休日が終わって最初の日の放課後、アキはクラスで文化祭展示の準備を行っていた。

 すでに仕上がったグループは教室にはいなくて、半数ほどの生徒が残っているだけだった。机をどかして床で作業をする者や、大きな模造紙に鉛筆で下書きをしている者もいる。時間は空中分解してしまったみたいに、とりとめもなく動いていた。夏が終わってから、放課後の時間はゆっくりと流れているらしい。

 アキは机の上で、できあがったパネル展示の紙に飾りつけをしていた。短冊切りにした色紙を貼って、枠を縞模様にしていく。地道な作業だった。

「そういえばアキちゃんて、ステージ演奏を頼まれてるんだっけ?」

 向かいあわせに並べた机の上で、鹿野ひのりは言った。ひのりは鋏を使って、色紙を縦長の切片に刻んでいる。この少女がそれをすると、どこかのお姫様の雅な手遊びに見えてくるから不思議だった。

「うん、まあね――といっても、添え物として伴奏を頼まれただけなんだけど」

 スティックのりを色紙につけながら、アキは言う。こちらは、あくまで工場労働者的だった。

美乃原みのはらさん、だっけ?」

「そう、うちの部長と知りあいだったみたいで、それで頼まれたんだ。前にわたしの演奏を見たことがあるみたい」

「ヴァイオリンの?」

 こう見えて、アキは子供の頃からヴァイオリンを習っている。

「――うん。前に吹奏楽部に助っ人を頼まれて、校内で演奏したことあるでしょ。それを覚えてたみたい」

 そうしてしゃべっているあいだも、二人は手元で作業を続けていた。まわりでも、同じようにしゃべったりふざけたりしながら作業が行われている。

「美乃原さんて、確かピアノコンクールで優勝したことがあるんだよね?」

 と、ひのりは訊いた。

「全国でも二位とか三位の実力だって」

 空中でのりづけしながら、アキは答える。

「すごいね、そんな人の伴奏なんて」

「急に頼まれて、一曲だけだけどね。今度、一回弾きあわせすることになってる」

 アキは手についたのりを、しかめっ面をしながら紙の上で拭った。

「でもアキちゃんなら大丈夫だよね、ヴァイオリン上手だし」

「先輩の足をひっぱらないようにがんばります」

 アキは冗談ぽく笑った。基本的に、その手のプレッシャーとは無縁の少女である。

「――ところで、例の奇跡のことはどうなったの?」

 新しく色紙を取りだしながら、ひのりは訊いた。

 アキはのりといっしょにくっついた色紙を指先から引っぺがしながら、

「あんまり捗々しくはないなぁ」

 と、嘆息した。

「先生や知りあいの先輩に片っぱしから聞いてみたんだけど、みんな何も知らないって。ほとんど問題だとも思ってないみたい」

「被害みたいなものは出てないもんね」

「どれも不可解なんだけど、不可能ではないっていうか――」

「最近、放課後にかかってる音楽も?」

 例の『真夏の夜の夢』は、今日も放送されていた。このまま順調にいけば、おそらく文化祭の前日か当日まで続けられるのだろう。

「そうだね、いったいどうやってるんだろう……」

 アキは声を落として、考えこんでしまう。

「――実は、耳よりな情報があるんだよ」

 そんなアキに向かって、ひのりは不意にからかうような口調で言った。

「耳よりな情報?」

「うん、二つめの奇跡のこと……」

 アキはきょとんとして、それからすぐにその言葉の意味を理解する。

「もう一つ、ほかにも何かあったの?」

「――うん。あのね、大廊下があるでしょ」

 大廊下というのは、教室棟と特別棟を結ぶ連絡通路のことだ。

「あそこにいろんな掲示物があるのは知ってるよね」

「そりゃあ、知ってるよ」

 通路の壁には大きな掲示板があって、そこは主に部活の勧誘や催し物に関する広告などが貼られていた。

「文化祭が近いから、そういうのは全部、舞台発表の告知なんかに使われてるんだけど、その中に演劇部のポスターがあったんだ。でね、そのポスターにおかしなことが起きたんだって……」

「おかしなこと?」

「当ててみて」

 アキは腕組みをして、真剣な顔で答えた。

「生徒の一人がポスターの中に閉じこめられてしまった」

「ぶー、外れ……それじゃ、怖い話だよ」

 ひのりは少し不満そうな顔をする。もっと違う話を期待していたらしい。

「――で、本当は何があったの?」

 アキは頓着せずに訊いた。ひのりは仕方がなさそうに教える。

「そのポスターは『ロミオとジュリエット』だったんだけど、左下にロミオ、右上にジュリエットっていう構図だったの。それがね、よく見たらちょっとずつ近づいてるんだって」

「絵の中で動いてるってこと?」

「みたいだね」

「……それも怖い話なんじゃないかな?」

「ロマンチックでしょ」

 ひのりは笑顔を浮かべる。乙女の幻想の前では、どんな異議も認められないようだった。

「わからないな、演劇部でそういう演出をしてるんじゃないの?」

 あくまでも常識的見解にしたがって、アキは意見を口にする。

「そこまでは私も知らないけど、詳しいことは演劇部の人に聞いてみるしかないんじゃないかな。たぶん、本番に向けて講堂で練習中だと思うけど」

「――ふむ」

 確かに、そうするしかなさそうだった。

 アキがそのロマンチックだか怪談ちっくだかのポスターについて考えていると、不意に紙ひこうきが机の上に乗っていた。その辺の紙で折られた、ごく普通の紙ひこうきである。間違っても、ジェットエンジンが描きこまれたりはしていない。

 手に取ってあたりを見まわすと、教室の端で男子生徒の一人が自分の存在をアピールしていた。そばかすが顔に残る、ちょっと剽軽そうに間の抜けた感じのする少年である。

「――悪い、ちょっと手元が狂った」

「遊んでる場合じゃないでしょ」

「俺んとこはもう終わったんだ。何だったら、手伝ってやろうか?」

「余計なお世話です」

 言いながら、アキは紙ひこうきを投げ返している。

 ふわりと風に乗った紙ひこうきは、やがて自分の重さを思い出したみたいにして地面へと落下した。男子生徒は大儀そうに腰を曲げて、それを拾いあげている。

「……あの子、アキちゃんのことが好きなんじゃないかな」

 作業に戻ったアキに向かって、ひのりはつぶやくように言った。

「いくら何でも乙女すぎだよ、それは」

 アキは笑って、まるでとりあわない。

「どうして?」

 意外なほど真剣に、ひのりは言った。

「だって、そんなのおかしいよ。あれくらいのことで」

「――そうかな?」

 何故だか納得のいかなそうな顔を、ひのりはする。そして、彼女は言った。

「誰かが誰かを好きになるのは、そんなにおかしなことじゃないよ」

 それは物怖じも強がりもせず、まるで神様から預かった言葉でも告げるような口調だった。この少女はきっといつだって、ためらいもせずに同じ言葉を口にするのだろう。

「…………」

 アキは何となく、そんなひのりをまぶしそうに見つめている。この子のすごいのは、こういうところなんだよね、と思いながら。

 そしてアキが口にしようとした言葉は、もうどこかへ消えてしまっていた。それは秋の透明な光の中にでも、溶けてしまったのかもしれない。


 大体のところで作業を切りあげると、アキは二階部分にある大廊下へと向かった。もちろん、例のポスターを確認するためである。

 校内はどこも文化祭の準備で忙しく、ざわめいていた。できあがったばかりの、ミツバチの巣みたいな騒がしさである。みんな何かしらの仕事に追われていた。

 アキが渡り廊下までやって来ると、そこにはちょうど人がいなくて、ちょっとした時間の空白みたいな静けさに包まれていた。窓から見える中庭では、作業や飾りつけが行われている。

 掲示板は廊下の窓と窓のあいだを埋めるように設置されていて、学校からの各種通知のほかは、今は文化祭に関する広告でいっぱいだった。ここだけは、もう文化祭がはじまっているような賑やかさである。

(これかな……?)

 問題の演劇部によるポスターらしきものは、すぐに見つかった。

 一つの掲示板の半分を占めるような大きさで、それは貼りつけられていた。四隅を画鋲で留められ、縦長の画面は伝統的な『ロミオとジュリエット』のイメージを忠実に再現している。古風な衣装を着た二人が、ひのりの言うように左下と右上に分かれていた。有名なテラスの場面かもしれない。余白には、公演時間やキャスティングが記載されていた。

 絵の人物が動いたというけれど、そもそもアキは元々のポスターを知らなかった。二人の後ろにやや空白があるとはいえ、それが移動の証拠だとはいえない。最初からそうだったのかもしれないのだ。

「ふむ……」

 アキはとりあえず、じっくりポスターを観察してみた。どうやら手描きによるもののようだったが、演劇部で作ったのか、美術部に頼んだのかはわからない。人物はミュシャ風に描かれていて、かなりの腕前を感じさせた。

 しばらくそうやって観察していたが、それで何がわかるというわけでもない。肝心のロミオとジュリエットは虚しく手をのばしたまま、互いを見つめあうばかりで何も教えてはくれなかった。恋人同士なんて、そんなものだ。

「――やっぱりここは、直接聞いてみるしかないかな」

 と、アキはつぶやいた。取材の基本は、やはりおろそかにするわけにはいかないようだった。

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