三話 嫁入り話

「帰蝶ぉぉぉぉ!」


 それはまさしく、獣の咆哮のようなすさまじい声だったが、帰蝶たちは合点がいったらしい。


「この声って――龍兄!?」

「だとは思うが」


 懐かしい一番上の兄、斎藤義龍の声だが、どうも様子が普通ではない。それに父と義龍が帰ってくるのは昼過ぎと聞いていた。

 怪訝な帰蝶と孫四朗に対し、どこか能天気な喜平次が声をあげた。


「おーい、龍兄! 帰蝶ならここに」

「帰蝶ぉぉぉぉ!」


 喜平次が言い切る前に、がさり、と帰蝶の背後の茂みから熊が飛び出してくるような気配がした。

 そして、次の瞬間には帰蝶の体は空中に浮き、その熊の気配の人物に米俵のように担がれていた。


「ほへ!?」


 一瞬奇声を上げたものの、首をめぐらしてみれば帰蝶を担いでいるのは、やはり帰蝶の良く知る人物だった。

 二メートルはあろうかという大男、彫りの深い精悍な顔立ち、勇ましい無精ひげ、帰蝶の兄にして斎藤家嫡男、斎藤義龍である。


「た、龍兄。えーと……おかえり?」


 状況がよく呑み込めない中、取りあえずいつもの習慣で挨拶をすると、帰蝶を担いでいる熊のような大男、義龍も多少は落ち着いたらしい。


「うむ、ただいま」

「あの、龍兄? どうして私は担がれているのでしょう?」


 数秒義龍は沈黙し――その後その場に爆弾を投下した。


「夜逃げするぞ」

「は?」


 間抜けな声を上げたのは帰蝶ではない。彼女はそれどころではなかった。

 常に冷静沈着と称される孫四朗が、彼にしては珍しく間抜けな顔をさらしていた。


「おい龍兄、夜逃げってなんだよ。それに帰蝶をかついで」

「そうです、私はお米と違って歩けますよ」


 米俵のように担がれるのは癪だったので、ここぞとばかりに帰蝶は主張するが義龍はそのまま動かなかった。


「いったい、どうなさったのです。義龍兄上らしくありませんよ」

「……親父殿が、尾張との話を受けた」


 ボソッと地を這うような声で義龍が言った。


「それが帰蝶とどう関係があるんだよ?」


 首を傾げる喜平次。帰蝶も全くの同感だった。だが、孫四朗だけは違うようで彼はすぐに何かを悟ったらしく顔色を変えた。


「まさかその話とは」

「そのまさかだ。――帰蝶を尾張の嫡男にと」

「……へ?」


 帰蝶は自分の名前だ、そして帰蝶を尾張の嫡男にという事は――混乱した帰蝶が真実にたどり着く前に喜平次が大声を上げた。


「帰蝶をうつけの嫁にやるって!? 冗談だろ」

「わ、私が嫁入り……」 

 

悪名高き織田嫡男、そのもとに帰蝶が嫁ぐ。

 なるほど、帰蝶とて戦国の姫、政略結婚も覚悟はしているし、当然言葉の意味も理解できる。

 だが、それはまだ先の事のように思えていたし、よりにもよって家中割れ寸前の織田家に嫁ぐなど――言葉が浮かばなかった。


「どういう事だよ、龍兄! なんで帰蝶が」

「喜平次の言う通りです、帰蝶を尾張にやって美濃に何の利があるのですか!?」

「俺もそう思うし、俺は反対した! だが、親父殿は現に織田の使者を連れてきている。親父殿は帰蝶をうつけにやるつもりだ」


 今度は兄たちが言葉を無くした。

 日ごろ喧嘩もするし、口答えもする兄妹だが、可愛い妹であることは間違いない。このとんでもない縁談話を承知できるはずもなかった。


「親父殿は今日中に帰ってくるだろう。俺は、今のうちに帰蝶を隠して、何とかして親父殿を説得するつもりだ。俺は帰蝶を尾張になど、やれぬ」

「龍兄……」

「俺もその案にのるぜ。親父の事は尊敬しているけど、これとそれは話が別だ」


 喜平次は彼にしては珍しく真剣な表情をしていた。義龍は一瞬驚いた顔をしたものの、すぐに頷いた。


「すまぬな、喜平次」

「何、俺は俺が正しいと思ったことをやるだけだぜ」

「喜平次」


 呆れたように言うのは無言を貫いていた孫四朗であった。 


「何だよ、孫兄。あんたは親父殿に従うのか」


 喜平次の声はとげとげしい。だが、孫四朗は微笑を浮かべて首を振った。


「俺は常に斎藤家の為に動くし、父上の才は信頼している――だが、今回は義龍兄上が正しいと思う。帰蝶が織田に嫁ぐことは美濃にとって悪手だ」

「孫四朗……」


 三人の男の目が交差した。

 互いによく似た、意志の強い光を浮かべた瞳に、口元に浮かべた微笑。目に見えない熱気が彼らからは溢れていた。


 帰蝶は絵を見るように三人の姿を見ていた。三人はゆっくりとこちらを向き、帰蝶を見て笑った。


「帰蝶安心しろ、親父殿は必ず説得する」


 帰蝶は何も言えなかった。

 尾張に自分が嫁ぐ、それは嬉しい出来事ではないことは確かだ。

 そして、兄たちが自分を守ってくれようとしている事は嬉しい。だけど、何なのだろうか。何かが引っかかり――納得が出来ない。


「父上が帰ってくる前に、早急に帰蝶を隠さなければならないでしょう。我らの敷地ではすぐ父上に感づかれます、寺社のどこかと話を付けるのが一番かと」

「よし分かった、じゃあ俺がひとっ走りして話を付けられるようにする」

「家臣たちにも説明が必要だな。帰蝶の事は皆好いている、きっと納得してくれるだろう」


 帰蝶の目の前で、どんどん話は進んでいく。

 帰蝶の為に、美濃の為にと動いてくれることは嬉しい、嬉しいのだが――何故か、帰蝶は納得がいかない気持ちになった。

 自分の知らないところで勝手に決まっていく、自分の為なのかもしれないがどうも釈然としなかった。


「よし、それじゃあ」

「ま、待ってください!」


 しばらく黙っていたからか、帰蝶の声は少し上ずってかすれてしまった。だが、気にすることなく帰蝶は兄たちの前へと足を進めた。


「帰蝶? どうかしたのか」


 怪訝な兄たちの目線が降ってくる。

 帰蝶は顔を上げた、木々の隙間から差す木漏れ日がとてもまぶしく感じられた。


「……兄上たちの気持ちは、嬉しいです。でも、ごめんなさい、私は隠れません」

「なっ、帰蝶! お前はあの尾張のうつけの所に嫁ぐっていうのか!?」


 喜平次が目を向いた。他の兄も同様で、言葉も浮かばずに茫然とした兄たちを、帰蝶はじっと見た。

 それは先ほど兄たちのように、意志の強い光を宿した瞳に微笑を携えた、あの顔だった。


「いえ、それも違います。多分私は嫁入りをしません」

「では」


 言いかけた孫四朗の言葉を帰蝶は遮った。


「私の父上は斎藤道三。私には父上が何の考えもなく、私を尾張にやる理由が分かりません。だからきっと何かお考えがあるのだと思います」

「帰蝶……」

「まず、父上と話をし、そのお考えを聞くべきです」


 はっきりとした帰蝶の声音は日ごろとは別人のような覇気を伴っていた。

 そう、それこそまるで斎藤道三のような底知れない何かを抱えた覇気だった。その思いもよらない成長に、兄たちは皆何も言えなかった。


 帰蝶はその変化に気が付いているのかいないのか、すぐにへらりといつものように笑う。

 彼女の周りの覇気が嘘のだったかのように、溶けて消え去った。


「大丈夫、もし兄上たちが心配するような理由でお嫁に行けという話だったら、ちゃんと自力で逃げるから。私の逃げ足が兄上たちよりも早いのは知っているでしょう? 私は自分が納得できないのに、お嫁になんか行きません!」


 兄たちは沈黙していた。それは帰蝶が一瞬見せた斎藤家の覇気というべきへの驚きかもしれないし、帰蝶の予想外の行動への困惑だったかもしれない。 

 帰蝶は兄たちを笑顔で見やった。 


「まず、衛門に話をつけて城の人を説得します。そして父上と、話をします。だから――」

「……良いだろう、帰蝶自身の事だ。親父殿としっかり話いて決めると良い。そしてもしもの時は兄を頼れ。皆、お前の味方だ」


 やがて、仏頂面のまま義龍が言った。

 元が強面ゆえに恐ろしい顔つきではあったが、帰蝶はそれが心配の為であることを知っている。

 だから彼女は柔らかく微笑んでそれに応えた。


「もちろんです」


 帰蝶は胸の奥でざわめきを感じていた。

 不安とは違う、それは何か新たな期待のような、戦前の高揚のようなざわめきであった。


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