6
アキがペイント偽装説の細部を検討していると、不意に階段の下から声をかけられている。
「――こんなところで何してるの、アキちゃん?」
鹿野ひのりは、ちょっとした太陽みたいな朗らかさで言った。
「新聞部で、ちょっと……」
思考を中断して、アキはひとまずは適当に答える。ひのりは、「ああ」という顔でその腕のところを見つめた。
「だから腕章つけてるんだ」
「――うん、ひのりちゃんのほうこそ、どうしたの?」
アキは訊きかえした。今日はクラスでの作業はないはずだった。
「弓道部で、ちょっと……」
さきほどのアキの言葉を真似て、ひのりは少し笑う。
それから二人は踊り場の隅によって、ほかの生徒が通行するのを邪魔しないようにした。ガラスの壁面からは、小さくなった中庭を俯瞰することができる。
「今、〝四つの奇跡〟について調べてるところなんだ」
と、アキはまず説明した。
「新聞部で?」
「というよりは、わたし個人でのほうが近いかな」
そう言うと、ひのりはちょっと訳知り顔の表情を浮かべている。
「やっぱり、アキちゃんなら興味を持つんじゃないかと思ってた」
――どうして、とアキは一瞬訊こうとしたが、何故かそれをためらってしまっている。代わりに、
「……ひのりちゃんは、この話でまだ何か知ってることはある?」
と、訊いた。
「私は聞いただけだから、あれ以上のことはちょっと」
言われると、アキは記事を取りだしてひのりに渡している。新聞部のものだと説明すると、ひのりは感心したように目を通しはじめた。少し待ってから、アキは話を続ける――
「わたしね、もしかしたらこの奇跡は誰かが起こしたものなんじゃないかって考えてるんだ」
読みかけの記事から顔をあげて、ひのりは小動物ふうに首を傾げる。
「奇跡を?」
「そう――」
ひのりは再び、紙面に目を落とした。
「人間技とは思えないけど」
「そうなんだけど、不自然じゃないかなやっぱり。こんなに立て続けに不思議なことが起きるだなんて」
二人の前を、何人もの生徒に抱えられて、アニメに出てくるロボットの形をしたハリボテが通過していく。そのロボットは、何かもの言いたげな様子をしていた。
「……でね、その消火栓と階段について調べてみたんだ」
ハリボテが行ってしまうと、アキは続けた。
「虹と、絵だね」
ひのりは記事を見ながら確認する。
「物理的に不可能ってわけじゃないから、何か方法があるような気がして。象と飴玉のほうは、もう調べようもないけど」
「それで、何かわかったの?」
「たぶん犯人は――」
と言ってから、アキは何故だかその言葉の続きを飲みこんでしまう。
「犯人は?」
「――超絶技巧の持ち主だったんだよ」
アキの言葉に、ひのりは小さく肩をすくめた。
「何もわからないよ、それじゃ」
「うん……」
アキはうつむいて、簡単に同意する。
「――この象、本当に学校に来たのかな?」
記事につけられた写真を見ながら、ひのりは羨望するように言った。
「だとしたら、もう一度やって来ないかな。私、動物園の外で象なんて見たことないよ」
「……どうだろうね」
写真には、生後一年に満たない小さな象が写されていた。動物園への搬送中、うっかり施錠をし忘れて、檻から逃げだしてしまったのだという。そうして迷子になった小象が、たまたま学園にやって来た――
もう一つの飴玉も、似たような話だった。製菓会社がイベント用に空輸していた大量の飴が、単純な手違いから空中でばらまかれてしまった。飴のほとんどは学園に降り注いだが、幸いなことに負傷者は一人も出ていない。
そうやって二人が記事をのぞき込んでいると、いきなり声がしていた。
「こんなところでサボってたのか、鹿野――」
アキが顔をあげると、目の前に男子生徒が立っている。弓道衣を着て、すらりとした若木みたいなたたずまいの少年だった。格好からして、ひのりの先輩なのだろう。
ごく短く切った髪からは、誰かが念入りに造形したみたいな姿のいい頭部がのぞいている。ひどく均整のとれた体つきをしていて、表面的というよりは骨格的な調性が感じられた。甘めの容貌のわりには弓道家らしい涼やかなところがあって、好青年の見本といってもよさそうである。
「
と、その男子生徒は見ため通りの爽やかな調子で言った。
「あの、すいません。私、友達と話をしてて、それで――」
ひのりはいつになく慌てた様子で釈明している。
「まあ息抜きは必要だよ」
男子生徒はごく簡単に表情をゆるめて言う。どうやらこの先輩は、ひのりのことを叱りに来たわけではないらしかった。
「――そっちは、友達?」
「あ、そうです。同じクラスの、水奈瀬陽さんといいます」
「新聞部なんだな」
腕章に気づいたらしく、ひのりの先輩は言った。
「俺は中等部三年の
「いや、そういうわけじゃ……」
アキは曖昧に首を振るしかない。
「その前に先輩、どうして弓道着なんですか?」
さっきから気になっていたらしく、ひのりが横から訊いた。文化祭のために、放課後の部活動は全面禁止になっているはずだった。
「――ん、いや、自主練習」
「先輩こそ、文化祭の準備があるんじゃないんですか」
「息抜きは必要だからな」
葛村は悪びれもせずに笑顔を浮かべる。それ以上言及することが難しくなるような、そんな種類の笑顔だった。
「卑怯ですよ、先輩。それなら私だって練習したいです」
「なら、今度は鹿野も誘うことにするよ」
無邪気にそう言われて、ひのりのほうでは何故か顔を赤くしている。葛村がそのことに気づく様子は見られなかったが。
ひのりはそれから、ふと思いついたように、
「――先輩、〝四つの奇跡〟のこと知ってますよね」
と訊いた。元々、彼女がこの話を聞いたのは、先輩である葛村からなのである。
「ああ、知ってるよ。去年のことだからな」
「アキちゃんは、新聞部でそのことを調べてるんです」
「……へえ、ずいぶん酔狂なことをしてるんだな」
葛村は面白そうな目でアキのほうを見る。
「当時は、どんな感じだったんですか?」
アキは実地に話を聞くいい機会だと思って、質問してみた。
「文化祭のイベントとしては、受けがよかったって感じかな」
その頃のことを思い出すようにして、葛村は答えた。
「お祭りなんだし、先生たちもそんなに目くじら立ててる感じじゃなかったよ。文化祭の一環みたいな扱いで、怪しからんなんて怒るのはいなかったな」
「この階段にあったペイントなんかは」
と言いながら、アキは踊り場から視線を巡らせてみる。
「犯人を見つけようとかはしなかったんですか?」
「一通りのことは調べたみたいだけど、それ以上のことはなかったな。『この絵は実に見事だから学校で表彰したい』とでも言えば、名乗り出たのかもしれないけど」
アキの隣で、ひのりがくすりと笑う。
「誰か特に噂になった人とかはいなかったんですか? あいつは怪しい、とか――」
「美術部が一応は疑われたけど、それだけだったな。第一、どうやったのかもわかってないわけだし」
葛村の言葉に、アキはついさっき思いついたことを訊いてみることにした。事前に描いておいた絵を隠しておく、という方法である。
「いや、どうかな――」
と葛村は難しそうな顔をした。
「人通りが多いから、そうだとしても誰かが気づくんじゃないかな。それに、どっちにしても絵を描く時間は必要なわけだし。生徒でも先生でも、そんなに長い時間をかけて誰にも気づかれずにいられるかな?」
「……なるほど」
せっかくの思いつきだったが、やはり無理があったらしい。アキはがっかりしたついでに、葛村に向かって訊いてみた。
「先輩は、どうやったと思いますか?」
訊かれて、葛村はしばらくのあいだ黙っていたが、
「――魔法、かな」
ぽつり、という感じで言っている。
「え?」
「いや、別に意味はない。何でだか、ふとそう思ってさ。忘れてくれていいよ」
「…………」
「今年ももう一度同じようなことが起こるなら、星でも降ってくると面白いんだけどな」
冗談ぽく言うと、葛村は階段を降りていった。鹿野もそろそろ手伝いに戻っておけよ、と最後に言い残して。その行動には特に思わせぶりなところもなく、後ろ姿もすぐに見えなくなってしまっている。
「アキちゃんの参考にはならなかったみたいだね」
と、ひのりは残念そうに声をかけた。
「――うん」
けれどアキは、どこかぼんやりとした様子でうなずいていた。
「これからどうするの、アキちゃんは。やっぱり奇跡犯人説で追っかけてみる気?」
言われて、アキはふと我に返ったようにして口を開いた。
「それには一応、考えがあるんだ」
「どんな?」
「わからないことは、人に聞けばいいんだよ」
人さし指を軽く立てて、アキは得意そうに言った。
「それが、取材の基本でもあるんだから」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます