学園には新築の講堂施設があって、全校集会や講演会、その他のイベントに利用されている。アリーナ風の観覧席は二階部分まであって、クッションつきの折りたたみシートが設置されていた。もちろん、音響設備や照明器具、冷暖房が完備されている。

 現在、その入口には〝演劇部練習中につき、開放はご遠慮下さい〟と書かれた紙が貼られていた。アキはそれを確認して、そっと扉を開ける。

 中は薄暗い照明に照らされていて、舞台上にだけ強い光があった。ちょうど練習中らしく、ジャージ姿の演劇部員たちが演技をしたり、セリフを読みあげたりしている。『あの軽やかな足どりでは、硬い敷石は永久に磨り減る日はあるまい』

(どこだろう……?)

 と、アキは客席を見渡してみた。当日ともなれば満席になるのだろうが、今は誰もいない。

 空席の中で行われる劇というのは、何だか不思議な感じがした。それは自分の頭の中からいつのまにか出現した、見知らぬ記憶のようにも思える。自分の知らない自分が、そこで再現されているようにも。

 アキの探している人物は、客席の中央付近に一人で座っていた。たぶん、そこから見える景色を舞台の基準にするためだろう。

(邪魔しちゃ悪いよね……)

 あまり音を立てないようにして、アキはその場所に向かった。舞台は場面が変わったらしく、背景の書き割りが忙しく交代していた。どこかの僧院から、街中へと転換する。

「――すみません、神坂かみさか先生」

 アキはできるだけ目立たないように、静かに声をかけた。

 呼ばれて、その男は驚くそぶりもなく振りむいている。アキのことに気づいていたわけでもなさそうなのに、ひどく落ち着いていた。

 神坂柊一郎しゅういちろうは演劇部顧問の、数学教師だった。二十代後半というまだ若い教師で、どことなく貴族的な風貌をしている。二重の涼しげな瞳をしていて、眼鏡の向こうにあるその目は容易に感情をのぞかせない。何もかも悟りきったように自若として、冷徹そうな雰囲気をしていた。いかにも、趣味の良さそうな格好をしている。中等部の担任だったが、アキのクラス担当ではないため、直接の面識はない。

「何だ?」

 視線のほとんどを舞台に戻しながら、神坂は言った。

「――ちょっと、お聞きしたいことがあったんです。ポスターのことで」

 ひそひそと囁くように、アキは告げる。

 神坂はもう一度、アキのことを見た。どうやら、新聞部の腕章に気づいたらしい。

「取材か」

「……そんなところです」

「どこのクラスだ?」

「中等部一年の、水奈瀬陽といいます」

「……水奈瀬?」

 何か、心当たりのあるような口ぶりだった。

「もしかして、星ヶ丘の小学校に通っていた生徒か」

 アキは、きょとんとした。

「……どうして、知ってるんですか?」

「その小学校で昔、劇をやったことがあるだろう。その劇の脚本を書いたのは、

 神坂は別段、面白くもなさそうに言った。

「あれって、先生が書いたんですか?」

 意外なことに、アキは驚くよりも呆れてしまっている。

「ちょっと頼まれたもんでな」

「……何だか、世間て狭いですね」

 アキは嘆息した。こんなところで、小学校時代の出来事とつながっているとは――

「それはともかく、何の用事だ」

 神坂はやはり、何の感興もなさそうに訊いた。アキのことは、単に自分の記憶力を確認するためだけのことだったらしい。

「――大丈夫なんですか、今聞いても?」

 アキはふと、前のほうに目をやった。舞台ではマキューシオとベンヴォーリが、漫談めいたかけあいを繰り広げている。

「練習の邪魔になるようなら、あとでも構いませんけど……」

「舞台に立ったときの具合を見るための通し稽古だ、別に問題はない。俺がいなくても大丈夫なように指導してある。それに話しながらでも、演技のチェックは可能だからな」

 当然のように、神坂は言う。

(――わたしだったら、とてもそんな余裕はないけどな)

 とアキは思ったが、もちろんそんなことをいちいちしゃべったりはしない。

「では、例のポスターについてお聞きします」

「渡り廊下のやつか」

 神坂は舞台から視線をそらさずに言った。本当に舞台のチェックも平行してやるつもりらしい。

「何でも、ポスターの絵が動いているとか」

 アキが訊くと、

「そのようだな」

 と神坂は簡単に認めた。

「事実ですか?」

「絵が動いたかどうかはともかく、

「演劇部の演出なんですか?」

「さあな、少なくとも俺の指示ではない。部員たちにも問いただしてみたが、誰も知らないということだった」

 舞台上では、キュピレット家のティボルトがロミオの友人であるマキューシオを殺害していた。報復と報復による、悲劇のはじまりである。

「そもそも、あのポスターは誰が作ったものなんですか?」

「うちの部員に絵の上手いのがいてな、その生徒が描いたものだ」

「――じゃあ何枚も絵を用意しておいて、二人が近づいていくように見せかけることは可能なわけですね?」

「いや、それは少し難しいだろうな」

 神坂はごく冷静な口調で告げる。

「手描きの絵を、そう何枚も用意できるとは思えん。それに例のポスターは、紙も含めて構図以外はまったく同一のものだ」

「どうしてそう言いきれるんですか?」

 アキは首を傾げた。

「あのポスターの裏には演劇部員全員の署名が入れられてる。舞台の成功を祈った、ちょっとした願かけのようなものだ。俺の名前も書きこんである」

「……それは確かに、コピーしにくそうですね」

「俺の見るかぎり、あれは同じものだよ。絵を切り張りした跡を完全に消せる、というならともかくな」

 舞台は再び変わって、どこかの庭園へと移っていた。ジュリエットが言う、『もしもロミオ様がお亡くなりになれば、お前にあげる。切り刻んで、小さな星屑にするがいい。そうすれば、夜空はどんなに美しく輝きわたることだろう』

「聞きたいことは、それだけか?」

「――そうですね、とりあえずは」

 アキは考えこむように、言わざるをえない。結局、一つめの奇跡と同じように、今回のこともわからないことだらけだった。

「なら、俺のほうからも質問させてもらおう」

 と、不意に神坂は言った。

「何ですか……?」

 予想外のことを言われて、アキはちょっと慌ててしまう。

「――調?」

 神坂はアキのほうに向きなおって、何故かこの教師には似あわない、強く詰問するような調子で言った。

「えと、それは去年あった〝四つの奇跡〟について調べていて……」

「何故、そんなことに興味を持つんだ?」

「どうしてって言われても、気になるからとしか――」

 舞台上ではちょうど、ジュリエットがロミオの追放を聞いて嘆いているところだった。

「…………」

 神坂は何気ない様子で、手をのばした。空中の見えない糸でもつかむような具合に、アキの頭部近くのほうへと。

 それは本当に自然な動作で、だからアキは何の不審も抱かなかった。神坂の手がゆっくりと、氷でも融かすように近づいてくる。その手がアキの頭に触れそうになって――

 けれど――

 不意に何か音の響きのようなものを、アキは感じた。振動というか、地震の揺れというか、そんなものを。それはずっと昔に感じた何かに、とてもよく似ていた。

(何だろう、これ……?)

 と同時に、神坂の手は元に戻っていた。目の前で、神坂はちょっと不審そうな顔をしている。アキがそんなことを思ううち、音の響きのようなものは消えてしまっていた。

「――えと、先生?」

 何となく不得要領のまま、アキは神坂のことを見た。

「いや」

 と、何故かごまかすように言って、神坂は舞台のほうへと視線を移している。

「髪に小さなゴミがついていた、それだけだ」

「そう、なんですか――」

 釈然としないものを覚えながらも、アキは引きさがらざるをえなかった。問いただしたとしても、この教師がまともに答えてくれることはないだろう。

 それに正直なところ、アキには自分が本当は何を訊きたいのかがわからなかった――

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