4
学園には新築の講堂施設があって、全校集会や講演会、その他のイベントに利用されている。アリーナ風の観覧席は二階部分まであって、クッションつきの折りたたみシートが設置されていた。もちろん、音響設備や照明器具、冷暖房が完備されている。
現在、その入口には〝演劇部練習中につき、開放はご遠慮下さい〟と書かれた紙が貼られていた。アキはそれを確認して、そっと扉を開ける。
中は薄暗い照明に照らされていて、舞台上にだけ強い光があった。ちょうど練習中らしく、ジャージ姿の演劇部員たちが演技をしたり、セリフを読みあげたりしている。『あの軽やかな足どりでは、硬い敷石は永久に磨り減る日はあるまい』
(どこだろう……?)
と、アキは客席を見渡してみた。当日ともなれば満席になるのだろうが、今は誰もいない。
空席の中で行われる劇というのは、何だか不思議な感じがした。それは自分の頭の中からいつのまにか出現した、見知らぬ記憶のようにも思える。自分の知らない自分が、そこで再現されているようにも。
アキの探している人物は、客席の中央付近に一人で座っていた。たぶん、そこから見える景色を舞台の基準にするためだろう。
(邪魔しちゃ悪いよね……)
あまり音を立てないようにして、アキはその場所に向かった。舞台は場面が変わったらしく、背景の書き割りが忙しく交代していた。どこかの僧院から、街中へと転換する。
「――すみません、
アキはできるだけ目立たないように、静かに声をかけた。
呼ばれて、その男は驚くそぶりもなく振りむいている。アキのことに気づいていたわけでもなさそうなのに、ひどく落ち着いていた。
神坂
「何だ?」
視線のほとんどを舞台に戻しながら、神坂は言った。
「――ちょっと、お聞きしたいことがあったんです。ポスターのことで」
ひそひそと囁くように、アキは告げる。
神坂はもう一度、アキのことを見た。どうやら、新聞部の腕章に気づいたらしい。
「取材か」
「……そんなところです」
「どこのクラスだ?」
「中等部一年の、水奈瀬陽といいます」
「……水奈瀬?」
何か、心当たりのあるような口ぶりだった。
「もしかして、星ヶ丘の小学校に通っていた生徒か」
アキは、きょとんとした。
「……どうして、知ってるんですか?」
「その小学校で昔、劇をやったことがあるだろう。その劇の脚本を書いたのは、俺だ」
神坂は別段、面白くもなさそうに言った。
「あれって、先生が書いたんですか?」
意外なことに、アキは驚くよりも呆れてしまっている。
「ちょっと頼まれたもんでな」
「……何だか、世間て狭いですね」
アキは嘆息した。こんなところで、小学校時代の出来事とつながっているとは――
「それはともかく、何の用事だ」
神坂はやはり、何の感興もなさそうに訊いた。アキのことは、単に自分の記憶力を確認するためだけのことだったらしい。
「――大丈夫なんですか、今聞いても?」
アキはふと、前のほうに目をやった。舞台ではマキューシオとベンヴォーリが、漫談めいたかけあいを繰り広げている。
「練習の邪魔になるようなら、あとでも構いませんけど……」
「舞台に立ったときの具合を見るための通し稽古だ、別に問題はない。俺がいなくても大丈夫なように指導してある。それに話しながらでも、演技のチェックは可能だからな」
当然のように、神坂は言う。
(――わたしだったら、とてもそんな余裕はないけどな)
とアキは思ったが、もちろんそんなことをいちいちしゃべったりはしない。
「では、例のポスターについてお聞きします」
「渡り廊下のやつか」
神坂は舞台から視線をそらさずに言った。本当に舞台のチェックも平行してやるつもりらしい。
「何でも、ポスターの絵が動いているとか」
アキが訊くと、
「そのようだな」
と神坂は簡単に認めた。
「事実ですか?」
「絵が動いたかどうかはともかく、絵が変わったのは事実だ」
「演劇部の演出なんですか?」
「さあな、少なくとも俺の指示ではない。部員たちにも問いただしてみたが、誰も知らないということだった」
舞台上では、キュピレット家のティボルトがロミオの友人であるマキューシオを殺害していた。報復と報復による、悲劇のはじまりである。
「そもそも、あのポスターは誰が作ったものなんですか?」
「うちの部員に絵の上手いのがいてな、その生徒が描いたものだ」
「――じゃあ何枚も絵を用意しておいて、二人が近づいていくように見せかけることは可能なわけですね?」
「いや、それは少し難しいだろうな」
神坂はごく冷静な口調で告げる。
「手描きの絵を、そう何枚も用意できるとは思えん。それに例のポスターは、紙も含めて構図以外はまったく同一のものだ」
「どうしてそう言いきれるんですか?」
アキは首を傾げた。
「あのポスターの裏には演劇部員全員の署名が入れられてる。舞台の成功を祈った、ちょっとした願かけのようなものだ。俺の名前も書きこんである」
「……それは確かに、コピーしにくそうですね」
「俺の見るかぎり、あれは同じものだよ。絵を切り張りした跡を完全に消せる、というならともかくな」
舞台は再び変わって、どこかの庭園へと移っていた。ジュリエットが言う、『もしもロミオ様がお亡くなりになれば、お前にあげる。切り刻んで、小さな星屑にするがいい。そうすれば、夜空はどんなに美しく輝きわたることだろう』
「聞きたいことは、それだけか?」
「――そうですね、とりあえずは」
アキは考えこむように、言わざるをえない。結局、一つめの奇跡と同じように、今回のこともわからないことだらけだった。
「なら、俺のほうからも質問させてもらおう」
と、不意に神坂は言った。
「何ですか……?」
予想外のことを言われて、アキはちょっと慌ててしまう。
「――どうしてお前は、そんなことを調べている?」
神坂はアキのほうに向きなおって、何故かこの教師には似あわない、強く詰問するような調子で言った。
「えと、それは去年あった〝四つの奇跡〟について調べていて……」
「何故、そんなことに興味を持つんだ?」
「どうしてって言われても、気になるからとしか――」
舞台上ではちょうど、ジュリエットがロミオの追放を聞いて嘆いているところだった。
「…………」
神坂は何気ない様子で、手をのばした。空中の見えない糸でもつかむような具合に、アキの頭部近くのほうへと。
それは本当に自然な動作で、だからアキは何の不審も抱かなかった。神坂の手がゆっくりと、氷でも融かすように近づいてくる。その手がアキの頭に触れそうになって――
けれど――
不意に何か音の響きのようなものを、アキは感じた。振動というか、地震の揺れというか、そんなものを。それはずっと昔に感じた何かに、とてもよく似ていた。
(何だろう、これ……?)
と同時に、神坂の手は元に戻っていた。目の前で、神坂はちょっと不審そうな顔をしている。アキがそんなことを思ううち、音の響きのようなものは消えてしまっていた。
「――えと、先生?」
何となく不得要領のまま、アキは神坂のことを見た。
「いや」
と、何故かごまかすように言って、神坂は舞台のほうへと視線を移している。
「髪に小さなゴミがついていた、それだけだ」
「そう、なんですか――」
釈然としないものを覚えながらも、アキは引きさがらざるをえなかった。問いただしたとしても、この教師がまともに答えてくれることはないだろう。
それに正直なところ、アキには自分が本当は何を訊きたいのかがわからなかった――
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