裏 信長公記
石崎
裏 信長公記
序
201〇年、8月のことだ。
私は3年ぶりに両親と妹と共に、S県の山間部に位置する祖母の家へ訪れていた。
うだるように熱くねっとりとした空気が嫌になる一方で、空だけは青く景色がひどくいい、そんな良く晴れた夏の日だった。
築50年は優に越える祖母の家は、家主が5年前に老人ホームに行ってしまったのもあって、庭の手入れや壁の補修が満足にされておらず、少し寂しい雰囲気をまとっていた。
多分、この重悲しい空気はこれから加速していくのだろう、と私はぼんやりと思った。何せこの家の主はもう帰ることが無い、先月天寿を全うしてしまったのだから。
この日、私達一家が訪れたのは祖母の遺品整理の為だった。
遺品といっても祖母は施設に行く前にあらかた片づけていたので、残されたものはそう多くはない。
彼女が捨てきれなかったものや、思い出の品の中には、今となっては使い方も見当がつかないレコードの音盤なぞもあって、片づけはなかなか楽しかった。
特に私は母が祖母と不仲であまり会う機会がなかったため、気楽であった。
そんな中、私は偶然それを見つけたのだ。
それは私が仏壇の埃を掃除するさいのことだった。
何年ぶりに動かすのか分からないそれを、やっとの事で動かしてみると、カタリという乾いた音がした。
人の頭ほどの大きさの桐の箱だった。紫のヒモで綴じられたそれは、一目で普通のものではないことを主張していた。
間違いなく、祖母の遺品の品々の中でも最も異質で、明らかに奇妙なものであった。
予期せぬ発見に私の咽がごくり、となった。
仏壇の裏に何故これがあるのか、否、隠されているのかーー好奇心がむくむくとわき上がってくる。
私は家族を呼ぶことをせず、好奇心のままそれを取り出した。まあ、ちょっとした独占欲という奴だ。
ひんやりとした桐の箱を恐る恐る開けてみる。古びた紙の匂いがした。
中には一冊の和綴じの本が眠るように横たわっていた。
博物館で見るような、といったら安直な表現になるだろうか、私がおっかなびっくり本を手に取ってみると、本は思ったよりも重く、かび臭いような匂いが強くなった。
大分古いものなのだろうか、表紙には達筆な文字が墨らしきもので書かれていた。
一瞬読めないかと思ったが幸いにも、表紙の文字は私にも読める範囲で崩されていた。
「……信長、公記?」
思わず私は眉を潜めた。
信長公記とは戦国時代の武将織田信長の家臣、太田牛一が信長について記した記録書であり、ちょっとした歴史愛好家ならば知っている有名な本である。以前、歴史マニアの友人がそう熱く語っていた。
何故、これがここにあるのか、そう思い、だが気が付いた。
達筆に書かれた文字の上、何かもう一字、少し間隔を空けたところに書いてあった。
『裏 信長公記』 その表紙には確かにそう書かれていた。
*******
信長公が死んで、もう三十年になるのかと思うと、時の流れを感じざるを得ない。
つい先月、自分の主であった信長公の生涯をまとめる史書がようやく完成した。
これは自分の知る信長公を記したものであるが、ある一点についてまるで記述をしていないことには呵責を覚えずにはいられない。
無論、それは生前に信長公ご自身が書にしるしてはならぬといったあのお方の事だ。
あのお方ほど信長公の天下への道を支えた方は、おそらくいない。
そして、信長公に影のように付き従っていたあの方の花のような柔らかな笑顔を、信長公の周りにいて覚えていないものはいないだろう。
信長公はあの方の特異な処遇ゆえ、何人にも記すことを許さなかった。故に自分もまたあの方のことをほとんど記さずにいた。
だが、こうして自分の生の限界も見えて来ると、あの方に関するものがこの世にただ一つも残らないこの現実が誠に悲しくてならなず、先日、ついにある決意をすることとなった。
自分はここに一つ、信長公記の偽書を作ろうと思う。無論、あの方に関する偽書だ。
後世の人に信じてもらえなくとも、嘘と罵られても構わない。だが、信長公とあの方の記憶が何処にも残らないことだけは耐えられないのだ。
故に私はこの残された命を、この偽書につぎ込もうと思う。
斎藤道三が娘、帰蝶の方、あるいは濃姫。
それがあのお方――信長公が心から愛し、誰よりも信頼した娘の御名だ。
裏・信長公記 より抜粋
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