第三章 宇宙戦争

第19話 白鯨

 地球は人類のゆりかごである。

 しかし人類はいつまでもこのゆりかごに留まってはいないだろう。



 ―――コンスタンツィン・E・ツィオルコフスキー






 地球があった。

 緑の大部分を失ってもなお可憐さを損なわない球体が。

 月面の住民達はこの惑星を次のように呼んでいる。

 

 廃惑星地球。





 地球の大気の層というものは、宇宙から見れば限りなく希薄に見える。地上から見れば大地と宇宙とを隔てる分厚い層に見えるだろうが、ひとたび宇宙に漕ぎ出せば、その厚みは吹けば飛ぶ頼りのないものに映るのだ。

 大気の層へ、白い巨大な船体が緩やかに降下しつつあった。地球の衛星軌道から減速すると、船体が地球の丸みに引かれて落ちるのに任せていく。白磁の塗装。アクセスパネルの類の凹凸さえ見られない不気味なまでに滑らかな巨体。鯨のそれを彷彿とさせる輪郭をした船体が、今まさに地球へ降下しようとしていた。それを見たものは、次のような名前をつけたという。


 ―――白鯨。


 白鯨は、その巨体の傍らに円柱状の物体を控えさせていた。

 白鯨と円柱状の物体が、地上に対し加速を始める。速度を緩めたことで地球と言う重力に抗しきれなくなったのだ。白鯨は地上に対し腹を向けて突入を開始した。突入速度の余り圧縮された大気が赤いプラズマとなって白鯨の腹から横に噴出していた。ほぼ同時に円柱状の物体も突入を開始する。スラスタから緑色の輝きを放ち、高速で回転しつつ重力の井戸に飛び込んでいく。

 その日、地球に赤い流れ星と緑色の流れ星が落ちた。


 あるものは流れ星を見て、人工衛星の落着であると考えて、落着地点を割り出そうと考えた。スクラップを回収できたならば、貴重なテクノロジーに触れることができるからだ。

 あるものは流れ星を見て、願い事を叶えてくれるように祈りを捧げた。

 残り少ない地球上の森林に生息する動物達は流れ星を見て遠吠えをしていた。


 そして、シルバーは流れ星を発見するや指を突きつけて注意を引こうとした。なんとか自分に迫る魔の手から逃れようとしていたのだ。


 「ねぇ流れ星だよっ! 見て見て!」

 「綺麗ですわね。さあおいでなさい」


 通用しないようだった。


 「いやぁぁっ! 嫌だっ!」


 起伏の激しい成熟した肢体にタオルを巻きつけたリリウムが、にこにこと笑いながら迫ってくる。傍らにはホカホカと湯気をたてるタオルが握られていた。

 水は貴重だ。原子炉を動かせば無尽蔵の電力が得られるのは確かだ。海水をろ過して水を得ればいい。しかし、唯一にして絶対の戦力であるウォーカーを発電装置に使う愚か者はいない。よって水は雨水や、ポイント・オケフェノキーから運搬されてくる水を使うしかなかった。特に生活用水はそうだった。旧世紀ではシャワーを毎日浴びるのが当然だったそうだが、現在では水に余裕があるときに体を清めるのが常であった。

 リリウムも同じ状態というのに、他の女性と比べて格段に清潔さを保っていた。

 シルバーは手をわきわきさせつつ悪魔から逃れるべく部屋中駆け回ったが、タオルを構えじっと見つめる瞳に捕らわれ逃げられることができなってしまった。唇を尖らせると、しかられた子供のように椅子に戻って座る。


 「シルバーは別に我々人間のように垢がわくとか、汗をかくとか、代謝するわけではないのですから、嫌がる理由がわからないです。軽く拭くだけじゃないですか」

 「だって、だってさあ! リリィって手つきいやらしいんだもん!」


 直球の物言いをされると、リリウムは上品に口元を押さえて見せた。椅子に腰掛けたシルバーの背後に立つと、首から拭きはじめる。


 「いやらしいだなんて失礼ですね。可愛い子がいるからつい」

 「それ!」

 「段階は踏みますけどね」

 「私どっちかってと男の人の方がいい!」

 「それは残念」


 リリウムが肩を竦めると、首から下をごしごしと濡れタオルで擦り始めた。


 「ふんふんふふん♪」


 リリウムが鼻歌を紡ぎつつ、下は下着一枚と言う軽装のシルバーの体を清めていく。お世辞にも女性的とは言えない細い体つきから、砂や油といった汚れをそぎ落としていくのだった。胸元を拭き、腕を拭く。人の形状を模した均整の取れた人工の腕の上をタオルが滑る。

 シルバーは、人工皮膚のめくれた腕を見つめてじっとしていた。


 「リリィって、なんで綺麗にするの好きなの?」

 「え、汚れたままのほうがいいと……?」


 信じられないと言うように目を見開くリリウム。シルバーは慌てて首を振った。


 「リリィってば服も綺麗なの選んでおしゃれしてるじゃない。お給料を服とか、お化粧とかに使ってるみたいだけど、なんでかなって」


 シルバーが乏しい語彙を搾り出しつつ説明する。お給料と言うものは、名目上存在している。支給品以外に自分で使ってもいい金銭というものがあるのだ。この世界では事実上の物々交換なので給料は純粋を詰めた缶詰であったり、銃弾であったり、時に電子機器であったりする。シルバーは、食っていくので精一杯なこの世の中で、自分を飾ることに意味を見出して何の意味があるのか、という問いかけをしていたのだ。

 リリウムはシルバーの正面に回ると、せっせせっせと体を拭きつつ、俯いていた。


 「隠すつもりはなかったのですけどね―――私は昔スカベンジャーと呼ばれる一団で生まれました。母の顔は知っています。父親の顔は知りません」


 滔々と言葉が紡がれていく。悲しみをかすかに孕んだ喋り方はしかし、言い淀みはしなかった。


 「ある日別の一団に母と仲間が殺されてしまいまして……一人放浪していたところ――あの方に拾われました」

 「あの方?」


 言葉で言うならば簡単なことだ。母と仲間が殺された。心に深い傷を負ったことは間違いないだろうし、憎悪に狂い復讐に駆られていても不思議ではない。というのにリリウムの表情は暗い影を落しているだけであった。


 「ええ。チャンドラ先代リーダーですね。名前は、私もよくはわかりません。名乗ってくれた名前はどうも大昔の小説からとったらしくて。先代とチャンドラの皆さんは呼んでいます。私もあの方と。あるいは、エイハヴさまと呼んでいます」


 シルバーは大人しく拭かれるままになっていた。無邪気で幼い心ながらにわかったのだろう、口を挟むべきではないと。


 「エイハヴ様は不思議な方でした。教養深く、賢い方でした。地下鉄の住民達を率いてシェルターを自分達の領土として運用し始められたのは一重にエイハヴ様のお陰です。元々、地下鉄の住民だったと皆さんは言ってますけど――違うようでしたね」

 「どんな人だったの?」


 リリウムの表情が緩む。目線はここではないどこかを見つめていた。無意識に首から提げられたロケットを握り締めつつ、シルバーの顔を拭き始める。シルバーが目を瞑る。


 「不思議な方でしたよ。月には人が住んでいるだとか。地球には汚染されていない土地があるのだ、とか。あの方が、君は美しくなるだろうから、綺麗な格好をしていなければいけないよと言ってくれました。だから私は、いつも綺麗でありたいと思っています」

 「だからリリィ綺麗なんだ……いいなぁ、私めんどくさくってできないや」


 トントントンと扉が叩かれた。二名の視線が扉に収束する。

 リリウムはそれとなく服代わりのタオルを直すと、声をかけた。


 「今入らないで頂けますか。洋服を着ていませんので」

 「そうかい」


 扉が開かれると、フローラが顔を覗かせた。強化装置。作業服。溶接マスクを胸元に提げて、プラズマ工作機を腰にぶら下げていた。

 フローラは二人の姿を見遣ると、扉を半開きにして中の光景が外に漏れぬようにした。


 「シルバーの嬢ちゃんはあとで私の部屋においで。体について話がある。ヨゼフがリリウムを探していたから、あとで作戦司令部に行くようにしな」

 「わかりましたわおばさま」

 「はーい」








 「じゃあ座っておくれ」

 「うん。フローラさん。なにするの?」


 シルバーはフローラの研究室にやってきていた。いつものようにシャツを纏い、髪の毛を後頭部で纏め上げた格好で、機器類を搭載した台座に腰掛ける。シルバーは研究室内を興味深そうに見ていた。アンドロイドを分解したらしきもの、戦車の装甲板、古い本もあれば、星と青と赤と白を基調にした旗もかかっていた。壁中には意味不明な数式を書いた紙が縦横無尽に張られており、作業机の上には写真縦がかかっていた。写真にはフローラらしき女性の若かりし頃が映っており、傍らには逞しい男性がいた。二名の間には女の子が映っていた。

 写真のフローラは、強化装置をつけていなかった。燃えるような金髪を腰まで垂らし、今も片鱗を見せる豊満な肉体美を強調するかのように胸元の開いた服を着込んでいた。


 「気になるだろ?」


 フローラはシルバーの体中にセンサーを取り付ける作業をしつつ、彼女が何を見ているかを観察していたらしかった。

 シルバーが頷くと、フローラは口元を緩めた。背骨の強化装置がぎしぎしと鳴っている。


 「ヨゼフと私はね、昔結婚していたんだ。子供もひとりいた」

 「その子はどこにいるの?」

 「死んだよ」


 あっさりとフローラが言い切った。シルバーの首に装置をはめ込む。手首にも。首元を探る。アクセス可能なアクセス口を見つけると、棒状のパーツを差し込み、手元の端末を見つめていた。やはりねと呟くと装置をどける。アクセス拒否。応じようともしない。

 シルバーは擽ったそうに身をもじもじとさせていた。


 「戦いに巻き込まれてね……即死だったよ。苦しまずに逝けただけよかったと思うよ」

 「……ご、ごめんなさい」

 「いいんだよ。昔のことさ。ありゃあ運命だったんだろうね。あんときはドンパチ酷くてね、食っていくので精一杯だったんだ。医療品なんてありゃあしない。医者はいたけれど、即死状態から蘇生なんて無理だ。助けることはできなかったんだ」


 フローラの淡々とした物言いは達観や諦めを含んでいた。

 機器でデータを取り終えたフローラは、次にシルバーの皮膚のめくれた両腕を検分し始めた。アクセスパネルを開いて内部を見遣る。見たことも無い構造。柔らかく、強靭な特殊な樹脂によって覆われた、人と同等の機能を果たす高度な産物。機械の腕の表層に走る擦過傷が、白い軟質に覆われていた。


 「ふぅむ………」

 「どこか壊れてる?」

 「いんや。予想はしていたけれどお嬢ちゃんの人工血液が自動で補修をかけてくれているみたいだね。ナノ単位の微小機械群が機能を維持しているようだ。保守点検も必要ないだろう。本音を言うならば」


 フローラがいやらしい笑みを浮かべると、シルバーの頭に手を置いた。


 「分解したいんだけど」


 彼女の若き頃を知る者は言うのだ。旧時代の遺跡をひっくり返してきては一日中研究に没頭しているようなオタクギークであると。放浪している野良アンドロイドを研究する為に対物火器を持ち出し四輪駆動車に乗って砂漠を放浪するような女であると。

 漂わせる雰囲気は並ではなかった。声が本気だっただけに、シルバーが強張る。


 「ひえっ!?」


 シルバーが大きく仰け反った。反動で椅子がひっくり返りそうになったので、フローラが腕を噛ませた。危うく頭部を床に叩きつけるところであった。

 全くの同時に、放送が鳴り響いた。


 「作戦司令部よりシルバーへ。リーダーがお呼びです。直ちに出頭するように」


 フローラが手早く装置を外す。配線を取り去り、頭にかかっていた脳波検出装置に近い構造をした機械を外す。肩をぽんぽんと叩いた。

 シルバーは猫を彷彿とさせる軽快なステップで椅子を発った。扉に取り付くと振り返る。銀色の房が遅れて体に追従した。扉を開けると、外からどっと新鮮な空気が入り込んでくる。オイルと鉄の香りで充満した研究室の淀んだ空気と交じり合う。


 「行くねフローラさん」

 「行っておいで」


 シルバーが扉をくぐって駆け出した。廊下の突き当たりにかかると、壁に手をかけて鞠のように方向転換。兵士の合間を縫って、両手をばたつかせて走る走る。

 シルバーが去って行った後、フローラは一人背骨の痛みに苦しんでいた。自分が歩けなくなった日の事を思い出す。まさかアンドロイドの研究と、機動装甲服パワードスーツの技術が役に立つとは思わなかったが。治療は当に終わっているというのに、時折痛みがぶり返すのだ。トラウマのように。ありもしない傷が、思い出したように、満ち潮のように。


 「嫌な予感がするね」


 フローラは目を細めた。

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