四話 父の帰還



 正午、城内は異様な緊張に包まれていた。無論城主、斎藤道三が帰ってくるという理由もあるが、それ以上に大きいのは彼女の存在だった。


 普段の帰蝶は身だしなみなど全く気にせず、表情を万華鏡のように変えながら城内を走り回る童女である。

 だが、今の帰蝶は普段は身にまとわない鮮やかな紅の着物に、薄化粧をし、普段とは異なる冬の湖面のように、表情は読めないが鋭さを思わせる顔でじっと門の先を見つめている。


 帰蝶の後ろには影のように衛門が控えている。そして彼女たちから少し離れた奥に三人の兄と家臣たちがいる。

 明らかに異様な出迎えだったが、異を唱えるものは誰もいなかった。


 やがて、その時は来た。

 馬の蹄の音が初めはどこか遠くで、次第にだんだんと重さを伴って近づいてくる。

 何とも評しがたい緊張感がその場を包んだ。


 帰蝶は頭を軽く下げ、そのすぐ後ろで衛門が膝をついた。

 斎藤家の兄たちも同様に軽く頭を下げ、他の家臣たちは衛門を除いてそろって額づける。


 間もなく、黒馬を先頭にした一行が姿を見せた。


「今、帰った」


 低い、しゃがれたようでどこか耳に残る声、これが斎藤道三の声であった。

 帰蝶は顔を上げ、馬上のその人を見つけた。


「父上――」


 上手く続ける言葉が浮かばなかったのは緊張の為だろうか。

 剃髪した修行僧のような男であった。蓄えた髭と鋭い目元が見るものの背筋を伸ばさせる、そんな男が帰蝶の父親の斎藤道三である。


「珍しいな、帰蝶。お前からの出迎えとは」


 道三の目元が心なしか緩まった。

 その眼は愛娘を見るものであり、同時にその成長を試すような色も持っていた。


 今、自分は試されているのだ、と帰蝶は感じた。手のひらがじとっと汗ばむ。


「……この度は尾張の使者との会談、無事に終えられたと聞きました」 


 やっとのことで出た言葉は、喉の奥に引っかかって自分のものではないように聞こえた。

 帰蝶の目と、道三の目が交差した。


「義龍に聞いたのか」


 緊張をあらわにしている帰蝶に対し、道三は全くいつもと変わらない。天気を聞いているかのような、軽い調子であった。


 帰蝶は一つ息を吸った。

 目を閉じ、深く、大きく、生まれ育った美濃の空気を吸い込む。

 瞳を閉じれば背後の視線がこちらに向いていることが一層よく分かる。帰蝶はゆっくり目を開けると、微笑んだ。


「父上、長旅にお疲れかとは存じますが、尾張の件で即急に父上とお話ししたいことがございます。よろしいでしょうか」


 一息に告げた言葉は乱れもなく、自分の声なのだがやけにハッキリと聞こえた。


 道三は帰蝶を黙ってみていた。

 何かを見定めるかのような視線に焦りや緊張を感じたが、帰蝶はそれを押し殺して道三を見つめ続けた。


 どれくらいの時間が立ったのか、帰蝶には永遠にも思われるような時間だったが、案外数瞬だったのかもしれない。道三がやがて応えた。


「よかろう――来なさい」


 斎藤道三の目元が少し和らいだ、ように帰蝶は感じた。






 帰蝶が連れてこられたのは父が私用で使う部屋であった。

 道三が部屋の奥に腰を下ろしたので、帰蝶はその前に相対して座った。

 帰蝶と道三以外、その場には誰もいなかった。道三がそうせぬように、と言ったからだ。


 道三と相対すると、やはり背筋が伸びるのを帰蝶は感じた。

 やはり、この人は違う、と体の全てで分かるような人であった。

 どう話を切り出そうかと帰蝶が言葉を選んでいると、道三が先に口を開いた。


「そう固くならなくてもいい。いつものように話せ――で、なんの用だ」

「……尾張の件です」

「尾張の?」


 興味がなさそうに返してくる道三を帰蝶はもどかしく思った。

 分かっているだろうに、あえて答えない辺りが斎藤道三らしいのかもしれない。


「龍兄から聞きました。尾張と同盟を結び、その証として私が織田家に嫁ぐことになると」

「なるほど、その話の真偽を確かめに来たということか」


 道三の表情は全く読めない。

 だが何の興味もないように言う背後で、どこか面白がっているような気配がした。


「いえ、私は織田家にまともに嫁ぐとは思っていません」

「……ほう?」


 道三の右の眉がひょいと上がった。

 この仕草は彼が面白いと思ったり、興味を持った時によくする仕草であった。 

 帰蝶の緊張が少し緩和される。


「私は今回の嫁入りは、同盟とは別の目的で行われるのだと思っています」


 道三は何も言わなかった。

 ただ帰蝶を試すように、無言で先を促す。


「織田家は現在家中割れ寸前だと聞きます。その原因の一つとも言われる嫡男に私が嫁いで同盟の証となったとして――美濃と利がある関係を長期的に構築できるとは思えません」


 そこまで言って、先を続けることが少しためらわれた帰蝶は躊躇する。

 だが、道三の視線は変わらず黙って先を促してくる。帰蝶はしばしの沈黙ののちに重い口を開いた。


「……これはただの推測ですが、父上は私が織田にはいる事で織田家を完全に内部分裂させて、隙を見て尾張を滅ぼすおつもりなのではないでしょうか」


 帰蝶が織田家嫡男に嫁げば、間違いなく嫡男を当主にしたくない派閥の者は反感を覚えるだろう。

 あるいは、帰蝶が嫁ぐことで当主の座が近くなってしまったと焦るかもしれない。

 確実に何らかの争いが起きるだろう。


 仮にそうなったとしても、嫡男が上手く争いを収められて帰蝶が当主の正妻の座に収まれれば美濃としては利になる。 

 だが、うつけと噂されるような嫡男が家をまとめ上げられるのか。


 それよりも美濃に確実に利益になる方法はある。

 家中割れの中、道三の娘である帰蝶を誰もが何らかの形で都合よく利用できるものなら利用したいと考えるはずだ。

 そこに帰蝶がつけこみ、家中割れを促進させ――美濃がその隙に尾張を潰す。美濃にとって一番良い方法だ。


 帰蝶はじっと道三を見た。

 正直、単純な目的で終わりに嫁ぎに行くことではないことは確信しているが、何の目的で行くのかはあまり自信がなかった。

 だが、その不安を面に出すわけにはいかず、帰蝶は沈黙し斎藤道三の出方を窺った。


「帰蝶」 


 どれほどの間があったのか、道三が重い口を開いた。

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