二話 三人の兄、一人の妹


 稲葉山城に帰るやいなや、当然のごとく帰蝶には特大の雷が落ちた。


「帰蝶様、相変わらず貴女は何をしていらっしゃるんですか! 供もつけずに、しかもこんな忙しい日に山で狩りなど――」


 濁流のような速さで言葉を並べ立て、帰蝶を庭に正座させているのは猫毛が特徴の紅の衣の娘、衛門である。


 彼女の説教は自由奔放な主のせいか、長くきつい厄介なものであることは城内でも有名である。

 その為でもないだろうが、十兵衛は帰蝶を彼女のもとに届けるやいなや、「仕事がある」といっていなくなってしまった。


 帰蝶はこういう時は何も言わないほうが賢いという事を、十五年の付き合いで学んでいた。よって、彼女は大人しく座っていた――欠伸をしながら。


「いいですか、帰蝶様。貴女は仮にも一国の姫君なのです。それを踏まえた上で行動をなさって」

「うん、分かったぁー」


 今日は父と一番上の兄の帰還の日なので、喜びのあまり昨夜はあまり寝られなかったので、返す言葉の半分には欠伸が混じってしまう。

 通常なら益々怒られそうなものだが、説教に全力を注いでいる衛門はまるで気が付く様子がない。

 この集中力が衛門の良い点であり、欠点でもあった。


「その通りです、姫様がお強いのは確かに我らの誇りですが、万が一、想定外、守備範囲外というものが世の中には」

「ああ、うん。そうだね」


 適当なタイミングで返事をしつつ、帰蝶は空を見た。

 太陽はまだ完全に上がりきってはいないが、説教を食らうには勿体ない見事な青空である。


 これから、あと半刻は続くこの事態に若干憂鬱になりながら、帰蝶は風に形を変えていく雲を眺める。

 これもまた十五年の経験だが、こういう場合、衛門の説教を止めてくれる救いの手は片手分しかいないに加え、その半数は今城から出払ってしまっている。

 世の中諦めが肝心、と帰蝶がうたたねをしようか悩み始めた時だった。


「ん? 帰蝶に衛門じゃないか」

「喜平兄!」


 それは数少ない救いの手の声の一人だった。喜びのあまりに帰蝶が立ち上がると、衛門が怒ったように止めた。


「帰蝶様、まだ説教中ですよ」

「おー、また何かやらかしたのか帰蝶」


 怒り心頭な衛門に対し、面白いことを見つけたとばかりに帰蝶の頭をくしゃりとかき回したのは、クセのある髪を後ろで束ねたヤンチャそうな十七、八の少年、帰蝶の一つ上の兄喜平次だ。


「喜平次様、聞いてくださいよ。帰蝶様は朝から供もつけずに山に入って狩りをしていたんですよ!」

「なるほど、それなら狩っていたのは山鳥というところか――帰蝶らしい」


 クスリ、と小さな笑いをもらしたのは喜平次の後ろに隠れていた青年、帰蝶の二つ兄の孫四朗だ。彼の姿を見て帰蝶はますます目を輝かせた。


「孫兄も!」

「今日は義龍兄上が帰ってくるからな。確かに帰蝶の仕留めた山鳥の丸焼きは喜びそうだ」

「帰蝶が仕留めた山鳥は美味いもんな――料理まで手を加えられるとアレだけど」

「アレって何ですか、アレって!」


 喜平次のどこか遠くを見やる発言に、帰蝶は頬を膨らませた。

 実のところ、彼女は料理が得意ではない。過去に幾度となく挑戦し、健康に悪そうな珍味を多数生産してきた。自身もその事実を知らないわけではないが、それでも言われると膨れたくなるものである。


「いいですか、覚えていてくださいよ、いつか兄上たちが驚くような食事を作れるようになってみせますから!」

「驚くような料理は毎度見せられている。衛門」


 孫四朗は帰蝶の腰に下げられていた鳥たちをかっさらうと、相変わらず怒り顔の衛門にそれを投げてよこした。


「ちょっ、孫四朗様」

「帰蝶が料理するよりは数十倍お前の方が腕が確かだ、頼んだ」

「……随分荒っぽい救出手段ですね」


 孫四朗の言葉に帰蝶を見逃してやれ、という意味が込められているのは明白だ。

 衛門は一度深いため息をつきつつも、流石に当主の息子の願いは聞き流せないらしく帰蝶を見た。


「全く、今回だけは大目に見て差し上げます。それに、義龍さまに姫様の料理を食べさせるわけにはいきませんから」

「衛門まで!? 私そこまで料理下手じゃ――」


 あるかもしれないので、帰蝶はそこで口を閉じた。人間、嘘にも限度がある。


 この話題を引っ張ると自分で遊ばれるだけの結果になりかねないので、帰蝶は二人の兄を見やった。


「兄上たちは何をしていらっしゃったんですか?」

「あ? 槍の鍛錬だよ。龍兄と久しぶりの再会だからな、稽古をつけてもらおうと思ってよ」


 そう言って喜平次は背負っていた槍を右手で持ち、帰蝶の前でブンと振って見せた。


「今日こそは龍兄と決着をつける! いつもギリギリで負けるけど、今日は違うぜ」


 やる気は十分、そんな様子にぼそっと孫四朗が言う。


「お前が一度でも義龍兄上と勝負になったことがあったか?」

「う、五月蠅い!」

「龍兄は強いもんね」


 斎藤四兄妹の長男、斎藤義龍はとても大柄な男で槍を振るわせれば、勝てるものはいないというほど強さであった。

 おまけに例の斎藤家教育方針の為、剣も兵法も非凡であり、斎藤家の尊敬と期待を一身に負っている。


 帰蝶やほかの二人の兄とは十五ほど年が離れているが、小さいころからよく遊んでもらっていたため、遠い存在だと感じたことは一度もない。大好きな、帰蝶の自慢の兄だった。


「楽しみだな、二週間ぶりだもんね。父上も――どこまで行ってきたんだっけ?」

「尾張だとよ。そこの家老の平手とかいう奴が話があるとかで――なんだっけ」


 喜平次が救いを求めて孫四朗を見る。彼は軽く苦笑すると、代わりに応えた。


「同盟の話ではないか、ということになっている。尾張の織田は先に今川との戦で大敗しているからな、同時に斎藤とも戦うのは無理だと思ったのだろう」

「織田、ですか」


 美濃から一歩も出たことがない帰蝶だが、流石に一国の姫とはあって他国の話は耳に入ってくる。

 織田とは美濃の南の尾張の国の領主で、美濃と仲が悪く度々戦をしていたところだ。


「同盟? んなもんする必要ないだろ。織田はうちと元々仲が悪いし、それにあそこは嫡男がうつけとかで家中割れ寸前って聞いたぞ。これを機に潰しちまった方がいいだろ」


 あっさり危ない事を言う喜平次に対し、孫四朗は冷めた口調だった。


「それを見極めるべく父上と義龍兄上が行かれたのだろう」

「どうなるんでしょうかね……」


 帰蝶の顔は自然と曇った。戦となれば兄たちはもちろん領民たちにも苦労をかける。できる事なら戦のない道を選びたいが、幾度となく戦を繰り返してきたこの二国間ではしこりがのこるのは当然だ。


 だが、帰蝶は不安に思いつつもどこか安心していた。

 美濃の領主は自分の父である斎藤道三。あの才気あふれる父ならばきっと驚くような方法で、美濃に最善の道を選択してくれるに違いない。


 三人とも思うところがあったのか、沈黙がその場を支配した。斎藤家は父道三が起こした家の為、家族が少ない。必然的に各々が手を取り合って支えなくては、この乱世で斎藤は生き残れないだろう。

 だからこそ自分は――。


「帰蝶ぉぉぉぉ!」


 その瞬間、山が唸ったのかと思うような野太い叫び声がして、帰蝶たちはハッと目を見開いた。


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