文化祭の前日になって、校舎や教室の一部ではすでに飾りつけが終わっていた。空気の手触りまで変わって、見慣れたはずのその場所が、まるで違った様子を見せている。

「――魔法みたいだね」

 と、ひのりはスプーンを口にくわえながら、やや乙女チックな口調で言う。

 同じように中庭を眺めながら、けれどアキは何も言わなかった。言っても仕方のないことだったからだ。もしかしたら、この学校には本当に魔法が使われたのかもしれないよ、とは。

 昼食後の休憩時間を、二人は食堂のテラスですごしていた。陽射しが澄んでいて、建物の外には秋らしい風が吹いていた。二人の座るテーブルには、コンビニで買ってきたデザートが置かれている。中庭ではCDプレイヤーの試験でもしているのか、かなりの音量で音楽がかかっていた。交差点で誰かの姿を探している、そんな歌詞が聞こえる。

「とうとう明日だね、文化祭」

 ひのりは小さな手でプリンをつつきながら言った。乙女らしく、彼女は甘い物好きだった。

「――うん」

 対するアキのほうは、どこか上の空である。目の前に置かれたチーズケーキにも、ほとんど手がつけられていない。

「それ、いらないならもらってあげるよ?」

 やや恩を着せるような口ぶりで、ひのりは言った。

「……じゃあ、そのプリンちょうだい」

「私が食べてからでよければ、あげてもいいけど」

「容器だけもらっても」

 アキは仕方なく苦笑するしかない。ひのりはにこっとして、今も飾りつけの進む校舎や中庭を見ながら言った。

「それにしても、四つめの奇跡が起こるのは明日なのかな?」

「――そうだね」

 去年と同じように、すでに三つの奇跡は起こっていた。カボチャが馬車に変わって、ネズミがそれをひく馬に変わって、灰かぶりの姫は美しいドレスとガラスの靴を手に入れて……そして彼女は、王子様と会うことができるのだろうか。

「何だかアキちゃん、それどころじゃないって感じだね」

「わかるかな……?」

「友達だから、ね」

 ひのりが笑顔を浮かべたので、アキもつられるように笑ってしまう。

「実は、ちょっとわからないことがあって悩んでるところなんだ。これなんだけど……」

 そう言って、アキはメモ帳を開いてひのりのほうに渡す。

 メモ帳にはページいっぱいに数字が並んでいた。一見したところ、その数字に規則性のようなものは見られない。数字を区切る記号の違いから、それが三つずつの組に分かれているらしい、というこが推測できる程度だった。

「例の〝幸福クラブ〟の掲示板にあったんだ。これも何かの暗号だと思うんだけど、さっぱりわからなくて」

 ひのりは説明を聞きながら、じっと数字を見つめている。

「三つの数字が何か一つのことを表してるんだろうけど、全然見当もつかなくて。一つめの数字は三百以下、二つめは十六以下、三つめは四十以下。わかるのは、それくらい。あと、最後だけ四つの数字が並んでる」

 しばらくして、ひのりは口を開いた。

「これ、もしかしたら書籍暗号かもしれない」

「……は?」

 何の暗号だと。

「特定の本を鍵にした暗号。あってるかどうかはわからないけど、三つ並んだ数字はそれぞれ、ページ数、行数、文字数を表してるんじゃないかな。ほら、本の書式って大体それくらいでしょ?」

 アキはひのりから返されたメモ帳を受けとる。

「最後の数字は?」

「それはわかんない。何か別の数字なのか、鍵になる本を探すヒントになってるのかも」

「書籍暗号……」

 あらためて、アキはその数字をのぞきこむ。ひのりの言うとおり、確かにその数字は一冊の本に準拠しているのかもしれない。だとすれば、その本は――

 そこまで考えてから、アキはため息をつくようにして肩の力を抜いた。あとは、実際に調べてみればいいだけのことだ。それよりも、

「……ひのりちゃん、何でそんなこと知ってるの?」

 と、アキは呆れた。

「乙女のたしなみ、かな」

 可愛らしく笑顔を浮かべながら、ひのりはそんなふうにうそぶいてみせる。

「どこの乙女かは知らないけど、そういうことにしておくかな」

「それよりアキちゃん、もっと大変なことがあるよ」

「何?」

「私のプリンがもうありません」

 いつのまに完食してしまったのか、ひのりのプリンはもう容器が空になっていた。

「……わたしのチーズケーキをあげるよ」

「じゃあこの容器と交換ね」

 もうゴミになってしまったプリンを受けとり、アキはため息をつくしかない。目の前で幸福そうにケーキを頬ばるひのりを見ながら、アキは訊いてみた。

「それもやっぱり、乙女のたしなみなのかな?」

「――もちろんだよ」

 迷いもなくうなずく彼女を見て、アキはくすりと笑ってしまうしかなかった。


 文化祭準備のための短縮授業で、午後の時間はカットされている。

 アキはクラス展示の手伝いを、「緊急の用事」のためという理由で同じ班の生徒に託すと、図書室に向かった。穏当な言葉を使えば、さぼったということになる。

 図書室は開いていて、アキは中に入るとさっそく目的の本を探した。杜野透彦が一年前、失踪直前に暗号の鍵に使用したであろう本――

 『ほんものの魔法使い』は、前と同じ場所にきちんと収まっていた。もしかしたら、一年前からずっと。

 アキはその本を手に取ると、机の上においてメモ帳といっしょに開いた。ひのりの言うとおり掲示板の数字が書籍暗号で、これがその鍵になる本で間違いがなければ、杜野透彦のメッセージがわかるはずだった。

 まず最初の三つの数字「159・14・25」は「ぶ」、次の「185・13・16」は「ん」――そうやって照会していくと、「ぶんげいぶのロッカー」という文字が現れた。最後の数字「4816」は不明。

(文芸部のロッカー……?)

 杜野透彦は文芸部だったんだろうか、とアキは思った。そこのロッカーに、何かがある?

 アキは本を戻すと、すぐに文芸部のある部室棟に向かった。そのあいだずっと、図書室の二階から見られていたことに、もちろんアキは気づいてもいない。

 部室棟には各部で文化祭のための看板やオブジェが出されていて、文芸部の場所を見つけるのに苦労はなかった。扉は開いていたので、アキはそこから中の様子をうかがってみる。

 部屋には中等部とおぼしき女子生徒が一人いるだけで、ほかには誰もいなかった。もう準備は終わってしまったのか、別の用事にでも向かっているのかはわからない。静かに本を読んでいた彼女は、ふとアキのことに気づいたみたいにして顔をあげる。

 目があって、アキは軽い会釈をした。何故だかアキは、その女子生徒に見覚えがあるような気がした。

「――こんにちは。文芸部に何か用事でもあるの?」

 と女子生徒は、ひどく感じのいい笑顔を浮かべて訊く。

 アキはちょっと迷ってから、入口のところに姿をさらした。この人なら話しても大丈夫だと、ふとそんなふうに思えたのである。

「すみません、実は杜野透彦という人について調べているんですが」

「杜野くん?」

 知っているような口ぶりだった。

「たぶん、文芸部に所属していたと思うんですが――」

 アキが訊くと、彼女はこくりとうなずいている。

「うん、そうだね。杜野くんはうちの部員だよ」

 過去形で話さないのは、そういう性格だからだろうか。

「それで、杜野くんにどんな用事? 残念だけど、今はここにはいないよ。というか、どこに行ったのかは誰にもわからないんだけど」

「――あの、杜野透彦さんのロッカーって、残ってますか?」

「あるけど、それが?」

「……ちょっと、調べたいことがあるんです」

 細かい事情を説明していると長くなりそうだったので、アキはそれだけを言った。

 彼女は少し逡巡する様子だったが、結局はアキのことを見て問題ないと判断したようである。

「うん、いいよ。こっちに来て」

 立ちあがって、案内するそぶりを示す。アキはちょっと頭を下げてから、彼女のあとに従った。

 文芸部だけあって、部屋の中には本がいっぱいに詰めこまれた本棚が並んでいる。部員それぞれの趣味を反映して蒐集されたらしいその本棚は、種々雑多な本でまとまりもなく埋められていた。ひっくり返ったおもちゃ箱を急いで元に戻した、という感じでもある。

 女子生徒は部屋の奥に並んだロッカーのところに、アキを連れてきた。そこには靴箱のようなスチール製のロッカーが置かれている。名札を確認すると、「杜野」と書かれたものが一つあった。

 ただ、そのロッカーには南京錠がかけられている。

「見てのとおり、鍵がかかってて開けられないんだけどね」

「外せないんですか?」

「暗証番号を知らないから。四桁の数字なんだけどね」

 四桁――「4816」

「ちょっと、やらせてみてください」

 アキはそう言って、鍵の番号を回してみた。「4」「8」「1」「6」……カチンと音がして、鍵が外れる。アキが顔を向けると、彼女はこくんとうなずいた。開けてもいいだろう、ということだ。

「――――」

 アキはゆっくりと、ロッカーの扉を開けてみた。

 空っぽですかすかのその箱の中には、ノートが一冊だけ置かれている。

「これは?」

 訊くと、彼女はそのノートを横から無言のまま手に取った。

「たぶん日記じゃないかな……」

「日記?」

「正確には、日記という名前の小説かな。といっても私小説とかじゃなくて、だからやっぱり日記かな。とにかく、杜野くんがずっと一人で書いてたものね――」

 どこか懐かしむような顔で、彼女はノートの表面をなでる。

「うん、杜野くん言ってたな。いつかこれを取りに来る人がいるかもしれないって。その時はよろしく、って」

「……これ、見せてもらってもいいですか?」

「そうだね。たぶん、そういうことになるんだと思う」

 彼女は手に持ったノートを、アキに渡した。月夜の海岸で拾ったボタンを、そっと手渡すみたいに。

 ノートを受けとって、アキはイスに座らせてもらう。そうして、杜野透彦の日記を読みはじめる前に、アキは質問をした。

「ところで、えと……名前を聞いてもいいですか?」

「私の?」

「――はい」

牧葉澄花まきはすみか、一応ここの副部長。ちなみにみんなはクラスのほうで忙しいとかで、たぶん今日は来ないんじゃないかな」

「わたしは水奈瀬陽といいます――澄花さんは、美乃原さんと同じクラスですよね?」

 訊かれて、澄花はちょっと笑った。

「よく覚えてるね。うん、そうだよ。教室に彼女を探しに来たとき、会ってるよね」

 そう、どこかで見覚えのある人だとアキは思ったのだ。牧葉澄花はついこのあいだ、美乃原咲夜を探しに教室を訪ねたとき、旧校舎にいるだろうと教えてくれた女子生徒だった。

「――ということは、杜野さんとは同級生ですよね。同じ文芸部でもあった」

「クラスは違っていたけどね」

「その……杜野さんは、どんな人でしたか?」

 と、アキは訊いた。日記を読む前に、多少のイメージを作っておきたかったのだ。物語のあらすじに目を通しておくみたいに。

「――そうだね」

 と澄花はちょっと目を落として、考えている。昔に読んだ大切な本をもう一度開こうとするのに、それは少し似ていた。

「もの静かな性格で、自分から前に出るようなタイプじゃなかったな。いつも静かに微笑ってて、人を傷つけてしまうことを恐れてた。たぶん、優しかったんだろうね――杜野くんの場合は、少し残酷なくらいに」

「残酷、ですか?」

 何だか不穏当な言いかただった。

「……そう。時々、いないかな? 優しすぎるせいで、生きていくのが大変そうな人。いろんなことに混乱して、いろんなことがうまく処理できなくて。杜野くんはたぶん、そういう種類の人だった。空のどこかから、その欠片を一つ取ってきたみたいな、そんな人――」

 アキは目の前に置いたノートに視線を落とした。

 そこにはタイトルも、名前も、何も書かれてはいない。それはできるだけ、この世界に何の痕跡も残さないようにしているかのようだった。できるだけ、すべてを透明なままそっとしておきたいかのように――

 何だか――

 何だかそれは、アキには悲しいことみたいに思えた。

 そうしてアキは、そっとノートを開いてみる。降ってきたばかりの雪にも似た、壊れやすい何かに手を触れるようにして。



「先生は味方なんだよね?」

 と、眼鏡の少女はやや不安そうに言った。

 いつもの、ピアノが置いてある旧校舎の一室である。五人はいつものように、けれどいつもよりも真剣な顔で、それぞれの場所に立っていた。

「先生自身の話によれば」

 小柄な少女が、正確を期するようにして発言する。ヘッドフォンは、あらかじめ首にかけられていた。

「魔法……だっけ?」

 髪の短い少年が、半信半疑といった感じで口を開いた。「信じられるか?」

「話そのものに疑わしいところはなかったと思う」

 もう一人の少年が、冷静な口調で応答する。

「でも疑わしくないからって、それが本当とはかぎらないでしょ」

 眼鏡の少女は反問した。

「……だよな、それに魔法って何だ? 揺らぎとか、世界を組み変えるとか、言葉を得て失った力とか」

 あくまで懐疑的に、少年は言う。

「でも、嘘じゃないかも」

 小柄な少女は海に向かって石でも放るみたいに、ぽつんと言った。ただしその口調は、ほとんど力のないものではあったけれど。

「――魔法でも何でもいいけど」

 それまでずっと黙っていた少女が口を開く。彼女はいつものように、ピアノの前に座っていた。

「じゃあ、私たちがやってたことって何なの? 魔法? 奇跡? どうして私たちは、そんなに都合よく人の願いを叶えてあげるなんてことができたの?」

 彼女は何かを叫びだしたいのを、ぐっとこらえるような口調で言った。

「それは、そうだけど……」

 髪の短い少年は、気おされたように口ごもってしまう。

「本当は、私たちのほうがおかしかったんだよ。こんなふうに、世界を簡単に幸福にできるだなんて思って。最初からおかしかった。そんなことを信じられることが。世界はそんな場所じゃないのに。先生の言うことが本当かどうかなんて、問題じゃないのよ。問題なのは、私たち自身のほうだった」

「――おかしくなんてないよ」

 儚げな少年のほうが、静かに告げた。

「僕たちのやろうとしたことは、おかしくなんてない」

「でも普通じゃない」

「だとしたら、間違ってるのは世界のほうだ」

 少年がそう言うと、少女は言葉を失ってしまったように黙った。

「僕たちのやるべきことは、今までと何も変わらない。それが魔法だとしても、人に知られてしまったとしても、やるべきことは同じなんだ。誰かが、それをしなくちゃいけない。この不完全な世界で、せめて誰かがそれを」

「でも……」

 眼鏡の少女が何か言おうとするのを、少年は首を振ってとめた。

「今はもう、これ以上話をしてても仕方がないと思う。大丈夫、前にも言ったけど、僕に考えがあるから。続きはまた明日にしよう――」

 必ずしも納得したというわけではなかったが、三人はとりあえずその言葉にうなずいて、教室から出ていった。

 あとには、少年と少女の二人だけが残っている。まるで、幕引き後の舞台に立ち続けるみたいにして。

「……もう、時間は残ってないみたいだ」

 と、少年はさっきまでとは打って変わった、ひどく沈んだ調子で言った。

「ずっと、このままでいられたらよかったんだけど」

「――無理よ、そんなの」

 少女は言いながら、拳を小さく握っている。本当は、何も手放したくないというように。

「遅かれ早かれ、いつかはこうなるはずだったのよ。先生とか、魔法とか、そういうこととは関係なく」

「そうだね」

「だって――」

 少女はずっと握り続けてきたものを、そっと地面に捨ててしまうようにして言った。

「私は、あなたのことが好きなんだよ?」

「――うん」

 少年は少女の手放したものを、優しく拾いあげるようにして言う。

「本当は、知ってた。そして僕の好きなのは、別の人だ。その人はやっぱり、別の人が好きで――その人が好きな人も、別の人が好きで」

「どこにも行きつかない」

 うん、と少年はうなずく。

「たぶん、だから僕たちはチームでいられたんだ。誰かが誰かを留めようとしてた。でもいずれは、ばらばらになる。互いの手をつなぎあうことができなければ、月だって地球から遠く離れていってしまう。どうしてって、それをとめることなんてできはしない」

「だったら、どうして――」

 少女は今にも泣き出してしまいそうな顔をしていた。

「どうして、って言わなかったの?」

 少年は空の欠片を手の平に乗せるようにして言った。

「僕はこのクラブを終わらせるつもりはないんだ。誰かが、それをやらなくちゃいけない。それに僕らが終わりにしたところで、もう状況は変わらないよ。このまま放っておけば、使はきっと、何かのために利用されることになる」

「でも、もうどうしようもない――」

 少年はけれど、首を振った。

「一つだけ、方法があるんだ。クラブを続けて、誰も傷つかずにいられる方法が」

「……そんなこと、私は聞きたくない」

「それは、を叶えることなんだ。そうすれば、みんなを守ることができる。叶えられる願いは、一度に一つだけ。だからこれは、クラブの最後の活動になる」

「……そんな願い、私は叶って欲しくない」

「願いを叶えるのは、自動的なことだ。そこに強い思いがあれば、誰にもどうすることはできない。この不完全な世界じゃ、どうすることも」

「――私はこのままでいい。いつかばらばらになったとしても、誰かに利用されるとしても」

 少年は時間が止まってしまったみたいな、そんな静かな微笑みを浮かべた。


「……でも、僕はこの場所を守りたいと思うんだ」


 その瞬間、最後の願いは叶えられた――

 少女の小さな思いを、犠牲にして。

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