アキが衣織学園に入学したのは、基本的には親の勧めによるものだった。

 県下では数の少ない私立校で、充実した設備や優秀な実績、高い評判を誇っている。私立の通例で中高は一貫、共学で、最近になって新しい講堂も完成された。

 もちろん私立なので、公立とは違って入学には試験が課されている。

 少し遅れてとはいえ、アキも塾に通って学習に専念することになった。放課後の時間はほとんどがそれに費やされて、おかげで小学校時代の最後は、アキには勉強ばかりしていた記憶がある。ある意味でそれは、密度の濃い時間だった。

 元々、勉強はそれほど苦手ではなかったので、プレッシャーはあっても神経症にかかるほどではなかった。アキにとっては、塾で同じ目的の子たちと席を並べるのも楽しかった。鹿野かのひのりと出会ったのも、その頃である。

 入試当日は、勉強の成果があったのか運が良かったのか、答案にはまずまずの手応えがあった。そして後日送られてきた結果通知には、合格の文字が記されている。

 アキはさすがにほっとして緊張が解けたし、両親も喜んでお祝いをしてくれた。


 ――それでも、入学してしばらくのあいだ、アキは体の半分をどこかに忘れてきたような、そんな感じがしていた。とても長い紐のついた風船が、たった一つで空を漂っているみたいな、そんな感じが。

 同じ小学校から学園に進んだのは、結局アキとひのりの二人だけだった。



「――クラスの展示って、もっと何とかできないかな?」

 と、アキはひのりに向かって言ってみた。

 昼休憩の時間で、二人は学校のカフェテリアにいる。

 広い食堂のテーブルは、大勢の生徒たちで埋まっていた。天気がいいので、屋外のテラスで昼食をとる生徒の姿もあった。休憩時間になったばかりで、券売機の前にはまだかなりの人だかりが集まっている。

「何とかって、何が……?」

 きつねうどんを念入りに冷ましながら、ひのりは訊きかえした。彼女は極度の猫舌である。

「もっと……有意義なこととか?」

 アキは定食のササミフライをつつきながら、曖昧に訂正した。

 二人が座っているのは長机の端っこで、中庭に面している。ガラス張りの壁面からは石畳が全面に敷かれ、いくつかの緑に囲まれた校庭を眺めることができた。

「――有意義なこと、か」

 アキの言葉に、ひのりは「うーん」と考えこんでいる

 鹿野ひのりは前にも書いたとおりアキの同級生で、同じ小学校の出身でもあった。古風なおかっぱふうの髪型で、和服を着せると似あいそうなところがある。どことなく世間ずれのしない、間延びした性格をしていて、本人はそれをいっこうに気にしていなかった。狐の手袋でもはめられそうなくらい小さな手をしている。

「どうなのかな、実行委員の二人に相談してみないと」

「いや、ひのりちゃんはどう思ってるの?」

 訊きながら、アキはサラダを口にする。何となく、高級そうなドレッシングの味がした。

「さあ、私は文化祭ってはじめてだから――」

 のんびりした口調で、ひのりは答えた。

「そりゃあ一年生はみんなはじめてだよ」

 アキは怒りもせず、平然と話を続ける。この程度のことで目くじらを立てていれば、鹿野ひのりとまともな会話などできるはずもなかった。

「でもさ、もっとやる気というか情熱というか、そういうのがあってもいいんじゃないかな。つまり、何ていうか、こう……」

「有意義に?」

「……まあ、そんなところ」

 アキは肩を落として、ごはんを口にする。アキにしたところで、たいしたプランがあるわけでもなかった。

「うーん、でも私としてはクラスのみんなにはあんまり反対したくないな」

 ひのりは丁寧に裁縫でもするような手つきで、箸を動かしている。はたからそれを見ていると、この少女が食べているのが本当にうどんなのかどうか、疑わしくなるほどだった。

「保守的だなあ、ひのりちゃんは」

 と、アキは嘆息してみせる。

「知らないの? 革命は壊すだけで、何も生まないんだよ」

 鹿野ひのりはさらりと、そんなことを口にした。

「けど――」

「みんなすてきなひとりぼっち」

「は?」

 急に何を言いだすのだろう、という顔でアキはひのりのことを見た。

「〝そうだおれにはおれしかいない、おれはすてきなひとりぼっち〟。そういう詩、あるでしょ?」

「ふむ」

なんだよ。だから、無理をすることはないんじゃないかな」

「…………」

 何故だかよくわからないけれど、アキは反論する気をなくしてしまった。灰色のことを、白なのか黒なのか議論しても仕方がないみたいに。

「……やっぱり不思議だよ、ひのりちゃんは」

 アキはしみじみとした口調で言った。

「よく言われる」

 ひのりは悪びれもせずに、にこりとした。

「――でもアキちゃん、クラスでだめなら部活のほうでがんばればいいんじゃないかな?」

 新年に屠蘇でも飲むようにうどんの汁をすすってから、ひのりは口を開いた。

「部活で?」

「うん、私たちの弓道部でもいろいろ企画してるよ。行射の体験とか。クラスでやるだけが文化祭じゃないから」

「ふむ」

 アキがやや真剣な顔で黙考していると、ひのりはふと思い出すようにして言った。

「そういえば、うちの文化祭にはちょっと面白い噂があるんだよ」

「噂?」

「うん、〝四つの奇跡〟っていうんだって」

 アキは首を傾げた。

「……七不思議じゃなくて?」

「三年の先輩から聞いた話だと、そう言ってた。去年、うちの学校にはそういうのがあったんだって。消えない虹が現れたり、空から飴が降ってきたり――」

「何それ?」

 アキはきょとんとした。本当にあったとしたら、ずいぶんな話だ。

「私は聞いただけだから、詳しい話は何とも。だからさ、調べてみるといいんじゃないかな? アキちゃんがそのことを」

「うーん……」

 ひのりの提言に、アキはあまり気のりしない顔で小さくうなっている。

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