一章 美濃の姫君

一話 奇なる姫君



 天文〇年、帰蝶の方、美濃国稲葉山城にて斎藤道三が娘として誕生。

 性格は天真爛漫。幼いころより父道三の指示で多くを学び、世間の姫とはまるで異なる姫君に成長されたし。


                            裏・信長公記より抜粋

 



 斎藤道三が治める美濃の国は、緑にあふれ自然豊かな国である。

 それは城主のいる稲葉山城でも変わらなかった。山の上に有るこの城の周りには鬱蒼とした深い森が広がっており、領民は立ち入ることが赦されていない。

 不気味な深い森の上に立つ城、さらに城主の持つ下剋上を体現したかのような経歴と彼のマムシという異名もあり、他国ではもっぱら美濃は梟雄の治める恐ろしい国だと称されていた。


 道三には三人の息子と、一人の娘がいた。この誰もが蝮の血をひくだけあってしたたかで、卑怯で悪質な御子である――らしい。






 朝方の森は透き通るような空気をしている。

 まだ冬だというのもあり、澄んだような空気が肺に突き刺さるように感じられるが、それでも娘はその空気が好きだった。


 娘は奇妙な出で立ちだった。

 背には弓矢、腰には仕留めた獲物らしい鳥が何匹かぶら下がり、いかにも狩人という出で立ちだが、着物は山では目立つであろう薄紅色で、さらに農民にしては長すぎる見事な黒髪を持っていた。


 娘は十七、八ほどであろうか。彼女は山にはずいぶん精通しているらしく、見た目に反して木々の間を猿のごとく俊敏に歩いていた――と、唐突に娘の足が止まった。


 立ち止まった娘の視線を捕えていたのは、地面をのんびり歩くキジだ。

 娘は切れ長の目を細めると、背負っていた弓矢を素早く構えキリリと焦点を合わせた。


 静寂がその場を支配する。この緊迫した空間が娘は好きだった。娘は息を止めると改めて弓を引き絞り――。


「姫様!」


 凛とした男の声に娘の意識が一瞬ずれた。同時に手の力が抜け矢があらぬ方向に飛んでいく。

 矢は呆けていたキジを大きくずらして地面に突き刺さり、キジに慌てたようにして飛び去って行った。


 娘は茫然とキジを見送っていたが、すぐに我に返ると振り返った。


「十兵衛、少しぐらい気を使ってよ……」

「姫様はその三十倍は城の者に気を遣わせていらっしゃるでしょう」

「そんな暴君じゃありません!」


 全くと頬を膨らませながら文句を言う娘の姿は幼く見えて、先の印象とは違い十二、三にも見える。


 不満げな娘に対し、声をかけた男はそれを気にも留めない爽やかな笑顔である。涼しげな目元が印象的な美青年、彼の名は十兵衛という。斎藤道三の家臣であり、数年前から道三の娘の教育係を務めている斎藤家でも秀才と名高い男である。


「で、姫様。如何にしてこのような所にいられるのですか?」

「見て分かりませんか。食糧確保です」


 娘は誇らしげに腰にぶら下げた鳥たちを十兵衛の顔に突き付ける。

 全て頭を撃ち抜かれていて、この娘がなかなかの腕前であることが察せられる。


 だが、その鳥を見ても十兵衛の顔は変わらなかった。彼は嘘くさい笑顔のまま、娘を見やった。


「失礼ですが、一国の姫君が朝早くから森を駆け巡って食料を探し求めるほど、斎藤家が困窮しているとは思えないのですが」

「むむ、十兵衛は分かっていませんね。今日は父上と兄上が帰ってくる日です。お二人を労うべく、兄上の好きな山鳥を取りに来たのですよ」

「一人の供もつけずに、ですか……」


 深い、それはそれは深いため息が十兵衛から放たれた。


 斎藤道三には娘が一人いる。

 彼女は戦国の常として表舞台に出る事がない為、その正体は謎に包まれているが、他国の民の間では家臣や侍女を日々悩ませ困らせている性悪な姫君であると言われている。


 噂と現実は誠に解離しやすい物であるが、その姫君が日々家臣や侍女を困らせ、時には泣かせているのは十兵衛の目から見てもまず間違いないだろう。

 何せ、目の前で鳥を誇らしげに見せつけている娘こそが、斎藤道三が娘、帰蝶姫にほかならないのである。


 頭痛でもするのだろうか、十兵衛は目を伏せるともう一度深いため息をついた。

 それを見て、流石にまずいと感づいたのか、慌てたように帰蝶が言いつのった。


「いや、流石に供を付けるべきかとも思ったけど、朝起きたら父上を迎える準備で皆忙しそうだったし、邪魔しちゃ悪いかと」

「一人で山に行かれることのほうが大いなる邪魔です」


 淡々と吹雪のような声音と張り付く笑顔に、帰蝶は一瞬顔を強張らせたが、すぐに気を取り直したのか胸を張って言う。


「大丈夫、ちゃんと置手紙はしてきましたから!」

「その置手紙を見た衛門殿がお怒りのあまりに襖を破壊され、城内はちょっとした騒動に発展して、私が山まで姫様をお探しするはめになったのですが?」

「そ、そう転ぶとは予想外でした……」


 衛門、というのは帰蝶の乳母の娘で、幼いころから帰蝶に仕え、彼女に散々振り回されてきた挙句、いろんな意味でたくましく成長した帰蝶の侍女である。


「それぐらい予想してください、いつもの事でしょう」

「という事はいつものように誠心誠意をこめて謝れば、事は丸く収まるのでは!」

「……姫様、仏の顔も三度という格言を知っていますか?」


 十兵衛の問いに帰蝶が答える事はなかった。その時にはすでに彼女は城に向けて、姫君どころか人としても信じられないような速さで山を駆け上がっていた。


 その様子にまた深いため息をついたのち、十兵衛もまた彼女に劣らない速さで彼女の後を追っていった。






 油商人から下剋上を繰り返して一国の主まで上り詰めた斎藤道三の教育方針は、おそらく他国ではまるで見ることが出来ない珍しいものであった。


 曰く、何があっても生き抜け。


 戦の最中に主が討たれては話にならない。どんな時でも生き延び、家臣に守られるのではなくともに戦えるようになれ。命さえあれば、己の才により国を取ることは難くなし。


 その方針は娘である帰蝶にも例外なく適用された。幼いころから武術や兵法を叩き込まれ、山に親しみ山と生きてきた彼女は一国の姫君にしてはいろいろな意味で特殊に育った。

 この特殊さは時に城の者を嘆かせる一因となりもしたが、それ以上に彼女を慕う一因ともなる――かもしれない。


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