十話 喧噪

 少年たちの喧嘩は、ただの喧嘩にしては嫌なにおいを帰蝶の鼻に感じさせるものであった。


「うるせえ、犬千代。俺たちは忙しいんだよ」

「それでも、今お話ししなければならないのです」


 凛とした利発そうな声、くりっとした大きな目、忘れもしない嫁入りの日に信長に連れ出されて出会った少年の犬千代である。


「俺たちは別に、なあ。それにお前には関係ないだろう」

「関係あります! そのような若様の顔に泥を塗るようなことを、俺は見過ごせません!」


 よほど怒っているのか、犬千代の顔は真っ赤だった。

 その必死な姿があまりにも見過ごすには健気で、かといって間に入るわけにもいかず帰蝶はそのさまを呆然と見てしまっていた。


「若様若様ってお前はいうけどさ、あのうつけのどこがいいんだよ。あんな馬鹿はそうそういねえ、どうせ直ぐに廃嫡だ――だったら今のうちに貰えるものだけ貰っておいて、なあ」

「お前もたいがい馬鹿だよな、うつけにはお似合いかもしれないが」

「な」

「もしかして本当は怒ったふりして味方にしてもらいたいんじゃねぇのか? 犬っころのくせにやけに今日は食いつくしなぁ」


 ゲラゲラと男たちは下品に笑い出す。

 体格的にも人数的にも圧倒的に優勢である彼らにとって、犬千代は何の敵でもないのだろう。

 その胸がむせかえるような光景に帰蝶は眉を顰め、その一方で犬千代が悔しそうに、されど刃のような一点の曇りもない目で彼らをにらみつける姿に嫌な予感を感じた。


「で、どうなんだよ、お前も本当はこっちにつきたいんだろ? 良いんだせ、口をきいてやっても。お前は結構かわいい顔しているし、まあ態度によっては聞いてやらなくもないぜ?」

「おいおい、あんまり脅すと子犬がちびっちまうぞ」


 ニヤニヤといやな笑顔ばかり浮かべる男たちに、犬千代は肩を震わせながら告げた。


「言い分はもう十分だ――お前たちに武士の心はない」

「あ? なんだよ、武士って。お前だって荒子の田舎者の四男坊のくせに」


 一瞬で剣呑な瞳を帯びた男たちに対して、もっと恐ろしい思いつめたような眼を犬千代は向けた。


「俺、知っているんです。あんたたちが若様に対して不義を働いていることだって、たくさん、しっかり知っています」

「……あ? 犬千代、証拠もねえことを大げさに言うんじゃねえよ」

「いいえ、証拠だってあります」


 そういうと犬千代は懐から一枚の紙きれを取り出した。


「あんたたちの様子がおかしいと思って結構前から調べていたんだ。これが証拠だ」

「おま、それをどこで」


 帰蝶の位置からではそれが何なのかは確認できないが、男たちは身に覚えがあるのか顔色を物騒なものへと変えていく。

 犬千代はそれに全くひるむ様子がないが、帰蝶はその姿を見て血の気が引いていった。もう、この後の展開は大体わかった。


「これだけじゃなくて証拠はまだたくさん隠してある。あんたたちに納得がいく理由や信念があるのなら、考え直そうかと思ったが――この件を若様に裁いていただく!」

「ああ……」


 うめいたのは男たちではない、帰蝶だった。若さゆえの暴走、過ちなのだろうが、このままでは最悪の展開に突入してしまう。


「ちっ、しゃあねぇな」

「何ですか、反省するにはもう遅」

「証拠は隠しているんだろ? だったらお前を殺せば済む話だ」

「へ?」


 よっぽど予想がつかなかったのか、犬千代の目が点になった。

それに構わず男たちはそれぞれの得物を構え、剣呑に笑いかける。


「まあ、この道はそうそう人がこねぇし、とどめは後でさしてやるからな」

「まあ、犬っころのくせに余計なことに首を突っ込みすぎたんだよ」


 そう言って、男はさやに収めたままの刀を犬千代に向けて振り上げる。

 鳴くキジは撃たれて闇に葬られる――犬千代はやっと理解をしたようだが、それでもこの手づまりな状態に何をすればいいのかわからず、ただ信じられないように目を丸くして立ち尽くしていた。

 そして、鈍い音があたりに沈み込むようにした。


「え?」


 不思議そうな声の主は犬千代だった。

 彼だけでない、その場のだれもが予想だにしなかった展開に皆が皆目を丸くしていた。


 鈍い音の主は犬千代に刀を振り落とした男で、今彼は床に倒れている。

 そして犬千代と彼の間にどこからともなく現れたのは、この場に非常に不釣り合いなやんごとなき地位の娘であろう市女笠を被った女――帰蝶だった。


「おま――」


 帰蝶は一対一の戦闘では大して強くない。

 元々の小柄の背丈や筋力がどうしても邪魔をしてしまい、力負けをしやすいのだ。

 だからこそ、斎藤道三は彼女に戦闘ではない武術をとりわけ教えこんだ。

 柔軟性を武器に常人では動けないような動きをする体術や多人数相手に逃げる攪乱術、弓矢や吹き矢などの相手と距離をとって戦う武術、そして一瞬の隙に敵を葬り去る暗殺術。

 そんな帰蝶にとって、帰蝶の登場程度で動揺し茫然としている男三人など敵ではなかった。ふっと、薄布越しに帰蝶は微笑み、その体がグッと沈み込んだ。


「がっ!?」


 帰蝶は即座に男のあごを片手で殴りあげると、空いた手で地面にたたきつけ、首筋に容赦なく手刀を落とした。

 流れる水のように無駄のない動きに、誰も何も動けなかった。

 気が付けば状況は一対二、誰の目にも明らかなくらいに逆転されていた。


「こ、この女!?」


 慌てたように男が刀の鞘に手をかける、この場で殴ってすむような生易しい敵ではなく切り殺さなければすまない敵だということにやっと気が付いたのだろう。

 だが、もう遅い、帰蝶に対して刀を今抜いている時点で勝負は決してしまっている。


「な!?」


 帰蝶は男にふわりと近づくと、刀を持つ手に手刀を叩き込み、乾いた木が割れるような音と共に呻きながら崩れ落ちる男の顔面に左ひざを叩き込んだ。

 鈍い嫌な音がした。

 帰蝶がその場に現れてまだほんの少し、にもかかわらず三人の男たちが地面に呻きながら伏せていた。


「ふう、尾張の男もこんなものですか」


 帰蝶は乱れた着物についた土を軽く手で払うと、素早く着物を整える。明らかに帰蝶の圧勝であった。


 帰蝶は地面に伏せる男たちを淡々とした目で見ながら、とどめとばかりに男たちの関節を容赦なく外していった。

 どんなに優勢であっても決して油断をすることなく、打てる手は全て打つなり――父、斎藤道三のありがたい教えである。

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