「どうかした?」

 少し先で、ハルが訊いた。

「……ん、何でもない」

 アキはそっと、音もなく首を振る。

 二人は立ちどまって、桜を眺めていた。たった一つきりで咲いた、季節外れの桜を。

「ねえ、ハル君――」

 とアキはぽつりとつぶやくように言った。

「ハル君は、いなくなったりしないよね? この世界が不完全だからって、世界の重みに耐えられなくなっちゃうことはないよね? この場所からいなくなってしまったほうがいいなんて、思わないよね?」

 ハルはしばらく黙っていたが、

「――エルガー」

 と、不意にまるで関係のないことを言った。

「え?」

「聞いてたよ、ヴァイオリン。すごく上手だった」

「――――」

 アキは一瞬、息を吸って――

 思わず、赤くなってしまっていた。

「……聞いてたの?」

「うん」

 ハルはにこりと、笑っている。いつもの笑顔で。それから、

「――ぼくは世界からいなくなったりなんてしないよ、アキ」

 と、少しだけ真剣な口調で言った。

「この世界の大切なものや、大切なことを、もう知っているから。それを教えてくれた人のことも。ぼくはその人たちに感謝して、それを守りたいと思う。例え明日が、今日と同じものではないんだとしても」

 アキはほんの少しだけ目をつむる。

 そうして、胸の奥に一粒の種に似たものが落ちてくるのを感じた。この不完全な世界でも、たぶんそれは――

「ねえ、ハル君……」

 と、アキはもう一度言った。

「お願いしても、いいかな?」

「何……?」

「手を、つないで欲しいんだ」

「――うん」

 ハルは笑った。

「友達だもんね」

 アキとハルのあいだには、短い距離がある。ほんの数歩という、小さな隔たり。

 でもアキは今、その距離を何のためらいもなく歩いていく。その距離は、きちんとつながっている。

「…………」

 アキはそっと、その手をつないだ。両手で、つかむように。

「ハル君の手、相変わらず少し冷たいね」

 と、アキは言った。

「アキの手は温かいよ」

 と、ハルは言う。

「――とても、温かい」

 少年と少女のそんな行動を、桜だけが見守っていた。

 アキはふと、こんな時間が永遠に続いていけばいいのに、と思ってしまう。

 もちろん、世界は変わっていく。良いほうにも、悪いほうにも。それはいつまでも同じ場所に留まったりはしない。そんなことが起こるのは、世界がどうしようもなく壊れてしまったときだけだ――

 けれどアキは、思うのだ。

 今はまだ、今だけは――

 わたしはハル君とこうしていたいんだ、と。

 ……小さな胸の鼓動が、確かにそれを教えていた。

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