十六話 大嵐の前の


 濃姫が病に倒れたという噂は織田の家中に瞬く間に広がっていった。

 心配するものもいたが、嫁入りで慣れない環境に置かれて疲れが出たのだろうということで話はまとめられた。

 実際翌日の昼頃には病状はよくなっていたらしく、美濃からの嫁入りを画策した者たちは安堵の息を漏らしたという。


 だが、ことはそう単純には収まらなかった。何故なのか濃姫のことを毛嫌いしていた土田御前がひどく彼女のことを心配したらしく、医者や薬を探そうと躍起になった。

 慌てて濃姫側がそれをやんわりと止めたため大きな騒ぎにはならなかったものの、土田御前らしからぬ行動に城内では激震が走った。


 一体、あの二人の間で何があったのかと勘繰るものも多い、というか何も思わないもののほうがいたく珍しいことだろう。

 大嵐の前の騒がしさだ、と織田の家中では密かにささやかれた、という。





「まったく、義母様も思いがけないことをするわね……」


 難しい顔で濃が眺めていたのは、縁側に並べられていた大量の炭だった。

 これで温かくしろということなのだろう、実際分厚い着物も贈られている。昨日までは全く想像もしなかった展開だ。


「ここまで来るとあちらが何を企んでいるのか恐ろしくなりますね」


 衛門もまた難しい、というよりも生気の薄い疲れた顔をしている。

 彼女は病に倒れたことになっている濃に代わり、土田御前や家中への対応、医者や薬の手配を盛大にしようとした土田御前へ気を害さないようにして断る対応、さらに見舞いの品と称した使えるものから使えないものまでの雑多な贈り物への対応をしていたのだから無理もない。

 さらにこれからの気苦労や悩みの種も盛りだくさんとなれば、こういう顔にもなる。


 美濃から侍女を衛門しか連れてこなかったのは、濃と衛門の覚悟ではあったが、正直なところ手が足りていない、と濃は痛切に感じていた。


「まあ、今日の夕方に一人来るから、それまでしのげれば何とかなるよ」

「そうですね、人が増えるのはありがたいです」


 濃たちも人手不足の現状に何も手を打っていないわけではない、昨日のうちに鷺の代役をしている忍びを呼びよせるように十兵衛に頼んでいたのだ。


「とりあえず明後日まではいてもらうから、明日は何とかなるよ」

「……明日」


 明日、という言葉に衛門の顔が凄まじくまずいものを食べたようになる。

 土田御前が言い出した謎の双六は、ちょうど明日の昼に行うことになっていた。

 見舞いに来ようとした土田御前に衛門が濃の体調が良いことを告げたら、あっさりと強引に決められたからである。

 濃側としても真意を早めに確かめたいので止めはしなかったが、その姿勢の裏に何があるのかを考えると頭が痛いのも事実だった。


「大丈夫よ、近衛は異国の姫君に仕えていたこともあるとかで作法には詳しいみたいだし、うまくやれるって」

「ええ、そうですね、彼女は有能ですから」


 今回やってくる忍びの名は近衛というのだが、彼女は衛門の血縁だと濃は聞いていた。

 衛門の家系は濃の母の一族に代々仕えてきた家系であり、主のそばで使える家臣の面を持ちながらも忍びという草の根の情報収集も得意とする一族だ。

 濃の母も衛門の叔母が仕えていたという――もっとも濃の物心がついた時には母は側にはいなかったから、その叔母の顔は知らないが。


「姫様は近衛とお会いしたのは、こちらに来てからが初めてでしたっけ?」

「ええ、最初に会ったときはちょっと変わっていて驚いたけど、有能さは確かに衛門の家族だよね。衛門は前から知っていたの?」

「いえ、私も姫様の嫁入りが決まってから彼女のことは知りましたよ、親戚と言ってもはとこでしたし、忍びとして育てられていたようですから」


 そういうと衛門は並べられていた品々に手を伸ばしていった。


「姫様、近衛が来る前にこちらを片づけてもよろしいですか?」

「ああ、そうね。私も手伝うよ」


 時は正午、助っ人がくるのはまだもう少し先の事であった。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る