八話 土産
日当たりもよく、静かで風通しもよく、そして人通りも大層少ない部屋であるということを濃は三日で悟った。
人通りが少ないというのは、単にここが奥で不便で訪れにくいということもあるが、不用意に濃と関わって土田御前の怒りを買いたくないということと、更に土田御前の怒りを買いうる人物が度々訪れるからという理由が多いようである。
「姫様、十兵衛がお兄様方の文を持ってきてくださいましたよ」
「ありがとう」
部屋に入ってきた衛門の手には大中小の巻物があった。大きさだけで誰の文か何となく察しがついた濃は、思わず笑みをこぼした。
織田に嫁いで一週間が過ぎていた。その間、濃は静かな日々を送っていた。最初の内こそ家臣のあいさつのようなものが有ったが、それももう一昨日から絶えている。
本来なら土田御前の傍に行って嫡男の嫁としてなすべきことをなすべきなのだろうが、彼女は先日の事と息子の奇行のせいか濃と関わることを極端に嫌がるため、本当にすることがなかった。美濃の頃であったら、嫌気がさして半日で城を飛びだしていただろう。
濃は筆を持っていた手を止めて、硯に筆をおいた。乾きかけの紙には、美濃の家族に送るための文がつらつらと重ねられていた。
勿論、これは織田に見られることを前提として書いているため、大分いろいろとぼかしている。――まあ、ぼかしきれないものもあるのは事実だが、それは織田家とて分かっている事だろう。
「十兵衛はこちらには来ていないの?」
「道三様に頼まれたことがあるとかで、後程いらっしゃるそうです」
「そっか」
濃は文を書く作業をやめ、兄たちの文を見ることにした。
文を手に取るや何かを察した衛門が着物を持って外に出ていく、濃の事を案じてくれているのだろう。まず、一番小さな文を開いてみると、二文だけが堂々と達筆につづられていた。
『体には気を付けるべし。その上で己の全てでなすべきことをなすべし。』
武士らしい、言葉が少なくとも重みを感じる言葉だった。
文から少し離れたところに、義龍の署名があり、濃は剛直な兄の顔を思い出し懐かしさがこみあげてきた。
僅か一週間だけ離れただけであるのに、美濃がこんなにも懐かしい。その事実にやはり自分の帰るところは美濃しかないのだな、と思った。そして否が応にも信長の顔が濃の脳裏をよぎり、一瞬浮かび上がっていた帰蝶の顔が沈み込んでいった。
「ふーん、浮かばない顔だな」
物思いにふけっていたからか、いつの間にか背後を取られ濃は叫びそうになった。
ギリギリで堪えたものの、振り返れば実に面白そうな顔でこちらを見ている信長がいた。
「……何か御用ですか、信長公」
相変わらずいっそ清々しいぐらいに着物を着崩している姿には慣れっこだったが、こういう登場には慣れっこではないし、正直抗議もしたい。
この男が定期的に濃の元を訪れるために、ただでさえ土田御前と事を起こし城中から距離を置かれている濃はますます土田御前の不況をかって腫物扱いを受けることになっているのだ。これではただでさえ難航しそうな傾国の女になれそうにない。
礼儀知らずの来訪に多少なりとも不快を顔に表している濃を気にも留めず、信長はあっさりと言った。
「いや、顔を見に」
「そうですか、顔はもう見えましたけど」
「ああ、だから帰る」
「……はい?」
呆気に取られる濃にも構わず、信長はあっさりと踵を返した。
本当に顔を見に来ただけだったのだろうか、困惑を隠せない濃は先ほどまではなかった手のひらほどの大きさの紙袋が落ちていること気が付いた。
慌てて紙袋をつかみ廊下へ顔を出す、袋の中は何やら湿っていて奇妙に柔らかいが、気になど止めてはいられない。
「信長公、お忘れ物が!」
「それは土産だ、好きにしろ」
土産とはもっと別の渡し方をされるものではなかったのか、文句を言いたい気もしたがどうすればよいか分からず、濃は何も言えないまま何を考えているのか分からない背中を見送った。
信長が立ち去ってから紙袋を開いてみると、ある意味予想内のものが出てきた。奇妙な感覚からまともな物ではないと覚悟していたが、その通りに中身はカエルだった。
しかも生きているらしく、カエルは濃の手の中でゲコッと小さく鳴く。正直、何から何まで意味が分からなかった。
困惑して立ち尽くす濃のもとに、様子を見ていたらしい衛門が勢いよく飛んできた。
「姫様!? 今信長公がいらしたみたいですけど、なにかされませんでしたが!?」
「何もされてはない、と思う。多分」
「それなら良かったですけども――って姫様、そのカエルどうしたんですか?」
美濃の頃ならともかく、きっちりと正装をしている濃の姿にカエルは大分奇妙な姿だった。眉を潜める衛門に濃は肩をすくめて見せた。
「土産だそうよ、よく分からないけれども。衛門、悪いけれども適当なところに逃がしておいてあげてくれないかしら」
「それは分かりましたけど――あの男、何を考えているんだか。姫様に対して無礼にもほどがあります」
スッと衛門の猫目が横に細められた。元々が真面目であり、濃の事を姉のように心配している彼女はどこまでも信長が嫌いと言うか相性が合わないようだった。
衛門は濃の手のひらからカエルをつまみ上げると、ため息をついた。
「まったく、道三様もなんでこんなに分かりきったことに姫様を送り込んだんだか……。正直理解しかねます。姫様、早く美濃に帰りませんか?」
「そんなことを言わないの。――誰が耳にしているか分からないでしょ」
「それもそうですね、失礼しました」
衛門は苦笑をすると土産に使われたカエルを庭に放しに行った。城中の者とすれ違えば多少奇妙にもうつるだろうが、信長の奇行が知れ渡っている現状ではそれに振り回された哀れな侍女としか見えないだろう。
カエルの湿った感覚はまだ帰蝶の手の中に有った。
衛門がよく主張する早く美濃に帰る、という意味は手に取るようにわかっていた。早く信長を暗殺し美濃に姿をくらませる、彼女としては自分の主がうつけの行動に振り回されている様が納得いかないのだろう。だが、濃はそれを決断できずにいた。
信長は奇妙な男だった。先の様な奇妙な振る舞いを濃にむけてすることも珍しくない、というか日常的にあるといっても過言ではない。
しかし、その全てが単なる愚か者ではないような、何ともいえない違和感を濃は覚えるのだ。
それに何よりも奇妙なことと言えば、信長が一度も濃の元を夫婦として訪れないという事だろう。信長は日中に訪れることはあったが、夜に所謂夫婦の目的で訪れることはなかったのだ。濃も嫁として来たからにはそれ相応の覚悟はしていたし、衛門は衛門で信長が来たらいかなる手を使っても追い払おうと息巻いていたので二人ともいささか拍子抜けをしていた。
全くつかみどころがなく理解が出来ない男、織田信長に対して濃はどうすればいいのか分からずにいた。
「姫様、カエルを放してまいりましたよ」
「あら、お帰り衛門」
衛門は信長のせいで大層な仏頂面をしていた。よほど信長の奇行とそれに濃が振り回された事実が腹に耐えかねないのだろう、相変わらずのことだが彼女らしかった。
「そこの庭で放してきましたよ、まったく本当に何を考えているんだか――これで今日も信長公のおかげで暇になりましたがね!」
「……そうね」
織田家の問題のほとんどの原因を一身に背負うと言っても過言でもない男に誰だって寄りたくない。ある意味信長は最強の人除けだった。
「あー、もう分かりました!」
皴の寄った眉間に手を当てどうにもしがたい難題に悩むかのような衛門の顔は、美濃のころによく見た出奔した帰蝶を捕まえて説教をしだす寸前の顔によく似ていた。
「姫様、病になりましょう」
「衛門?」
普段真面目である彼女にしては信じがたい言葉に、濃が目を丸くするとやけくその勢いのまま衛門が続けた。
「息抜きだって重要ですし、現状打破につながるかもしれません。それにこのままだと姫様が腐ります!」
「腐るって私はお野菜でもお魚でもないんだけど……」
衛門は濃のことをどう思っているのか少し心配にならないでもないが、彼女の提案は魅力的だった。このまま、ただ織田家で信長の妻としておとなしく振舞っているだけでは、全てにおいて決定打にかけ停滞し続けるだけだし、何よりも退屈だった。
「姫様、どうされますか?」
「どうって、そんなのは決まっているでしょ!」
問いかける衛門に濃はにっこりと笑いかけた。その笑顔は深窓の令嬢の濃というよりは、こっそり稲葉山城を抜け出す前の帰蝶の顔だった。
「そう言われると思いました」
衛門もまた嬉しそうに、どこか懐かしげに濃に答えた。
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