一つめの奇跡

 朝食はいつも通りのトーストだった。

 テレビで天気予報がはじまる頃、トースターが目覚まし時計のなりそこないみたいな音を立てて、パンを吐きだす。こんがりと焼き色のついた食パンは、甘くて香ばしい匂いを漂わせていた。

 アキはパンを取ると、薄くバター塗ってかぶりつく。母親がどこかの自然工房で見つけたというそのパンは、普通のものよりふっくらして柔らかい感じがした。

 朝食の同じテーブルには、アキの両親と弟の姿がある。小学校四年の弟である水奈瀬れんは、朝陽にあわせて起きるのが遅くなっているらしく、パジャマ姿に変てこな寝癖をつけていた。まだ夢の中にいるみたいに、半分眠ったような目をしている。

 アキのほうではすでに身支度は終えて、制服に着替えていた。長くした髪は二つにくくって、試運転まで完了してしまったような元気さである。寝起きのいいのが、この少女の特徴でもあった。

「――しばらくお天気が続くみたいね」

 天気予報をのぞきこんでいた母親の幸美ゆきみが言った。エプロン姿だったが、すらりとした身ごなしで、どことなく猫っぽい雰囲気をしている。

「文化祭まで続くかしら?」

 と、彼女は首を傾げてみせた。

「うん――」

 言われて、アキもテレビ画面に注意する。週間予報では、週末あたりまで晴れマークが続いていた。

「だといいんだけど」

「アキのところは、何をするんだっけ?」

 幸美は訊いた。

「……展示」

 アキは面白くもなさそうに返事をする。

「メインは高等部の出し物だから、クラスでやる気がないとそうなっちゃうんだよね。展示なんて、やることもあんまりないし」

「――何だ、お前のところはもう準備が終わってるのか」

 新聞に目を通していた父親の慎之介しんのすけが、ふと顔をあげて言った。大手の商社に勤めるアキの父親は、朝食の席では大抵新聞を読んでいる。読みながら、家族の会話もちゃんと聞いている。

「まだだけど――」

 アキはやはり不満げに言った。

「あと二、三日もあれば終わるくらい。調べたことを紙に書くだけだから」

「なら、もっと手の込んだことをすればどうだ?」

 訊かれて、アキは軽くため息をついた。

「……クラスの総意ってものがあるから」

「はは、中学生もなかなか大変らしいな」

 と慎之介は笑って、新聞に目を戻した。

「――お姉ちゃんの文化祭って、ぼくも行っていいの?」

 トーストをもぐもぐかじっていた蓮が、まだ眠そうな声で訊いた。

「もちろん、いいわよ。蓮はお母さんといっしょに行こうか?」

 幸美が手早く話をまとめてしまおうとする。

「……別にいいけど。家族が学校に来るのって、何だか抵抗あるな」

 アキは気の進まなそうな顔で、おおかたの中学生が思うのと同じことを口にした。

「あら、大丈夫よ」

 と幸美は朗らかな笑顔を浮かべる。

「私がアキの母親だって、みんなに宣伝してあげるから。それに私は全然恥ずかしくないしね」

 アキはため息をついて、わたしは確かにこの人の娘だな、と再確認した。

「どうせ、お母さんには何を言っても無駄なんでしょ?」

 精一杯の皮肉で、アキはそう言ってみた。が、幸美はあくまで朗らかである。

「じゃあ決まりね。お父さんは仕事があるから無理だけど、文化祭には私と蓮で遊びに行くから」

「……歓迎します」

 言ってから、アキはトーストの最後の一口を飲みこんだ。時計を見ると、そろそろ出かける時間が近い。

 立ちあがって、アキは学校に持っていく物をもう一度確認した。いい加減なようでいて、この少女にはそういうところではわりとまじめなところがあった。

「――忘れ物なし」

 つぶやいて、リボンと服の裾を直す。家を出るのはアキが一番だったので、家族はまだテーブルで食事中だった。アキはカバンを手に持って、「いってきます」と声をかけてから玄関に向かう。

 学校指定の革靴を履いて、アキはドアを開けた。九月下旬の、ほとんど夏の抜け殻みたいな空気が、そこには待っている。

 アキは小さく深呼吸をして、体を外の世界に慣らす。次第に透明さを増していく陽射しや、変わっていく空の色、そんなものに対して。それからコツンと靴音を立てて、一歩を踏みだす。

 ――すべては他愛のない、いつも通りの日常だった。

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