四話 柿、食うか
雰囲気とはかくも簡単に崩れ去るものである。
お互いどう行動すればよいのか分からず困っていた濃と犬千代は、信長の突飛な発言にそろって怪訝な顔を浮かべた。
「柿、食うか」
信長はもう一度そう言うと、懐から干し柿を取り出し、目線で濃にも問いかけてくる。
甘そうな橙色の実に、濃は一瞬誘惑に流されそうになったが、首を振って断った。
が、育ち盛りの少年は違ったらしい。目を輝かせると両手を信長に差し出す。
「いただきます!」
しばらく二人は無言で干し柿を食べ始めた。濃は美味しそうに食べる両者に、貰えばよかったかと軽い後悔を覚える。無論、言い出すことなどできないが。
することもないので、濃は城下町をぼんやりと眺めた。行商人の数、店の活気、賑わい、全てにおいて美濃よりも正直勝っていた。海が近いからか、新鮮な魚のようなものもあって、おいしそうだった
と、喧噪の中に濃は奇妙な音を聞いた。馬の蹄の音だ、それも全力疾走している馬の切羽詰まった足音。
「信長様ぁぁぁぁぁ!」
少ししゃがれた全力の叫び声に濃は既視感を覚えた。
普通ならば驚くだろうに、当の信長は平然と柿を食べている。
その堂々たる振る舞いは大したものだと濃は一瞬思ったが、周りの町人が平然としていたり、犬千代が少し顔を引きつらせているあたり、これは日常的なことなのであり、慣れなのだろうと理解した。
「信長公、このお声はどなたのものですか」
「平手の爺さん、多分俺が勝手にお前を連れ歩いているから探しているんだろうな」
信長は他人事のように言って、最後の柿の一かけらを飲み込んだ。
「犬千代、逃げるぞ」
「に、逃げるんですか!?」
思わず言ってしまった濃であったが、脳裏には美濃で似たような事を衛門や十兵衛相手にやっていたので、ばつの悪さのようなものを覚えた。
「……そうだな、濃、お前は先に城に戻れ」
「はい!?」
「わ、若様よろしいのですか」
「最近、平手の爺さんの説教は長いから」
明らかに問題はそこではないと思うが、信長はあっさりとそう言うと濃を抱きかかえた。思わず濃は抗議の声を上げる。
「信長公!」
「俺はまだすることがあるから、夕刻に城に戻る。案内も大体終わったから問題ないだろう」
濃の抗議は抹殺され、信長は積み荷を降ろすかのようにあっさりと濃をおろした。美濃の姫君として何か言うべきかとも思ったが、上手い言葉が思いつかない。
後方では馬の蹄の音が接近していて、しがみつくようにしている馬上の老人の姿が確認できた。
「平手の爺さんについて行けば問題ないから、あとはよろしく。行くぞ、犬千代」
「えっ、ですが奥方様が」
「良い、問題ない」
そう言うと、未練も何もなく信長は踵をかえす。その後ろ姿は思いのほか大きくて、思わず吸い寄せられるように濃は見てしまう。
「ああ、そうだ」
濃の視線を知ってか知らずか、信長は言い忘れたと振り返った。
「お前、面白いやつだな」
ニヤリと口元に浮かべられた笑みの真意は分からない。
だが、少し細められた目の澄んだ色味や、人を引き付ける油断のならなさが――父に似ている、と何故か思った。
信長はそれだけ言うと、濃に背を向け、馬の腹を蹴りだそうとし――
「私も」
堂々としつつも澄み切った声音に、信長の動きが止まった。
「信長公は面白いと思います」
それは美濃の姫君というよりは、自分の帰蝶としての言葉のようであった。
思わず何の先見もなく言ってしまった言葉に、濃が自身でも驚いている中、信長は一瞬の間を置いて馬を駆けだしていった。
表情は分からない、だが面白そうに笑ったような気が濃はした。
間もなく、切羽詰まった馬の蹄の音が濃の背後で止められた。
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