九話 散策

 織田信長が正妻、お濃の方の侍女は戦国の嫁としては珍しいほどに少なかった。

濃に美濃から付き従ったものは濃の乳母子である衛門ただ一人、それでは流石に少ないということで尾張に来てからはもう一人お鷺という女を雇ったらしいがそれでも二人である。

しかもお鷺は病弱であるのか、濃に嫌悪されているのか中々姿を見せなかった。

そのため衛門が風の噂で聞いたことによると、土田御前やその侍女たちは「侍女を二人しか持たず、あまつさえ一人があのようなお方とは美濃の姫君はなされることが違う」とよく笑いものにしていたらしい。


「……まあ、お鷺は存在しない人だからね」


 そう呟いてお鷺はぼんやりと空を見上げた。

 見事なまでに澄んだ青空に、どうしようもなく気持ちが躍るのは無理もない事だろう。籠の中から見る空と、外から見る空がどうして同じといえようか。


 空色の地に白い鳥が描かれた着物に草履をはいた彼女の姿は、市女笠という笠に虫たれ布を付けたかぶり笠により顔を隠されている。

 一応嫡男の正妻の侍女であり、更に関わるだけで土田御前の怒りを買う可能性が高い人々の関係者であるからして、呼び止められることは少ないだろうが、念には念を入れお鷺は一応人気が少ないところを見計らって城下へと飛び出していた。


 尾張の城下は随分と賑やかというよりは騒がしい、活気に満ちたものだった。

 お鷺が初めてこの街を訪れた時と変わらない景色に、以前よりも楽しく感じるのは一重にお鷺の身分が変わったからだろう。

 お鷺、いや濃――というよりは気分的には帰蝶だろうか、彼女は市女笠から見える景色に胸を高鳴らせていた。


 このお鷺という女性は侍女が一人では間者などを送り込まれかねないということで、美濃から呼び寄せた体で作った侍女だった。

 必要な場面では尾張に放たれている間者を呼び寄せられることになっているが、基本的には衛門が二人一役でこなしたり、帰蝶が化粧を落として顔を隠しながらごまかして存在している存在しない侍女である。


 濃、いや今は美濃の姫ではないから帰蝶としておこう、彼女はやや大きな包みを持っていた。

 包みの中には美濃から持ってきた使わない着物が二枚包まれていた。今後の事を考えての換金もかねて気晴らしに出てきたのである。


「さて、買い取ってくれそうな店はどこだったか」


 賑やかな町には多種多様な店が並んでおり、一つ一つの店を覗いて歩いて行きたい衝動を帰蝶はぐっとこらえた。

 あらかじめ、衛門から町の様子等は聞いてはいたものの、日ごろのうっぷん晴らしに一日中物見遊山をしてしまいそうだった。


「おや、お嬢さん、使いか何かかい?」


 道端にひっそりとたたずんでいた帰蝶は、唐突に話しかけられて驚いた。

 見れば道端に静かに座り込んでいる老婆がいた。顔を布のついた帽で顔を隠しており、老女の前には棒が多く入れられた竹の器など奇妙なものが多く置かれていることから、易を生業にしているもののようだった。


「うん、そんな所かな」

「町に来るのは初めてかい」

「いいえ、でも慣れてはないの。新参者だから」


 老女はくつりと笑った、のだと思う。表情は判断できないが帰蝶の受け答えに興味を持ったらしい。


「随分と気安い娘さんだね――面白い、街案内がてら占いでもしていくかい? 安くしとくよ」

「うーん、いいよ。結構一人で探検するの、好きだから」


 占いには興味がないわけではないが、自分で決めることが有りすぎる状況では例えただの気晴らしだとしても気乗りがしなかった。


「そうかい、気を付けるといいよ。近頃はあれのせいで馬鹿どもが目立とうと必死だからね」

「……馬鹿ども?」

 

 帰蝶が首を傾げると、老女は驚いたように言った。


「おや、知らないのかい。あのうつけ殿がやたら馬鹿を手ごまに加えるから、やれ出世の機会だって若者が派手に立ち回るようになってね――全く、嫁を迎えてもああだというんだから、織田家もどうしたんだか」

「……それはそうかもね」


 老女の言葉には明らかな軽蔑や嫌悪が含まれていて、予想はしていた現実なのだけれども帰蝶は何故か胸がちくりと痛むのを感じた。

 これ以上ここにいてもどうしようもない、帰蝶は軽くお礼を言うとその場を後にした。









 衛門から話を聞いていたよさげな店を見つけ出し手早く換金を済ませても、まだ太陽は頭上にいたままだった。

 日暮れ時までには時間が大分ありそうだった。流石に夕暮れには城に戻らなければならないが、もうしばらくは町を散策する時間がありそうである。


「せっかくだから、衛門にもお土産を買ってくるかな――干し柿とか饅頭とか」


 町には様々な食べ物の香りが溢れていて、丁度お腹が空きつつあった帰蝶はその空気を腹いっぱいに吸い込む。

 体の方も正直にグルっという間の抜けた音をたてて、それがおかしくて帰蝶は笑ってしまった。これでは自分にも立派なお土産が必要そうである。


 匂いにつられるようにして帰蝶は気のむくままに歩き出した。

 気になったものに足を止め、面白そうなものがあれば早足に、とにかく自由に日ごろの鬱憤を晴らすように歩き回り、おいしそうなものがあれば買ってみて、こっそり人目につかないところで食べてみたりした。


「たまにはこんな日もいいですね」

 

 思えば美濃の日々はいつもこんな日々だった。

 自分のしたいことをして、やらなくてはいけないことはするけれど嫌なことは逃げて、やりたいように生きる。

 久々に自由に歩くここで自分が知らず知らずのうちに、必要以上に体をこわばらせていたのだな、と気が付いた。


 だが、だからこそ帰蝶は油断をしてしまったのだといえる。


「あれはどういうことです!」


 まだ幼さの残る怒声は思いのほか近くでした。

 怪訝に見れば帰蝶が休んでいる小道、城下町でも人気が少ない裏通りで数人の少年たちがいさかいあっているようだった。


 まずいことになったかもしれない、と帰蝶は一瞬で悟った。

 今の帰蝶のいでたちは町娘のそれではなく、武家の娘に使える侍女だ。

 騒ぎに巻き込まれても厄介だが、騒ぎを聞きつけた織田家の家臣たちに不審がられ、顔を確認されてしまっても厄介である。


 まさしく袋のネズミの入り口三歩前である。こういう場合は速やかにこの場を離脱するべきだ。幸いにも退路は残っているので、帰蝶は争いを恐れて逃げる貴婦人を装って立ち去ろうとした。


「あなた方は若様をなんだと思っているのですか!」


 速足で逃げようとする帰蝶の足が思わず止まった。

 振り返れば、一人の少年が大柄な若男三人を相手に何かを怒っているようで――その少年は見知った人物だった。

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