7
文化祭の前日になって、校舎や教室の一部ではすでに飾りつけが終わっていた。空気の手触りまで変わって、見慣れたはずのその場所が、まるで違った様子を見せている。
「――魔法みたいだね」
と、ひのりはスプーンを口にくわえながら、やや乙女チックな口調で言う。
同じように中庭を眺めながら、けれどアキは何も言わなかった。言っても仕方のないことだったからだ。もしかしたら、この学校には本当に魔法が使われたのかもしれないよ、とは。
昼食後の休憩時間を、二人は食堂のテラスですごしていた。陽射しが澄んでいて、建物の外には秋らしい風が吹いていた。二人の座るテーブルには、コンビニで買ってきたデザートが置かれている。中庭ではCDプレイヤーの試験でもしているのか、かなりの音量で音楽がかかっていた。交差点で誰かの姿を探している、そんな歌詞が聞こえる。
「とうとう明日だね、文化祭」
ひのりは小さな手でプリンをつつきながら言った。乙女らしく、彼女は甘い物好きだった。
「――うん」
対するアキのほうは、どこか上の空である。目の前に置かれたチーズケーキにも、ほとんど手がつけられていない。
「それ、いらないならもらってあげるよ?」
やや恩を着せるような口ぶりで、ひのりは言った。
「……じゃあ、そのプリンちょうだい」
「私が食べてからでよければ、あげてもいいけど」
「容器だけもらっても」
アキは仕方なく苦笑するしかない。ひのりはにこっとして、今も飾りつけの進む校舎や中庭を見ながら言った。
「それにしても、四つめの奇跡が起こるのは明日なのかな?」
「――そうだね」
去年と同じように、すでに三つの奇跡は起こっていた。カボチャが馬車に変わって、ネズミがそれをひく馬に変わって、灰かぶりの姫は美しいドレスとガラスの靴を手に入れて……そして彼女は、王子様と会うことができるのだろうか。
「何だかアキちゃん、それどころじゃないって感じだね」
「わかるかな……?」
「友達だから、ね」
ひのりが笑顔を浮かべたので、アキもつられるように笑ってしまう。
「実は、ちょっとわからないことがあって悩んでるところなんだ。これなんだけど……」
そう言って、アキはメモ帳を開いてひのりのほうに渡す。
メモ帳にはページいっぱいに数字が並んでいた。一見したところ、その数字に規則性のようなものは見られない。数字を区切る記号の違いから、それが三つずつの組に分かれているらしい、というこが推測できる程度だった。
「例の〝幸福クラブ〟の掲示板にあったんだ。これも何かの暗号だと思うんだけど、さっぱりわからなくて」
ひのりは説明を聞きながら、じっと数字を見つめている。
「三つの数字が何か一つのことを表してるんだろうけど、全然見当もつかなくて。一つめの数字は三百以下、二つめは十六以下、三つめは四十以下。わかるのは、それくらい。あと、最後だけ四つの数字が並んでる」
しばらくして、ひのりは口を開いた。
「これ、もしかしたら書籍暗号かもしれない」
「……は?」
何の暗号だと。
「特定の本を鍵にした暗号。あってるかどうかはわからないけど、三つ並んだ数字はそれぞれ、ページ数、行数、文字数を表してるんじゃないかな。ほら、本の書式って大体それくらいでしょ?」
アキはひのりから返されたメモ帳を受けとる。
「最後の数字は?」
「それはわかんない。何か別の数字なのか、鍵になる本を探すヒントになってるのかも」
「書籍暗号……」
あらためて、アキはその数字をのぞきこむ。ひのりの言うとおり、確かにその数字は一冊の本に準拠しているのかもしれない。だとすれば、その本は――
そこまで考えてから、アキはため息をつくようにして肩の力を抜いた。あとは、実際に調べてみればいいだけのことだ。それよりも、
「……ひのりちゃん、何でそんなこと知ってるの?」
と、アキは呆れた。
「乙女のたしなみ、かな」
可愛らしく笑顔を浮かべながら、ひのりはそんなふうにうそぶいてみせる。
「どこの乙女かは知らないけど、そういうことにしておくかな」
「それよりアキちゃん、もっと大変なことがあるよ」
「何?」
「私のプリンがもうありません」
いつのまに完食してしまったのか、ひのりのプリンはもう容器が空になっていた。
「……わたしのチーズケーキをあげるよ」
「じゃあこの容器と交換ね」
もうゴミになってしまったプリンを受けとり、アキはため息をつくしかない。目の前で幸福そうにケーキを頬ばるひのりを見ながら、アキは訊いてみた。
「それもやっぱり、乙女のたしなみなのかな?」
「――もちろんだよ」
迷いもなくうなずく彼女を見て、アキはくすりと笑ってしまうしかなかった。
文化祭準備のための短縮授業で、午後の時間はカットされている。
アキはクラス展示の手伝いを、「緊急の用事」のためという理由で同じ班の生徒に託すと、図書室に向かった。穏当な言葉を使えば、さぼったということになる。
図書室は開いていて、アキは中に入るとさっそく目的の本を探した。杜野透彦が一年前、失踪直前に暗号の鍵に使用したであろう本――
『ほんものの魔法使い』は、前と同じ場所にきちんと収まっていた。もしかしたら、一年前からずっと。
アキはその本を手に取ると、机の上においてメモ帳といっしょに開いた。ひのりの言うとおり掲示板の数字が書籍暗号で、これがその鍵になる本で間違いがなければ、杜野透彦のメッセージがわかるはずだった。
まず最初の三つの数字「159・14・25」は「ぶ」、次の「185・13・16」は「ん」――そうやって照会していくと、「ぶんげいぶのロッカー」という文字が現れた。最後の数字「4816」は不明。
(文芸部のロッカー……?)
杜野透彦は文芸部だったんだろうか、とアキは思った。そこのロッカーに、何かがある?
アキは本を戻すと、すぐに文芸部のある部室棟に向かった。そのあいだずっと、図書室の二階から見られていたことに、もちろんアキは気づいてもいない。
部室棟には各部で文化祭のための看板やオブジェが出されていて、文芸部の場所を見つけるのに苦労はなかった。扉は開いていたので、アキはそこから中の様子をうかがってみる。
部屋には中等部とおぼしき女子生徒が一人いるだけで、ほかには誰もいなかった。もう準備は終わってしまったのか、別の用事にでも向かっているのかはわからない。静かに本を読んでいた彼女は、ふとアキのことに気づいたみたいにして顔をあげる。
目があって、アキは軽い会釈をした。何故だかアキは、その女子生徒に見覚えがあるような気がした。
「――こんにちは。文芸部に何か用事でもあるの?」
と女子生徒は、ひどく感じのいい笑顔を浮かべて訊く。
アキはちょっと迷ってから、入口のところに姿をさらした。この人なら話しても大丈夫だと、ふとそんなふうに思えたのである。
「すみません、実は杜野透彦という人について調べているんですが」
「杜野くん?」
知っているような口ぶりだった。
「たぶん、文芸部に所属していたと思うんですが――」
アキが訊くと、彼女はこくりとうなずいている。
「うん、そうだね。杜野くんはうちの部員だよ」
過去形で話さないのは、そういう性格だからだろうか。
「それで、杜野くんにどんな用事? 残念だけど、今はここにはいないよ。というか、どこに行ったのかは誰にもわからないんだけど」
「――あの、杜野透彦さんのロッカーって、残ってますか?」
「あるけど、それが?」
「……ちょっと、調べたいことがあるんです」
細かい事情を説明していると長くなりそうだったので、アキはそれだけを言った。
彼女は少し逡巡する様子だったが、結局はアキのことを見て問題ないと判断したようである。
「うん、いいよ。こっちに来て」
立ちあがって、案内するそぶりを示す。アキはちょっと頭を下げてから、彼女のあとに従った。
文芸部だけあって、部屋の中には本がいっぱいに詰めこまれた本棚が並んでいる。部員それぞれの趣味を反映して蒐集されたらしいその本棚は、種々雑多な本でまとまりもなく埋められていた。ひっくり返ったおもちゃ箱を急いで元に戻した、という感じでもある。
女子生徒は部屋の奥に並んだロッカーのところに、アキを連れてきた。そこには靴箱のようなスチール製のロッカーが置かれている。名札を確認すると、「杜野」と書かれたものが一つあった。
ただ、そのロッカーには南京錠がかけられている。
「見てのとおり、鍵がかかってて開けられないんだけどね」
「外せないんですか?」
「暗証番号を知らないから。四桁の数字なんだけどね」
四桁――「4816」
「ちょっと、やらせてみてください」
アキはそう言って、鍵の番号を回してみた。「4」「8」「1」「6」……カチンと音がして、鍵が外れる。アキが顔を向けると、彼女はこくんとうなずいた。開けてもいいだろう、ということだ。
「――――」
アキはゆっくりと、ロッカーの扉を開けてみた。
空っぽですかすかのその箱の中には、ノートが一冊だけ置かれている。
「これは?」
訊くと、彼女はそのノートを横から無言のまま手に取った。
「たぶん日記じゃないかな……」
「日記?」
「正確には、日記という名前の小説かな。といっても私小説とかじゃなくて、だからやっぱり日記かな。とにかく、杜野くんがずっと一人で書いてたものね――」
どこか懐かしむような顔で、彼女はノートの表面をなでる。
「うん、杜野くん言ってたな。いつかこれを取りに来る人がいるかもしれないって。その時はよろしく、って」
「……これ、見せてもらってもいいですか?」
「そうだね。たぶん、そういうことになるんだと思う」
彼女は手に持ったノートを、アキに渡した。月夜の海岸で拾ったボタンを、そっと手渡すみたいに。
ノートを受けとって、アキはイスに座らせてもらう。そうして、杜野透彦の日記を読みはじめる前に、アキは質問をした。
「ところで、えと……名前を聞いてもいいですか?」
「私の?」
「――はい」
「
「わたしは水奈瀬陽といいます――澄花さんは、美乃原さんと同じクラスですよね?」
訊かれて、澄花はちょっと笑った。
「よく覚えてるね。うん、そうだよ。教室に彼女を探しに来たとき、会ってるよね」
そう、どこかで見覚えのある人だとアキは思ったのだ。牧葉澄花はついこのあいだ、美乃原咲夜を探しに教室を訪ねたとき、旧校舎にいるだろうと教えてくれた女子生徒だった。
「――ということは、杜野さんとは同級生ですよね。同じ文芸部でもあった」
「クラスは違っていたけどね」
「その……杜野さんは、どんな人でしたか?」
と、アキは訊いた。日記を読む前に、多少のイメージを作っておきたかったのだ。物語のあらすじに目を通しておくみたいに。
「――そうだね」
と澄花はちょっと目を落として、考えている。昔に読んだ大切な本をもう一度開こうとするのに、それは少し似ていた。
「もの静かな性格で、自分から前に出るようなタイプじゃなかったな。いつも静かに微笑ってて、人を傷つけてしまうことを恐れてた。たぶん、優しかったんだろうね――杜野くんの場合は、少し残酷なくらいに」
「残酷、ですか?」
何だか不穏当な言いかただった。
「……そう。時々、いないかな? 優しすぎるせいで、生きていくのが大変そうな人。いろんなことに混乱して、いろんなことがうまく処理できなくて。杜野くんはたぶん、そういう種類の人だった。空のどこかから、その欠片を一つ取ってきたみたいな、そんな人――」
アキは目の前に置いたノートに視線を落とした。
そこにはタイトルも、名前も、何も書かれてはいない。それはできるだけ、この世界に何の痕跡も残さないようにしているかのようだった。できるだけ、すべてを透明なままそっとしておきたいかのように――
何だか――
何だかそれは、アキには悲しいことみたいに思えた。
そうしてアキは、そっとノートを開いてみる。降ってきたばかりの雪にも似た、壊れやすい何かに手を触れるようにして。
※
「先生は味方なんだよね?」
と、眼鏡の少女はやや不安そうに言った。
いつもの、ピアノが置いてある旧校舎の一室である。五人はいつものように、けれどいつもよりも真剣な顔で、それぞれの場所に立っていた。
「先生自身の話によれば」
小柄な少女が、正確を期するようにして発言する。ヘッドフォンは、あらかじめ首にかけられていた。
「魔法……だっけ?」
髪の短い少年が、半信半疑といった感じで口を開いた。「信じられるか?」
「話そのものに疑わしいところはなかったと思う」
もう一人の少年が、冷静な口調で応答する。
「でも疑わしくないからって、それが本当とはかぎらないでしょ」
眼鏡の少女は反問した。
「……だよな、それに魔法って何だ? 揺らぎとか、世界を組み変えるとか、言葉を得て失った力とか」
あくまで懐疑的に、少年は言う。
「でも、嘘じゃないかも」
小柄な少女は海に向かって石でも放るみたいに、ぽつんと言った。ただしその口調は、ほとんど力のないものではあったけれど。
「――魔法でも何でもいいけど」
それまでずっと黙っていた少女が口を開く。彼女はいつものように、ピアノの前に座っていた。
「じゃあ、私たちがやってたことって何なの? 魔法? 奇跡? どうして私たちは、そんなに都合よく人の願いを叶えてあげるなんてことができたの?」
彼女は何かを叫びだしたいのを、ぐっとこらえるような口調で言った。
「それは、そうだけど……」
髪の短い少年は、気おされたように口ごもってしまう。
「本当は、私たちのほうがおかしかったんだよ。こんなふうに、世界を簡単に幸福にできるだなんて思って。最初からおかしかった。そんなことを信じられることが。世界はそんな場所じゃないのに。先生の言うことが本当かどうかなんて、問題じゃないのよ。問題なのは、私たち自身のほうだった」
「――おかしくなんてないよ」
儚げな少年のほうが、静かに告げた。
「僕たちのやろうとしたことは、おかしくなんてない」
「でも普通じゃない」
「だとしたら、間違ってるのは世界のほうだ」
少年がそう言うと、少女は言葉を失ってしまったように黙った。
「僕たちのやるべきことは、今までと何も変わらない。それが魔法だとしても、人に知られてしまったとしても、やるべきことは同じなんだ。誰かが、それをしなくちゃいけない。この不完全な世界で、せめて誰かがそれを」
「でも……」
眼鏡の少女が何か言おうとするのを、少年は首を振ってとめた。
「今はもう、これ以上話をしてても仕方がないと思う。大丈夫、前にも言ったけど、僕に考えがあるから。続きはまた明日にしよう――」
必ずしも納得したというわけではなかったが、三人はとりあえずその言葉にうなずいて、教室から出ていった。
あとには、少年と少女の二人だけが残っている。まるで、幕引き後の舞台に立ち続けるみたいにして。
「……もう、時間は残ってないみたいだ」
と、少年はさっきまでとは打って変わった、ひどく沈んだ調子で言った。
「ずっと、このままでいられたらよかったんだけど」
「――無理よ、そんなの」
少女は言いながら、拳を小さく握っている。本当は、何も手放したくないというように。
「遅かれ早かれ、いつかはこうなるはずだったのよ。先生とか、魔法とか、そういうこととは関係なく」
「そうだね」
「だって――」
少女はずっと握り続けてきたものを、そっと地面に捨ててしまうようにして言った。
「私は、あなたのことが好きなんだよ?」
「――うん」
少年は少女の手放したものを、優しく拾いあげるようにして言う。
「本当は、知ってた。そして僕の好きなのは、別の人だ。その人はやっぱり、別の人が好きで――その人が好きな人も、別の人が好きで」
「どこにも行きつかない」
うん、と少年はうなずく。
「たぶん、だから僕たちはチームでいられたんだ。誰かが誰かを留めようとしてた。でもいずれは、ばらばらになる。互いの手をつなぎあうことができなければ、月だって地球から遠く離れていってしまう。どうしてって、それをとめることなんてできはしない」
「だったら、どうして――」
少女は今にも泣き出してしまいそうな顔をしていた。
「どうして、終わりにしようって言わなかったの?」
少年は空の欠片を手の平に乗せるようにして言った。
「僕はこのクラブを終わらせるつもりはないんだ。誰かが、それをやらなくちゃいけない。それに僕らが終わりにしたところで、もう状況は変わらないよ。このまま放っておけば、本物の魔法使いはきっと、何かのために利用されることになる」
「でも、もうどうしようもない――」
少年はけれど、首を振った。
「一つだけ、方法があるんだ。クラブを続けて、誰も傷つかずにいられる方法が」
「……そんなこと、私は聞きたくない」
「それは、僕の願いを叶えることなんだ。そうすれば、みんなを守ることができる。叶えられる願いは、一度に一つだけ。だからこれは、クラブの最後の活動になる」
「……そんな願い、私は叶って欲しくない」
「願いを叶えるのは、自動的なことだ。そこに強い思いがあれば、誰にもどうすることはできない。この不完全な世界じゃ、どうすることも」
「――私はこのままでいい。いつかばらばらになったとしても、誰かに利用されるとしても」
少年は時間が止まってしまったみたいな、そんな静かな微笑みを浮かべた。
「……でも、僕はこの場所を守りたいと思うんだ」
その瞬間、最後の願いは叶えられた――
少女の小さな思いを、犠牲にして。
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